台所から漂って来た匂いに腹がクルクル…と匂いの元を求める鳴き声を上げたが、果たして彼の元まで行って良いのかと迷いの表情を浮かべる望月の肩をチョンチョンと何かが突付いて来る。ゆっくりと振り向くと、彼が首を傾げていた。
「どうしたの?難しい顔して…ご飯出来たよ」
「……………あぁ…」
予想に反して相手の表情はさっきまでの引き攣った顔ではなく、普段の柔和なそれに戻っていたが、それでも望月は中々ソファーから立ち上がろうとしなかった。
「…………?どうかした?」
「…いや、何でも無い……」
「………変なの。早くおいでよね。ご飯冷めちゃうよ」
望月の暗い表情に早坂は改めて細かい瞬きをしながら首を傾げたが、敢えて追求はせずに居間から姿を消す。後に残された望月は溜め息を吐き、それをそのまま深呼吸に繋げてソファーから立ち上がった。
美味そうな湯気が立ち昇る食卓に着いたものの中々箸に手を伸ばさずに、例の暗い表情でじっとテーブルの上を凝視していると、駿君…と心配そうな声が聞こえて来た。
「食べないの?気分でも悪いのかな?」
「……………………」
自分に合わせているのだろうか箸を持たずに声と同じ表情で自分を見詰めて来る早坂に望月は小さく唇を噛み締めたかと思うと、いきなりテーブルにぶつけんばかりの勢いで頭を下げた。
「…ごめんっ!!」
「………えっ?」
突然の謝罪に目を白黒させる早坂の顔は窺わず、ただひたすらテーブルに視線を集中させながらずっと考えていた言葉を口にする。
「……お、俺………何も出来なくて…役立たずで……何をやっても失敗して、良ちゃんに余計な仕事させて…。………良ちゃん、俺に幻滅した?俺の事、使えないとか…邪魔とか思ったんじゃないか?あんなに怒ってたし…」
「何だ、そんな事か」
「………?」
予想外の返事に思わず顔を上げると早坂はクスクスとおかしそうに笑っていた。
「あれ位の事で幻滅してどうするのさ。人間、向き不向きってあるじゃないか。僕、きっと駿君に不向きな事ばっかりさせたんだよ。……だから、僕の方こそ謝らないと…。ごめんね、苦手な事を押し付けた上にあんな事で怒ったりして。僕、もう怒ってないし、駿君の事邪魔だなんてちっとも思ってないから」
「マジで?マジでもう怒ってない!?俺を捨てたりしない!?」
さっきまでとは正反対な表情になって身を乗り出す望月に早坂は笑顔で頷いた後、急に真面目な顔になった。
「君の事は置いて行けないって言ったじゃないか。……それに…駿君が邪魔だなんてとんでもないよ。君が側にいるだけで僕は凄く安心するんだから。多分、僕よりも君の方がずっとずっと役に立ってると思うよ?もしかしたら、役立たずなのは僕の方なのかも………」
「そんな事ねぇって!!見ろよ、このテーブルの上!これ全部良ちゃんが作ったんだろ?実家でもこんなに色々作ってくれねぇっつーの。…俺1人だったらさ、絶対何も出来なくてゴミ箱みたいな部屋でコンビニ弁当生活だったと思うし…。ヘヘッ、家事が立派に出来て優しくて可愛い嫁さん貰えて幸せだなーっ♪」
実家の食卓事情を暴露しつつ自分にとっていかに相手の存在が大きいか熱く語る望月に早坂の顔は見る見る真っ赤に染まっていった。
「よ、嫁って…………。あ…あぁもう良いからご飯食べよ!君は僕が好き、僕は君が好き!コレで万事解決仲直り!!ほら、早く食べないと冷めるよ!」
「そうだな。それでは新妻の手料理をいただきますか!」
赤い顔で両手を振りながら俯く早坂の様子をニコニコと上機嫌な笑顔で見詰めながらやっと箸を持ち、湯気の立ち昇る肉じゃがにそれを伸ばす。俯きながらも自分の料理に対する反応を知りたいらしくコッソリ上目遣いで自分を観察する早坂に改めて笑いかけた後、口の中に程よい大きさに切られたジャガイモを放り込んだ。
「――――――っ!」
口の中に入れた瞬間に下に広がった何とも言えぬ舌触りと味に手で口を覆ってゆっくりと咀嚼する望月はチラリと調理人に目をやりつつ心の中で呟いた。
(……ヤバイ…ウチの肉じゃがより美味いかも……いや“かも”じゃなくてマジで美味ぇ…)
「……………………」
望月が料理に箸をつけて口に入れる瞬間までは目を輝かせていた早坂であったが、相手が何も言わずに口を押さえてモゴモゴと咀嚼している内に瞳の輝きが見る見るうちに消えていき“不安”の一言が輝きを失った瞳の中に表れる。望月の眼前に空の皿が突き出されたのはそれからすぐ後だった。
「……ご、ごめんね!美味しくなかったんだよね!?ほら、飲み込めないならコレに吐き出して!」
「!!???」
思わぬ反応に目を白黒させる望月をよそに早坂は殆ど泣き笑いの表情で忙しくテーブルの上の料理の皿を掻き集め始めた。
「ほ、本当にごめん……今から駿君の夕ご飯買って来るからね。あ、勿論コレは僕が責任とって全部食べるから…」
「んぐっ……良ちゃんっ!!」
初めて口にする“新妻”の手料理の味をもう少し堪能したかったのだが、その手料理を片付けられてしまっては元も子もない。望月は忙しく口の中のジャガイモを飲み込んだ後、早坂の手首を掴んだ。
「馬鹿、違うって!真逆だよ真逆!!美味過ぎて何も言えなかったのっ!!」
「良いんだよ、無理しなくたって。…美味しくも無い料理を無理に食べて貰っても嬉しくないもん!!」
「んな事言う前に自分で食ってみろって!美味いか不味いかはその後に言えよ」
眼に涙を溜めて拗ねた子供のような声をあげる早坂を何とか押さえながら箸で例の肉じゃがのジャガイモを掴み、自分で作った料理に文句をつけている口の中に放り込むと、早坂は一瞬目を丸くし、望月と同じように口を押さえて黙り込んでしまった。
「正直に言えよ?美味いか?不味いか?」
「……………図々しいかも知れないけど…美味しい……」
「良ちゃん、ちゃんと作る時に味見したんだろ?」
「…うん、勿論だよ。……駿君に美味しいって言って欲しかったから…」
「それで、味見してコレなら喜んで貰えるって思って出したのが、この料理なんだろ?」
「……うん。で、でも好みってあるじゃないか。だから駿君にとっては美味しくなかったのかなって……」
「そんな事無いって」
まだ自信無さげに下を向いてポソポソと言う早坂の身体を望月は包み込むように抱き締めた。
「良ちゃんが俺の為に一生懸命作ったんだ。不味い訳が無ぇだろ?」
「……嘘…じゃない?」
「嘘じゃないって。嘘だと思うなら俺の顔見れば良いだろ?」
「えっ…………」
不思議そうに顔を上げると視線の先には満面の笑顔があった。
「良ちゃん、俺が嘘吐いてる時ってどうなるんだっけ?」
「……小さく頬が引き攣れる」
「今、俺の顔どうなってる?」
「…………凄く幸せそうに笑ってる……全然嘘吐いてない…」
言っている内に胸の中に様々な感情が渦巻き、その渦に耐え切れなくなった心が涙に変わって頬を伝って来る。どうすれば良いのか分からなくなった早坂は、とにかく目の前にある広い胸に顔を埋めた。
「……ごめん………疑ったりして……駿君、本当に美味しいって言ってくれたのに…僕………」
「気にするなって。俺マジで嬉しいんだぜ?良ちゃんが俺を喜ばせようって頑張ってメシ作ってくれた事がさ」
「駿君…………」
「ほら、早く食べちまおうぜ。折角の料理だから温かい内に食べないとな」
早坂の背中を丁寧に擦った後、微かに顔を上げた隙を突いて額に軽く口付けをする。涙ぐんでいた顔は瞬く間に笑顔に変わり、その口付けはまるで魔法のようだった。
漸く落ち着いて席に着き、互いに向かい合って食事をしていると早坂がクスッと小さく笑った。
「駿君、口元にごはん粒付いてるよ」
「え?あ、何処?」
「そっちじゃないよ、右の方……もう…本当に子供みたいなんだから」
見当違いの場所を指で撫でる自分に手を伸ばして来たかと思うと、温かい指が頬に触れてそのまま離れて行く。離れた指に摘まれた米粒を見て、望月は心の中で呟いた。子供か……。俺に言わせればお前の方がずっと子供っぽいと思うんだけどな。ま、それを言えば顔を赤くして“そんな事ない”って、これまたお子様な反応をしてくれるのが目に見えてるから敢えて黙っておくけど……
「駿君、何で人参避けてるの?」
早坂の声に我に返ると同時に小さく肩を揺らし、密かに自分が皿の隅に作った赤い山を見る。恐る恐る視線を山から前方に移すとバチッと相手と目が合ってしまった。
「あ、もしかして人参嫌いなの?駄目だよ、人参にはカロチンが一杯含まれてて……」
「んな事言われても嫌いなモンは嫌いなんだよ!」
「……折角作ったのにな……。全部食べろとは言わないから…1個でも良いから食べて貰いたいな…」
情に訴える作戦なのか純粋な本音なのか、とにかく少し悲しそうに俯いてしまった早坂に望月の胸の辺りがチクリと痛み出す。情の痛みに胸を押さえる自分には目を向けず、ただひたすらに下を向いたまま唇をキュッ…と噛み締める早坂を見た瞬間、チクチクと痛んでいた望月の胸を何かが激しく貫いた。
「わ、分かった!食う!食うからさ!!そんな顔するなよ、な?な?」
何とか笑顔を見せながら立ち上がって早坂の肩を軽く揺らすと漸く顔が上を向き、大きな瞳に必死な自分が映し出される。本当?瞳の主がポツリと言うのが聞こえ、自分はその声に思わず調子に乗ってしまう。
「良ちゃんが、あーんって食べさせてくれたら食べる!……なーんて…」
「そんな事で良いの?じゃあ、食べやすい大きさにして…っと……」
「……え」
軽い冗談で言った台詞だったのだが、早坂は真に受けてしまったらしく皿の上に乗った人参の一切れを箸で丁寧に小さく切り、殆ど欠片に近い状態のそれを箸で摘む。左手の箸の下に右手を添えながら、早坂は小さく首を傾けて例の愛らしい笑顔を見せた。
「はい、あーん」
「……あ、あーんっ…」
実際にされると微妙な照れ臭さを覚えたが、それでも箸の先に食い付いて小さな人参を口の中に運ぶ。苦手な甘味と匂いに微かに顔をしかめながらも何とか喉を鳴らして飲み込むと、早坂は嬉しそうに微笑んで髪を撫でて来た。
「よく食べました!偉い偉い」
「…ヘヘッ……何かマジで新婚さんみたいだなぁ俺達」
「ちょっと他の人には見せられないけどね」
少し気恥ずかしさを感じてきたのか微かに顔を赤くしてはにかむ早坂に同じような笑顔を返し、水を飲んで口の中に残る例の甘味を喉に流し込んだ望月は内心でニヤニヤとだらしなく笑った。嫌いなモン食うのはちょっとキツイけど、良ちゃんの嬉しそうな顔見れるなら安いもんかな、と内心で呟きながら。
それから1週間程経ったある日の午後。とある大学の敷地内にある中庭で望月は入学早々親しくなった友人達の前で弁当包みを広げていた。
「あれ?望月って実家からだっけ?」
「え?いや、実家出てアパート暮らしだけど……何で?」
「いや、だって……その弁当…。それ、もしかしてお前が作ったのか?」
彩り鮮やかな弁当に目を丸くして覗き込んで来る友人達の反応に望月は得意げに鼻をヒクつかせた。
「そう思うか?実はさぁ…これ、同居人が作ったんだ」
「えっ!?望月彼女いたんだ!もう同棲してんのか?はっやー……」
“同居人=彼女”と思っている、まぁ自分と似たような感覚の持ち主である友人の反応を見てニヤリと笑いながら弁当の中のきんぴらごぼうに箸をつける。
「ま、そう言う事。可愛くて優しい、最高の恋人と同棲中♪」
恋人と言う性別を特定しない呼び方に変えて、何時も通りの期待を裏切らない味の弁当をパクついていると周辺で溜め息の嵐が吹き荒れた。それに続くのは“最高の恋人”に関する質問のラッシュ。名前は?良ちゃん。へぇー良子ちゃんか。……(…良麻なんだけどな。ま、いっか)マジで可愛いの?可愛い。その弁当美味い?マジで美味い。その子見たいから遊びに行って良い。うーん、ちょっと待て――――
「その子が家事全部してるのか?」
「あぁ、そうだけど?俺、家事全般駄目だからさ。だから家じゃ俺は基本的に何もしないで至れり尽せり……」
「たまにはそれに対しての感謝のプレゼントとかしてるか?」
「えっ……………」
プレゼント。思わぬ言葉に固まってしまった望月に友人は呆れたような溜め息を吐いた。
「何にもしてないのか?それじゃ、お前何時か捨てられるぞ。たまには何か買ってやるなり食事に連れてくなりしてやれよ。いくらお前の言う“可愛くて優しい最高の恋人”でも、そんな調子じゃ長くもたねぇぞ?」
「………………………」
友人の発言に何時か見た悪夢を思い出し、自然と口をつぐんでしまう。結局、望月の自慢の恋人の話は其処で終了して彼らは別の話題で盛り上がり始めたが、その後も望月は余り話に参加せずにボンヤリと一点を見詰めていた。
「はぁ………」
大学からの帰り道、望月は溜め息を吐きながら鞄から財布を取り出した。頼りなく薄い財布の中には千円札が1枚と小銭が少々。後は会員カードやポイントカード。これでは友人が言っていたようなプレゼントや食事は到底無理だ。どうせ家に帰っても家事もせずにゴロゴロと暇を持て余すだけなのだから…
「バイトでもすっか……」
そしてアルバイトで貯まった金で普段の小遣いではちょっと手の届かないレストランに良ちゃんと一緒に行って、其処で料理を待ってる間にこれまたちょっとお高いプレゼントを渡して、受け取った良ちゃんってば顔を真っ赤にしながらも“有難う、駿君…”とか言って笑ってくれたりして………
「えぇっ?どうよ!これってどうよっ!!」
またしても妄想世界で一人で盛り上がり、照れの余りに手を振り回しながら叫ぶ望月を通行人達は怪訝そうな顔で見たり、露骨に避けたりしたが既に妄想の実現化に頭が一杯になっている望月は自慢の足でバイト探しの為に街の中を駆けた。