安宿から出て来た少年は自分に駆け寄る影に気が付いた。影の正体である中年に差し掛かりかけた男が目の前で止まり、僅かに息を切らしながら口を開いた。
「探したぜカキア。今夜も出るんだろ?試合によ」
「………あぁ、確か半刻後だっけ?」
ポケットに両手を突っ込みながら無愛想に答える少年に男は相変わらずだな、と笑いかけた。
「そうそう。半刻後、何時もの広場でな。…お前、最近連勝続きだろ?賭けにならねぇって不満が出て来てるんだが……」
「うるせぇな。八百長試合ならする気は無いぜ。台本通りに戦って…殴られて何が楽しいんだ」
苦笑を浮かべる男に冷たい視線をやりながら少年は赤毛頭を軽く振り、男の横を素通りした。
半刻後の広場。脱出不可能にしているかのように周りを取り囲んでいる酔っ払いや麻薬中毒者、悪趣味な貴族。
この試合に金を賭けている観客達だ。試合…と言うよりもタダの殴り合いであり“どちらかが起き上がれなくなるまで戦う”以外にルールは無いのだが。
人で出来た円の中心に立つ少年は軽い伸びをしながら溜め息をついた。あーあ。分かっちゃいるけど腐ってるよな。ココは。まぁ、稼ぐ事には困らないのは有り難ぇんだけど。
目の前にいる相手を軽く睨みながら、少年は心の中で冷たい笑みを浮かべる。悪ぃな。俺、さっきまでヤられて御機嫌斜めなんだよ。ちょいとストレス解消に付き合ってくれるよな?正直、腰は痛いわだるいわで散々なんだわ。ま、これもハンディキャップだ。俺って優しいとこあるだろ?
試合の始まりを知らせる声が響くと同時に少年は相手に急接近し、力の限り殴り付けた。鈍い音が耳に、口からの鮮血が視界に飛び込んで来る。罵声やら何やらが観客の間から出て来るが気にはしない。うるせぇな。賭けたそっちが悪いんだろうが。
相手に罪は無いのだが、不機嫌な少年は自己制御が出来なかった。相手に馬乗りになり、ひたすら殴り続ける。拳や顔にピチピチと音を立てて血が飛び、相手の抵抗の一撃が頬に当たるが構わずに殴る。ついさっきまで抱かれていた事に対する怒りとも憎しみとも惨めさとも付かぬ奇妙な感情をぶつけるかのように。
「オイッ!止めろ!!もう勝負はとっくの昔についてるんだぞ!」
「………えっ…?」
少年が我に帰ったのは拳を振り上げた腕を審判(と言うほど大それた存在ではないが)の男に掴まれた時だった。気が付けば、眼前の相手の顔は醜く変形し苦しげに呻き声を上げていた。
「…………………」
やべぇ。やり過ぎちまったか。小さく舌打ちをし、赤い血に染まった拳を見ながら立ち上がり、無表情で賞金に当たるはした金を掴む。さっきまでの喧騒は嘘であったかのように静まり返る観客達の視線を背中に感じながら少年は夜の闇へと消えて行った。
少年が去り、ガヤガヤと僅かづつながら元の喧騒を取り戻しかけていた観客達の間から新たな叫び声が響いた。
「やべぇ!!帝国兵だ!!」
その声を聞いた人々はワッと蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、残されたのは少年の“ストレス解消”の犠牲となった相手の男と既に小さな点と化している逃亡者を僅かに息を切らしながら睨み付ける長身の帝国兵のみだった。
「…ったく……何や知らへんけど逃げ足だけは御立派やなぁ。…とと、アンタ大丈夫かいな?アイツらにやられたん?」
奇妙な言葉使いの青年が倒れている人間に近付き、声をかける。血まみれの男は呻きながら低い声を絞り出した。
「……アイツらじゃねぇ……。カキアにやられた………」
「カキア?」
その名を耳にした瞬間、青年は僅かに眉を顰めた。
少年は紙袋をブラブラと振り回しながら橋の上を歩いていた。さっきの賭け喧嘩で得た金の一部で食料を買い、食べる場所を探しているのだが、さっき寄ってみた公園(と言うには余りにも爽やかさに欠けているのだが)は時間帯の関係もあってか宿賃さえも使いたがらぬ男と娼婦が至る所でお楽しみの真っ最中。ヨロシクやっている所を見ながら食事をするほど悪趣味ではない。寧ろ、さっきの苦痛を思い出して嫌悪感を覚えるだろうからサッサとその場を後にした。
食事の場所を橋の脇にある土手に決めて腰を下ろし紙袋からパンを取り出す。炙った肉を挟んだだけのパン1枚。これが今日の最初で最後の食事だった。その貴重な食料に齧り付こうとした時、背後でガサッと言う音がした。
「!!」
反射的に立ち上がり、後ろを振り向く。この腐った街での事。強盗や狂った中毒者に何時背中を刺されてもおかしくない。だが、今回はそうではなかったらしい。視線の先には人間の姿は無く、舌を出した犬が尻尾を振って自分に近付いていたから。
「……何だ、お前かよ。吃驚させんなよな」
非難めいた口調ではあったが顔は笑っていた。今までとは別人であるかのようなあどけない笑顔を見せている少年は持っていた食料を半分に千切り、やや大きくなってしまった方を犬の方に投げた。尻尾を千切れんばかりに振りながらパンに食らい付く犬を見つめながら自分もパンを齧る。食事は呆気なく終わった。
「さてと………」
手を払ってパンの粉を落としながら今後の予定を考える。もう一人・二人位ベッドに誘い込んで稼ぐか?考えながら苦笑を浮かべ、自分の頬を舐めて来る犬の頭を撫でながらポツリと呟いた。
「お前よりも俺の方が下かもな。今の俺は野良犬以下だ」
幼い頃から父親に叩き込まれた槍術は使わず、護身用に教え込まれた体術は賭け喧嘩の道具になっている。母親が産み落としてくれた身体は男の性欲を満たす道具になっている。…悲しむだろうな、二人とも。おたくの息子さんは、こんな裏街で喧嘩や売春してるんですよってか。犬とじゃれながらもボンヤリと考え込み、溜め息が漏れる。だから少年は気が付かなかった。後ろからそっと近付く人間の影に。
「こんな所で遊んでたら悪いおじちゃんに襲われるで、赤毛のお坊ちゃん」
「!?」
肩をビクッと大きく上下させながら振り向くと、影の正体である見た事のない青年が立っていた。年の頃は自分よりやや上か。鳶色の髪、左耳にピアス、女性を楽しませる目的の酒場で働いていても違和感を感じさせない位の色男。一見すれば女目当てにやって来た感じの遊び人。だが、少年は普段の冷たい瞳を取り戻しつつ、青年を観察した。着ている鎧の胸元に彫られた紋章から見ると彼は帝国兵。だが、その鎧の質素さから見ると新兵であろう。そして何よりも、遊び人風を装っているが貴族独特の風格らしき物が滲み出ている。
「……どないしたん?俺の顔に何か付いとるか?落書きでもされとるんやったら言うてや」
言うだけ言ってアハハッと笑う。その笑顔は人懐っこく、普通なら親しみやすい印象を与える物だったが少年にとっては人を小馬鹿にしたような笑顔にしか見えなかった。
「貴族様がダセェ鎧来て何してんだ?」
無感情な目で睨み付けるが、青年の方は動じずニッと改めて笑顔を見せた。
「んな怖い顔せんでえぇやろ?それに…俺が貴族出身やってどないして分かったん?」
「お前、それで隠してるつもりか?貴族には貴族の薄汚い風格みたいなもんがあるんだよ」
それに俺は貴族襲って金取ってるんだぜ、と言いかけたが、その言葉は慌てて飲み込んだ。こんな所で帝国兵に捕まるのは余りにも馬鹿馬鹿しい。
「薄汚い、か………。そうかも知れへんな」
青年はポツリと呟いたが、その声は小さかったので少年の耳までは届かなかった。ひたすら自分を睨み付けている少年に思わず笑顔が苦笑に変わる。
「……まぁ、ええわ。その話は今はどうでもええねん。あのな、お前カキアって奴知らへんか?」
「…カキアに何の用だ?」
「いや、さっきボコボコにやられとった奴おってやな。応急処置して話聞いたらカキア言う奴にやられた言うてたから……」
心臓が大きく跳ねた。ボコボコにやられた奴と言うのは、さっき自分が賭け喧嘩でストレス解消してしまった奴ではないか。そして、帝国兵である青年がそのボコボコにした男を捜している。もしかして…俺を捕まえようとしている…?
「カキアを見付けたらどうするんだ?」
「んー…。とりあえず見付けてからやな。何や?お前知っとるんか?」
「い、いや……………」
語尾を濁らせながら俯く。青年の目を見る事は出来なかった。見ると、全てを見透かされてしまいそうだから。今でこそ、自分の名前も何もかも偽っているが元々自分は嘘が得意な方ではない。寧ろ、正直者の部類に入る。だから、その事がばれないように必死に目を逸らす。
「嘘はアカンで、カキアちゃん」
「えっ!?」
頬を両手で掴まれて軽く引っ張られながら視線を合わせられる。青年は、矢張り笑っていた。やや混乱し、目を丸くしている少年を青年は面白そうに眺めていた。
「お前、有名なんやで?ノッポで赤毛のカキアちゃんってな。ココまで派手な赤毛もそうそうおらへんもんなぁ。こんな染めたような赤毛」
「う、うるせぇな!!」
クシャクシャと馴れ馴れしく髪の毛を掻き回す手を振り払おうとするが、青年はそれさえも面白そうに眺めていた。
「あーあ、ムキになっとるんか?ガキやなぁ」
「クッ……てめぇ…殺すぞ……!!」
ガキ発言に抗議の声を上げるが青年は目を細めて笑ったまま。だが、暫く見つめていた後ふっと笑顔を消した。その消え方は少年も拍子抜けして抗議を一時中止してしまう位だった。
「……なぁ、お前名前何て言うんや?」
「馬鹿かお前。自分で俺の名前言ってたじゃねぇかよ。カキアって。」
「俺が聞きたいのは、そっちの名前やない。お前の本名や。間違っても自分の大切な息子に“悪徳”を意味する名前を付けるアホ親なんておらんのやで?」
「…………!」
少年の顔が凍り付いた。見透かされてる。そう感じた。そう、カキアは偽りの名。全てを憎み、自暴自棄を起こし、それでも親が付けてくれた名を名乗る事が出来なくて…そして自分で考えた悪徳の名。その事に青年は気付いているのだ。
「……そんなの関係ねぇだろ。お前なんかに」
必死に不機嫌な声を作り、そっぽを向くと横目に青年の苦笑が伺えた。
「…自分を偽った生き方かいな……ま、ええわ。今日ん所はもう帰りや。お前捕まえようにも証拠があらへん」
言いながらポケットに手を突っ込む。暫く、ポケットを弄った後出て来た手には飴玉が数個握られていた。その飴をそのまま少年に握らせると飴玉を手の平に乗せた少年はきょとんとした顔を見せた。
「何だよ、これ」
「見たら分かるやろ。飴玉や。お前位のお子様は甘い物が大好きやろ?」
「てめぇ!…またガキ扱いしやがって……!!」
腕を振り上げて飴を投げ付けようとするが、手首を掴まれて妨害される。離せよ、と抵抗する少年の顔を青年はゆっくりと覗き込んだ。
「さっきから“お前”やの“てめぇ”やの失礼なやっちゃなぁ。…って、俺まだ自分の名前言うてへんかったか」
一人でベラベラ喋り、アハハッと笑いながら頭を掻く男に苛立ちを感じながら冷たい視線を浴びせるが青年の方は動じずに自分を指差した。
「俺、ワレンシュタイン言うねん。長ったらしい思うなら短く呼んでも良ぇわ。お前に任す。もう名前教えたんやから、今後は俺の事“お前”呼ばわりすんなや」
「何だよ……じゃあ、お前も俺の事をお前呼ばわりするの止めろよ。さっきから馴れ馴れしいったらありゃしねぇ」
「俺がお前の名を呼ぶ時は、お前が本名教えてくれた時やで。間違ってもお前の事“カキア”って呼ぶ気にはならへんわ」
「……………………………」
黙りこくる少年の手首をそっと離しながら、ワレンシュタインと名乗った青年はニカッと何時もの笑顔を見せ、ゆっくりと背中を向けた。歩き出す。もしかしたら呼び止められるかも知れない。飴玉をぶつけられるかも知れない。だが、その予想は二つとも外れていた。結局、青年が去るまで少年は微動だにしなかったのである。
変な奴。既に見えなくなった青年の背中に向かってポツリと呟きながら、飴玉の包みを取って口の中に放り込む。口の中に甘酸っぱさが広がったかと思うと柑橘類の心地良い香りが鼻腔を刺激する。飴を口にするのは久し振りかも知れない。甘い物が好きである事は隠して置きたかったので、この町に来てからは一度も口にしていなかった。口の中で飴玉を転がしながら当てもなく歩く。
口の中の飴が完全に消滅する頃、背後から声をかけられた。振り向くと、傲慢そうな貴族の中年男が舐めるように自分を見つめている。何だよ、と口を開く前に中年の方が声を出した。
「聞いたぞ、君は250クラウンで抱かせてくれるそうだな?…そして“追加料金”を払えば、もっと凄い事もさせてくれるそうじゃないか」
「………………」
僅かに戸惑いの表情を浮かべる。250クラウンで自分の身を捧げるのは事実だが“追加料金”の事は自分でも初耳である。初めて身売りをした時、中での放出を許した際に割増した事だろうか。何にせよ、目の前にいる中年男は自分を買いたいらしい。自分との交わりを求める男に少年は小さく頷いた。
少年が安宿で中年に弄ばれている時、青年は別の通りで煙草に火を点けていた。壁に背中を預けながら煙草の煙を吐き出す。たった今、奴隷商人との取引をしていた集団を押さえ軽く料理した所だ。料理…と言っても御得意の剣技でも初歩中の初歩である峰打ちで相手の自由を奪っただけなのだが。後は、同僚が彼らを縄で縛り付けて連行するだけである。
全く…新兵っちゅーのは損やな、やっぱり。煙と溜め息を混じらせながら視線を床に落とす。何が悲しゅうて、こんな腐った所に配属されなアカンねん。さっきも取引しとる集団の中に貴族の人間がおったけど…俺の顔見てごっつ驚いとったわ。“フリートラント家の次男坊が何故?”ってな。えぇやん別に。俺、好きで兵士になったんやし。放っといて欲しいわホンマ。あぁ、もしかしたら俺の身分やらで配属決めたかも知れへん。そうやとしたら堪忍して欲しいわぁ。俺、こんなトコでまで貴族の嫌なトコ見るのはゴメンやで。
それにしても……。青年は大きく煙を吐いた。目を閉じると、さっきまで話していた赤毛の少年の顔が浮かんでくる。全てを恨んでいるような、しかし何処か寂しげな瞳。負の感情でギラギラ光っているかと思えば突然死んだような瞳になる事もある。言葉使いは乱暴だが、それ以上に引っ掛かるのは時折見える陰り。あのままやと…アイツ壊れるやろなぁ。今は自分を偽って生きとるけど…あぁ言う奴って実際はクソ真面目やったりするからな。鬱陶しがられるかも知れへんけど、極力アイツと接して愚痴の一つでも聞いたった方が良ぇんちゃうか俺。
「…ひっく…………ううっ……」
ベッドの上で赤毛の少年が泣きじゃくっている。涙を何度も拭う両手の手首は僅かに皮が剥けていた。ついさっきまで、例の中年貴族の相手をしていた。ベッドの柵に両手首を括り付けられた無抵抗の状態で。ベッドの近くの机には紙幣が5枚。倍の金額を出す事によって強要された行為であった。勿論、実際の売春にしては格安の域を越えた金額であったのだが少年は知る由もない。自分では高額だと信じ込んでいる代金に目をやりながら、暫く泣く事しか出来なかった。