助けて。何時しか心の中で叫ぶようになった言葉。この数ヶ月間は少年を徹底的に痛め付けた。心も身体もプライドも何もかも。実際に強要されるまで知らなかった行為を連日繰り返される。追加料金出すからさ。○○させてくれよ。と言う決まり文句と共に。客は減らなかった。確かに客がいなくなると稼ぎが無くなってしまうが、連日相手にする人数が異様に多かった。裏市街で1番人気の娼婦よりも客が多いかも知れない。そして、今日も少年は酒臭い男に肩を抱かれながら安宿の中に消えていく………。
某日、少年は土手で膝を抱えて座っていた。最初に男娼としての仕事を始めた時よりも頬がこけ、顔色も悪い。連日連夜休む間もなく客の相手をしているから仕方の無い事だが。
靴先の方へと向けられた瞳は死んだ魚のように虚ろで濁っていた。微妙なだるさ、吐き気、腹痛はさっきまで注ぎ込まれていた男の精から来る物か。辛かった。苦痛だった。しかし、辞める訳にはいかなかった。この仕事が今の少年にとって一番稼げる仕事だったから。ちょっと男相手に足開いて、それらしく鳴き、痛みに耐えれば金が手に入る。それに、自分だって抱かれながらイク事あるじゃねぇか。気持ち良くて、金も手に入る。一石二鳥の仕事じゃねぇか。……自分自身への慰めも空しいだけだった。
「……………………」
ふっと顔を上げると目の前で川が音を立てて自己アピールをしていた。そう言えば、昨日雨が降ったから水量も多いだろうし、流れも強いだろう。飛び込めばアッサリ逝けるかも知れない。そうすれば、解放される……。自分が金を稼いでいる理由さえも忘れて、ゆらりと幽鬼のように立ち上がりフラフラと川の方へ向かう。
楽になる。飛び込めば。水を飲めば。流されれば。死んでしまえば。後3歩、2歩、1歩………
「何してんねん!!」
腕を掴まれ、力の限り引っ張られる。その痛みに少年はハッと我に帰った。我に帰ると同時に目に入ったのは例の鳶色髪のお坊ちゃま兵士。何時もの飄々とした顔ではない、驚いたような、怒ったような何とも表現し難い顔で自分を見ている。
答える言葉が出て来ない。自分自身さえも数秒前の行動の理由が分からなかったから。それは衝動的な行動だったから。一瞬の隙を突いて死神が手招きをしたから。勿論、その様な事を口に出す気は無い少年は不機嫌そうな表情を取り戻す。
「別に?お前には関係ねぇだろ」
「…別にって……お前、今飛び込も思うとったやろ!アカンで、そう簡単に命捨てたら!!」
「勝手に決め付けるなよ。水を飲みに行っただけかも知れねぇだろ?」
「あーもうっ!!あー言えばこー言う!!可愛くないやっちゃなぁ!!」
苛立たしげに鳶色をガシガシと掻き回す青年をチラリと一瞥しながら少年はポケットに手を突っ込んだ。
鬱陶しい。少年が青年に抱いていた感情はそれだ。初めて会った日から既に数ヶ月は経ったが、その数ヶ月の間、事ある毎に馴れ馴れしく近寄って来た。どんなに脅しても突き放しても笑顔を見せ、聞く気もない冗談話をベラベラと喋り続ける。そして一方的に話をした挙句、甘い菓子を握らせて去って行く。鬱陶しく、馴れ馴れしい。自分なんかに構おうとする変な奴。
しかし、最近になって自分はそれを嬉しく思っている事に気が付いた。彼の顔を見ると内心では喜びに似た感情を抱いていた。表面では反発していたが嬉しかったのだ。話相手が出来た事が。自分を敵視していない存在に出会えた事が。ふと思う。何故、彼はこれ程までに自分に構って来るのだろう?気が付けば、その疑問は口から漏れていた。
「お前さぁ。何でそんなに俺に構う訳?正直、鬱陶しいんだよ」
あぁ、畜生。また変な所で嘘ついちまった。鬱陶しくなんかねぇんだよ、ホントは。僅かに顔を顰め、小さく舌打ちをする。青年にはその行動の意味が何となく分かったのだろう。思わず顔が笑顔の形に歪んでしまう。あーあ、また余計な事言うたな?ま、俺分かんねん。最後の一言は照れ隠しやろ。ガキやなぁ。少年に分からぬようクスクス笑いをした後、青年はそっと少年の肩に手を置き、静かに口を開いた。
「俺、ずっと気になっとったんや。お前の瞳が。時折、ごっつ悲しそうな眼になるやろ?その度に…俺、お前の支えになれへんかなって思っとったんや」
一度言い出すと止まらない。青年の声は徐々に大きくなって行き、最終的には叫びに近い声になってしまっていた。
「お前の事、守らせてくれへんか!?俺を支えにしてくれへんか!?お前の悲しそうな眼や辛そうな顔見る度に“コイツは守ったらなアカン”って思うねん。せやから………」
肩に置いていた手は何時の間にか掴むような形になり、その手の数は一つから二つになり。気が付けば青年は呆気に取られる少年の両肩を掴み、視線を落としていた。
少年の顔に戸惑いの感情が表れる。俺を守りたい?支えになりたい?馬鹿か、コイツ。俺なんかを守って何になるって言うんだよ。戸惑いながらも、俯いたままの青年を見る。からかっているとは思えない。本気で自分を守りたいと思っているらしい。
「…………………………」
嬉しい、有難う。心の中に浮かんだ言葉は喉の奥で引っ掛かってしまい、結局無言になってしまう。流れていく沈黙。重苦しい時間の中で最初に動いたのは少年の方だった。ゆっくりと顔を動かし、青年の耳元に近付けた唇を静かに開く。その唇から発せられた声は、青年の耳に漸く届く位の囁き声だった。ハンニバル。少年が故郷を出てから初めて口にした真の自分の名。その一言に眼を丸くして自分を見て来る青年に少年は悪戯っぽい笑みを零す。
「分かんねぇかな?俺の本名さ。お前がしつこく聞いてくるから教えてやったんだ。感謝しな」
「……そうやったんか…」
暫し、ポカンと口を開けた間抜けな呆け面をしていたが、直ぐに笑顔に変える。肩に置いてあった手は少年の赤毛の上に移動した。
「ハンニバル……“古代の戦闘神・バールの御気に入り”か…。えぇ名前やんか。カキアなんかよりずっとえぇわ」
嬉しそうに目を細め、頭を撫でて来る感触に少年は僅かに首を傾げて子供のような笑顔を見せていたが、その笑顔は次の瞬間には元の不機嫌そうな表情に戻っていた。
「い、良いか!気安く呼ぶんじゃねぇぞ!特別に教えてやったけど……この街では俺はカキアだ。ハンニバルなんかじゃねぇ!」
「……頑固やなぁ…。お前、本当はかなりクソ真面目ちゃう?それに笑っときや。勿体無いで、折角えぇ笑顔しとんのに」
豹変した少年に苦笑を浮かべながら顔を覗き込むが、もう少年はあどけない笑顔を見せようとはしなかった。不機嫌そうな顔に戸惑いが混じった妙な表情。一瞬でも笑顔を見せてしまった事に少年は少なからず動揺していた。
「……忘れろ、俺のさっきの情けねぇツラは」
頭の上に乗せている手をパシッと払い、踵を返すと同時に駆け去る。勿論、後ろから青年の声が聞こえて来たが少年は振り返ろうとはしなかった。
くそっ…!我武者羅に走りながら少年はギリッと歯軋りをする。悔しいような、嬉しいような複雑な感情。笑顔を見せてしまった悔しさと動揺。頭を撫でて貰った嬉しさと安らぎ。二つの気持ちが少年の精神内をグルグルと回っている。正直、逃げる事自体卑怯だと思う。だが、どう対処して良いのか分からなかったのだ。笑うべきか、怒るべきか、他の反応をすべきか、分からなかったのだ。少年はひたすら走る。胸に渦巻く不可解な感情を振り切るかのように走り続ける……。
勿体無いなぁ、えぇ笑顔しとんのに。土手にドッカリと座り、煙草を口に咥える。せやけど、結構進展したんちゃう?アイツの本名聞けたやん。今度からは本名で声かけたろ。…あー、怒るかも知れへんなぁ。まぁえぇか。アイツ怒らすのは何時もの事やし。
「…せやけど……あそこまで必死になって逃げる事ないやんか」
ポツリと呟き、何度目かの苦笑を零しながらワレンシュタインは細い煙を吐き出した。もーちょっと素直になってくれへんかなぁ?自分を偽るのって正直疲れると思うんやけど。
勿論、彼は知らない。自分が支えてやりたい少年の裏の職業を。彼が気にする少年の“悲しそうな眼、辛そうな顔”の原因はそれであると言う事を。
例え青年に本名を明かしたとしても、笑顔を見せたとしても、今の“仕事”を辞める気は無い。“それはそれ、これはこれ”と言う奴だ。
だから、その日も少年は一人の男に甘えるように寄り添って薄暗い路地を歩いていた。もう慣れた物かも知れない。周りの視線や嘲りの声も気にならなくなった。唯一恐れている事は帝国兵に見付かる事。噂によると最近、色々と規制がかかって来たらしい。いや、規制がかからないとおかしい事ばかりが起こっている場所なのだが。帝国兵、特にアイツに……ワレンシュタインにだけは知られたくない。何故、此処まで恐れてしまうのかは自分でも分からなかったが彼にだけは身売りをしている事実を知られたくなかった。
「……どうしたんだ?ボンヤリして…」
肩を抱いていた男が声をかけて来ている事に気付き、ハッと顔を上げると怪訝そうな表情が視界に入って来た。
「いや、何でもねぇよ。ちょっと考え事してただけだ」
「考え事?今日はどう言う体位が良いかな、とか思ってたんじゃねぇだろうなぁ?」
「……馬鹿………」
言いながらもフフッと作り笑いをし、甘えるように男に寄り添う。その動きは通りでよく見かける娼婦の動きを真似た物だったが、意外に自分でもよく出来ていると思っていた。その証拠に男の方も下卑た笑顔を浮かべながら胸元まで抱き寄せて来る。これで最初のムード作りの土台は出来たな。少年が心の中で呟いたその時。
「……………ハンニ…?」
「!!」
少年の顔が凍り付く。視線の先には自分と同じように固まってしまっている“知られたくない人物”
「何だ?知り合いか?」
男が二人を交互に見る中で青年の方は少年に駆け寄り、肩を掴むと同時に大きく揺すった。
「お前……コレはどう言う事や!?何してんねん!!」
「……………………………」
ガクガクと揺さぶられる少年の瞳から動揺は消え、冷たい光を帯び始める。その瞳は鬱陶しそうに青年を見た後、そのまま顔を相手の男の方に向けた。
「行こう」
肩の上の手を汚れた物であるかのように振り払って男の服を掴み、胸元に頭を置く。呆気に取られる青年の横を素通りすると、された方はハッと我に帰ったかのように振り向き、背後から声をかける。
「待てやハンニ!!説明せえや!!お前……これは一体…」
「……………」
震える声がする方を振り向く少年の瞳は冷たいままで、声を震わせる青年に対する憐れみとも嘲りともつかぬ感情さえも表していた。その瞳の光と同じ冷たさを思わせる声が小さく開かれた口から発せられる。
「……お前には………関係のねぇ事だ」
「………っ!!」
眼を見開き、ピクリとも動かなくなった青年から眼を反らし、少年は男に改めて寄り添いながら角を曲がり、安宿へと消えて行った。
狭くて質素な部屋の中。床の上に脱ぎ散らかされた衣服に囲まれているベッドの上で胡座をかく男の足の間で少年の赤毛が蠢き、ピチャッ…と濡れた舌が逸物を刺激する水音が響く。暫く黙って上下左右に動く少年の頭に手を添えていた男は赤い髪に目をやりながら口を開いた。
「なぁ…さっきの男はお前の彼氏か何かか?何だか凄い顔してたじゃねぇか。女に浮気された男みたいな……」
「彼氏!?」
口を離し、視線を合わせた後アハハッと可笑しそうに笑い出す。その笑いさえも偽りだったけれども。
「何言ってんだよ。……アイツは………」
少し言葉を切って俯き、顔に僅かな陰りが表れるがそれも一瞬の事。男が気付く前に元の作り笑顔でクスクス笑いをしながら言った。
「今日初めて会った知らない男さ」