目を開けると視界に碁盤のような天井が入って来る。自分が今ベッドに横になっている事と微かに消毒液の匂いがする辺り、此処は保健室らしい。まだ奥の方で細かい爆発を繰り返している頭を辛うじて動かすと、紙を敷き詰められた銀色の洗面器が目に入り、その向こうでは誰かがパラパラと何かの本のページを捲っては手を止めて、それに見入っていた。
「……………駿君…」
掠れた声を喉の奥から絞り出して“誰か”の名を呼ぶと、本に落としていた目が上がると同時に唇も眼と同じように上を向いた。
「お、気が付いたか。大丈夫か?」
手元に持っていた本(どうやら、保健体育に関する本らしい。彼の事だから性教育関係のページを読んでいたのだろうな、と早坂は思った)を近くの机に放り投げながら椅子から立ち上がるとギシッと軋む音が聞こえた。
「驚いたぜ、いきなりブッ倒れるんだから。倒れそうな位調子悪いなら、予め言っとけよ。な?」
困ったように笑う望月に軽くコツンと頭を小突かれた瞬間、頭の痛みが一瞬激しくなったが早坂は敢えて笑顔を見せ、即座に申し訳無さそうな顔を浮かべた。
「…………ゴメン…」
「……いや、責めてる訳じゃねぇんだ。ただ、良ちゃんが苦しそうなのを見てるのはやっぱ辛いからさ」
望月の自分の呼び方を聞いて、早坂は今二人きりである事に気が付いた。
「…あれ?養護の先生……いないの?」
「ん?あぁ、居たんだけど何か書類を施設に出してくるだの何だの言って出て行っちまったんだよ。俺に看病押し付けて」
押し付けて。その言葉に思わず眉を顰めそうになった直前に望月は改めて笑いかけた。
「…なんてな。本当は先生もお前残して出るか出まいか迷ってたんだけど、俺が診てるからって言って行かせたんだよ」
「えっ…………」
望月の言葉に目を丸くする早坂をニコニコと見詰めながら望月は床に両膝を付き、枕元に両肘を付けて顔を乗せた。
「先生に任せたら、教室に帰ってホームルームで長ったらしい話聞かなきゃいけねぇだろ?アレ、正直ウザイしよ。………それに…苦しんでる良ちゃんを他人に任せたくなかった」
「…………………」
「まぁ、真っ青な顔してたし気持ち悪いとか言ってたから、吐くんじゃねぇかって内心ビクビクしてたんだけどな。仕方ねぇとは言え、ゲロの始末までするのは…その……なぁ?」
後ろ頭を掻いて笑う望月の笑顔に引き寄せられるように早坂もクスッと小さく笑うと、望月は安心したのか、そうそう、と改めて話を始めた。
「お前、倒れる時にゴミぶちまけただろ。アレ、竜一さんがブーたれながら掃除したらしいぜ。明日辺り、礼でも何でも言っといたらどうだ?今日はもう帰っちまったみたいだけど」
「うん………そうするよ。…今、何時?」
聞きながらも視線を壁に掛けられた時計に動かして針を見ると同時に小さく息を飲む。
「も、もう6時半!?僕、2時間近く寝てたわけ!?…で、駿君……もしかして………」
「あぁ、ずっと此処にいたよ。この部屋にあった保健の本は殆ど読破したぜ」
「……そんな…最後まで残る先生とかに任せて帰っても良かったのに…」
あどけない笑顔を見せながらのVサインに対して戸惑いの顔を見せると、笑顔は瞬く間に真剣な表情に変わった。
「言っただろ?苦しんでるお前を他人に任せたくなかったって」
「………っ!!……あっ…………」
望月の言葉が終わると共にベッドが軋み、素早く抱き起こされたかと思うと唇を奪われていた。柔らかい感触に頬を赤くさせた親友の反応に望月は薄く笑い、幾度も唇を押し当てながら早坂の制服のボタンを外し、手を滑り込ませて胸元を探り始めた。
「……だ…駄目………此処…学校だよ…?」
「体育館でヤッた奴だっているんだ。もう殆どの奴は帰ってるし、大丈夫だって」
ドクンッ。心臓が胸を突き破りそうになったが、相手の方は“体育館でヤッた奴”が今自分が抱こうとしている親友である事など全く知らない様子で準備を続け、上半身を探っている内に探し当てた突起を指先で幾度も撫でた。
「はぁっ……ぁ………ぃ…嫌ぁ……」
「何が嫌、だよ。ちょっと触っただけで立てちまってさ」
恥らう早坂の反応を楽しみながら制服の前を大きく開くと、うっすらと汗ばんだ胸元と刺激される事で起き上がってしまった突起物が晒された。早坂が胸元と同じように瞳も湿らせ、息遣いも微妙に艶っぽくなって来たその時。ムードを一気に崩壊させる携帯電話の着信音が辺りに響いた。
「チェッ、何だよ。良い所なのに」
上にいた望月が不服そうに唇を尖らせ、ベッドから下りて携帯電話に耳を当てると同時に望月の様子が明らかに一変した。
「は、はいっ…分かりました。すぐ行きます!」
上ずった声で返事をした後に電話を切って早坂の方を振り向く望月の表情は非常に複雑だった。
「……悪ぃ、急用が出来た。俺、今から行かないと」
「えっ…………」
電話をしている望月の様子から大方予想は出来た台詞ではあったが、いざ言われてみると寂しさと悲しさが一気に舞い込んで来た。
「そ、そんな…その………途中…なのに…?」
「………ゴメンな、良ちゃん。でも、行かないと………。お前、一人で帰れるか?もし無理そうだったら先生に言うなり、寝て待ってたりしてろ。用が終わったら、戻るから」
「……良い………一人で帰れるから…」
俯きながら小さく答え、乱れた制服を整える親友の声から不貞腐れている事に気が付いた望月は、どうにか相手の機嫌を取りたかったがどうすれば良いのか分からず、ただ黙って見詰めるしか出来なかった。
「…何ボンヤリしてるのさ。急ぎの用なんだろう?早く行けば?」
駄目だ、完全に機嫌損ねちまった。顔を上げない早坂の声から感じ取った感情から判断した望月は、とりあえず謝罪の言葉を改めて口にして保健室を後にした。

 駿君の馬鹿、彼に用事を押し付けた誰かの馬鹿。ベッドに腰掛け、布団を強く握り締めながら涙ぐんで拗ねる姿は自分でも子供だと思ったがどうしようもなかった。
「………馬鹿」
ポツリと呟いた声が保健室に響くが、反応など起こらない。空しさを覚えた早坂は涙を袖で乱暴に拭い、ベッドから下りて帰ろうと思ったが室内に鞄が無い事に気がついた。どうやら、教室に置いてあるままらしい。
「全く……気が利かないな」
苛立ちの余りにクラスメート達に八つ当たりをしながら、自分の教室がある隣の校舎の方向に目をやる。殆どの生徒が下校して灯りもロクに点いていない校舎内を歩くのは、自分にとってはちょっとした肝試しであるので正直遠慮はしたかったのだが、鞄には勉強道具等が入っている為に手ぶらで帰る訳には行かない。早坂は小さく溜め息を吐き、保健室の扉を開けて薄暗い校舎へと向かった。

 殆どの教室の明かりが消えている為に普段とは打って変わって静かで暗く、長く感じる廊下を見た早坂は胸の奥で生まれつつある恐怖心を深呼吸で押さえ込み、意を決して歩を進めた。階段から進んで3つ目が自分の教室………。ガタンッ。その一つ手前の光の無い教室から何かが動く大きな音がし、早坂の心臓を飛び上がらせた。
「………………」
一度大きく飛び上がった心臓が今も胸の中で落ち着き無く暴れている。落ち着け、落ち着くんだ。誰かが残ってるのかも知れない。僕みたいに忘れ物か何かを取りに来て、探しているだけかも知れない。そう、お化けなんて非科学的な存在がいる訳ないじゃないか。自分を無理矢理叱咤し、唾を何度も飲み込みながら教室の前を一気に通過しようとするが、密かに抱いていた微かな好奇心が横目で教室を覗かせた瞬間、早坂の足が床に貼り付いたように動かなくなった。固まる彼の視界に入って来た物。それは、彼が見たくなかった怪奇現象よりもある意味で遥かに性質の悪い物だった。
「今までずっと其処にいたのか?」
「……はっ…はい………だって…心配だったから……」
冷たい刃を思わせる声と許しを請うような震え声。冷たい声の主が相手の“言い訳”を唇を当てる事で塞いだかと思うと、それを離して口を開く。
「私はお前が心配だったのだが?…もし、それが彼の作戦だったらどうしようかと」
「…さ、作戦………?」
見ているこっちからは言い訳を述べていた人物の後頭部しか窺えなかったが、声色からして目を丸くしている事が想像出来た。
「あぁ……彼の事だ。お前の優しさに付け込んで淫らに誘い込む事だって考えられるだろう?…全く、泥棒猫らしいな」
「こ、小林さん…あいつの事を悪く言わないで下さい!……確かに…俺、抱きそうになったけど………それは俺が一方的に…」
―――僕の事を言ってるんだ!!
二人の…小林と望月の会話を聞き取った早坂は息を飲み、小林の言葉に胸を刺されるのを感じた。泥棒猫。小林君…やっぱり……気付いてたんだ…僕が駿君の事好きだって…。でも、横取りする気は無いのに……泥棒猫なんかになりたくないから、僕は薬を使って知らない人と…………
「もう良い、何も言うな」
氷の声と机が大きく動く音が重なる。二つ並べられた机と言う即席のベッドの上に戸惑い顔の望月が押し倒され、小林がその上に乗る。
「お前は素直に私だけを見ていれば良いんだ。良いな?」
「…ひぁっ……!あ………っ…小林…さっ…………こ…こんな…所でっ……あぁぁ…!!」
早坂が来る前に準備を整えていたのか、アッサリと交わり始めた二人に早坂は逃げ出したくなったが何故か眼を反らす事が出来なかった。
「…体育館でした者もいたらしいじゃないか。大丈夫だ」
保健室で交わりかけた自分と望月の台詞が殆ど同じように再現されている。違う点を述べるとすれば、その後に小林が言葉を続けた事。
「……その体育館でした人物…と言うのは案外お前とは身近な存在かも知れないぞ?」
残酷に感じる小林の言葉に改めて固まって息を飲む早坂だったが、肝心の望月の方はその言葉を理解していなかった(理解する余裕が無かったのかも知れない)らしい。ただ、きょとんとした顔で小林の瞳を見つめているようだ。
「………えっ?そ、それって……どう言う………」
「……。いや、何でも無い」
忘れろ。静かにその言葉を紡ぐと共に力の限りに突き上げると今まで耐えていたらしき悲鳴が爆発し、廊下に突っ立ったままの早坂の耳にも嫌でも飛び込んで来た。
「やあぁぁっ!!あっ…はぁっ……小林さんっ…こ…こんなの……だ、誰かが……見てたら…………」
「心配するな。この校舎には殆ど人が残っていない。……それに…仮に見ていたとしても、それは誰にも言い触らす事が出来ない人間だろう」
眼を硬く閉じて喘ぐ望月の身体を撫でながら、顔を上げると窓の外の早坂と視線が合ったが小林は特に驚いた様子も見せず、唇の端を吊り上げて笑って見せた。
「!!!」
口を小さく開けて肩を大きく上下させる早坂に小林は再度勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「…だから……どうせなら見せてやれ。私達はこんなに愛し合ってると。誰にも我々の邪魔はさせない、と」
それは明らかに早坂に対する台詞だったが、望月は眼を閉じたままだった為に窓の外から親友が自分を見ている事に気が付かず、快楽の余りに追い討ちをかけるような言葉を紡いでしまった。
「ぅあっ……あぁぁっ!!…小林……さんっ…好き………好きぃ……」
「フッ…そうか」
望月に褒美のキスを与えながら上目使いで窓の外を見る。その瞳が全てを語る。これで分かったでしょう?彼にとって貴方は友人に過ぎない。友情は抱けても愛情は抱けないのですよ。と。
「…………………」
必死に目を反らし、足を床から剥がして駆け出す早坂が向かった先は取りに来た筈の鞄がある奥の教室とは逆方向の階段だった。
「あっ…こ、小林さん……い、今…誰かの足音が………」
今の状況を一番見られたくない人物の駆け去る音に漸く目を開けて小林を見上げるが、視線の先の人物は早坂に見せていた笑顔を維持していた。
「…大丈夫だ。絶対に口外出来る人間じゃない」
「…………?」
言葉の意味が分からずに目をパチクリさせる望月に小林はフッと笑い、額にそっと唇を当てた。