漸く吐き気も治まって公園を後にした早坂は、腕時計で時間を確認しながら駅へと向かった。今から歩けば丁度良い時間に電車が来る筈だ。電車の中で余計な事を考えて、また気持ち悪くなるのではないかと密かに心配して溜め息を吐くがどうにもならない。
「あれ?」
1人の少年が歓楽街の派手な通りの中で何処か肩が落ちている背中を見付け、小さく首を傾げて眉を顰めると共に小走りで背中に近付く。軽く肩を数回叩くと大袈裟なまでに前の身体が上下に揺れ、恐る恐る振り向いた。互いに見慣れた顔が向かい合う。
「やっぱり早坂だ。お前、こんな所で何やってんだ?」
「りゅ……竜一君……」
意外そうに目を丸くして自分の顔を覗き込んでいるのは服部竜一だった。こんな場所で会った事に動揺し、震えそうな唇を無意識に左手で隠しながらも小さく問う。
「き、君こそ……何でこんな所に?」
「俺?俺はこの街のゲーセンでバイトしてんだよ。で、今終わって帰るトコ」
「そ……そうなんだ…」
自然と顔を俯かせつつも上目遣いで竜一の様子を見ると、彼は怪訝そうな顔を浮かべていた。無理も無い。彼から見た自分は、このような町に縁の無い真面目な優等生なのだから。
「にしても意外だな。お前みたいな奴がこんな所にいるなんて。何してたんだ?」
「あ…あの……塾から帰る途中で下りる駅間違っちゃって。それで、ちょっと時間潰ししようかなって思って駅から出てみたんだけど……ちょっと僕には時間潰し出来ない街だったみたい」
我ながら苦しい言い訳を苦笑を作りながら言ってみると、竜一は怪訝そうな表情を一層強くしたが、それ以上追求してくる事は無かった。
「ふぅん……お前らしくないミスだな。ま、勉強疲れしてるんだろ。長い間欠席してた分を取り返したいみたいだし」
「う、うん………」
竜一の言葉に何度も小刻みに頷くと、怪訝そうな顔が漸く笑顔に変わった。
「ハハッ。何、必死に頷いてるんだよ。…それより、お前ももう帰るんだろ?俺、バイクで来てるからさ。送ってやるよ」
ポケットから鍵を取り出して軽くチャリッ…と音を立てながら顎を近くの駐車場に向けると、早坂は軽く鞄を抱き締めて問うた。
「え…良いの?」
「あぁ、遠慮すんなよ。お前には宿題忘れた時やテスト前に世話になってるからな。ほら、来いって!」
ニッと歯を見せて笑いながら、竜一はまだ遠慮がちな早坂の背中を押し、愛車が待つ駐車場へ向かった。

 改造されている事を自己アピールするようなエンジン音が響くと共に、小刻みな振動が早坂を揺らす。フルフェイスのヘルメットの中に流れ込んでくる嗅ぎ慣れない排気ガスに軽く咳き込む声を背中越しで聞いた竜一は、心配そうに振り向いた。
「おい、大丈夫か?」
「う、うん…大丈夫……。ちょっと慣れていない臭いがしたからっ……」
「そっか。悪ぃな」
「……謝らなくても良いよ。ほら、早く行こう?」
申し訳無さそうな顔に敢えて微笑を見せて顔を横に振る早坂に竜一は軽く肩をすくめ、改めて前方を向いてエンジンを派手に吹かせた。
 夜の鮮やかと言うよりけばけばしいネオンと車のライトで眼がチカチカしそうな通りを、とても警察に見せたくないスピードで駆け抜けるオートバイの後部で早坂は運転者の背中が広い事に今更ながら気が付いた。普段、余り人の背中なんか意識して見ないけど…。早坂がヘルメットの中で小さく呟く。…竜一君って背中こんなに広かったんだ。そうだよね、竜一君って僕と違って背も高いし、ガッシリしてるし。何よりも何時も僕達を引っ張ってくれるリーダーだから、こんなに頼れる背中を………
「…早坂?」
何時の間にか、その背中に必要以上にしがみ付いていたらしい。赤信号の前で竜一が不思議そうに自分を見つめていた。
「どうしたんだ?そんなにしがみ付いて……。ちょっとスピード出し過ぎちまったかな」
「うん。ちょっと…ね」
「ハハッ、そっか。お前にはちょっと辛いスピードだったか。でもコレ位のスピードが一番気持ち良いんだぜ?風をブッ千切って……っと」
信号の色がGoサインを出した瞬間に会話を中止してさっきと変わらぬハイスピードでバイクを飛ばし、上機嫌で通りを駆ける竜一に聞こえない声で早坂は言った。
「“ちょっと”の意味、取り違えてるよ。…僕が言った“ちょっと”は……広い背中で…“ちょっと”良いな…って思っただけ」
唇を殆ど動かさずに言葉を紡ぎながら、早坂はその“ちょっと”良いと思った背中にしがみ付き、甘えるようにヘルメットに覆われた頬を寄せた。

「有難う、送ってくれて」
自宅の前で被っていたヘルメットを手渡しながら微笑を見せると、竜一はニッと歯並びの良い白い歯を見せて笑った。
「いや、良いって。たまには、こう言うのも良いもんだろ?」
「うん。……………………」
「?…どうしたんだ?」
頷いたきり顔を上げずに黙りこくってしまった早坂に怪訝そうに首を傾げると、下を向いた顔の瞳だけが上を向いて竜一の瞳を見つめた。
「いや……。あ、あの…竜一君、明日学校来る?」
「はぁ?明日は休みじゃねぇから行くに決まってるだろ。テストも近いから余りサボれねぇしな」
「そっか…」
彼らしからぬ奇妙な質問に思わず眉間に皺を寄せる竜一の顔を上目使いで見つめながら、そっと舌で唇を濡らして口を開く。
「僕…明日、ちょっと授業には出ないけど…放課後に学校に来るつもりなんだ。…だから……明日の放課後…そうだね、4時半に屋上に来てくれないかな」
「………………」
何か、おかしい。コイツらしくない。竜一は心の中で腕を組んで溜め息を吐いた。授業には出ないが、放課後には学校に来る?何だそりゃ。しかも、俺に屋上に来てくれだと?屋上で何をしようってんだ。俺と勝負でもする気か?不意に望月の困り顔とその時に吐いた台詞が頭の中で蘇る。…アイツの方が俺の事を一方的に避け始めたんですよ。イマイチ理解不能な早坂の言動に戸惑っていた望月。そして今、自分自身も目の前の秀才の言動が理解出来ずに口を閉ざしている。
 …ある意味、良い機会かも知れない。ふと竜一は思った。屋上で何をしたいのかは知らないが、その時に早坂の相談相手にでも愚痴聞き係にでもなって、彼の奇妙な言動の真意を掴めれば……。
「…分かった。じゃあ明日4時半に屋上に待ち合わせな」
屋上へ向かう意義を自分なりに見つけた竜一の返事に早坂は、やっと顔を上げて笑顔を見せた。
「うん、分かった。待ってるからね。……それじゃあ、また」
小さく手を振って灯りの点いていない家の中に消えていった早坂の背中を見つめていた竜一は小さく溜め息をつきながら頭を振った。

 変に思われちゃったかな。暗い家の灯りを点けて回りながら早坂は溜め息を吐き、リビングのソファーに力無く座った。自分でもおかしな事を言っている事は分かっていた。授業には出ないけど放課後に学校に来るなんて、周りから「秀才」と呼ばれている自分にとっては無意味な行為に見えるのも充分に分かっている。だが、最低でも明日一日は授業を受ける気にはならなかった。授業を受けるとなると、教室に入らないといけない。教室に入ると親友が……自分が勝手に親友と思い込んでいる人物がいる。自分の事を徹底的に陵辱した彼が。電話口で淫らな声を聞かせた彼が。それでもなお、心の底では想いを抱く対象になっている彼が。その彼とは、暫く顔を合わせたくは無かった。
「…顔を“合わせたくない”?……僕にはもう、顔を“合わせる資格も無い”じゃない」
他ならぬ自分自身に呟き、非難して顔を手で覆う。そう…僕にはもう駿君と話す資格も顔を合わせる資格も何も無い。だって、僕は……僕はもう………
「……僕は…もう………駄目だから……」
何が駄目かって?何もかもが駄目。何がどう駄目か説明するのもくだらない位に。ずるり。ソファーに腰掛けていた身体が億劫そうにずれて横になり、同じく横になった視界に真っ黒で無口なテレビの画面が入って来た。無愛想なそれに生気の感じられない少年の虚ろな顔が映る。
「………………酷い顔」
酷いと自称する顔がクスクスと笑い、そのままソファーから転がり落ちる。自分でも何がしたいのか全く分からなかった。転がり落ちたまま暫く死んだように動かなかったかと思うと目を見開き、いきなり忙しく立ち上がって階段を駆け上がった先にある自室の扉を乱暴に開ける。そのまま真っ直ぐ学習机の引出しを勢い良く開け、中を掻き回して取り出した二つの瓶の各ラベルには「胃腸薬」「精神安定剤」と書かれていた。ラベルに太字で書かれている「用量・用法を守って正しくお使いください」を明らかに無視している、手の平一杯に乗せた錠剤を口の中に放り込み、水の力を借りずに飲み込むと硬い大量のそれが狭い喉を無理矢理通り、無理な通行によって生じた痛みが早坂を咳き込ませた。
「う…ぐっ……かはっ…!!」
喉を押さえて力無く咳をしながら部屋からフラフラと出て行って向かった先は2階の突き当たりに位置するトイレ。ドアも閉めずに便器に身を乗り出し、喉の奥に躊躇無く指を突っ込むとついさっき無理に飲み込んだ大量の錠剤が吐き出されて行った。僕、何やってるんだろう?何がしたいんだろう?こんなに大量に飲んだら死ぬかも知れないって分かってるのに何で、こんな事したんだろう。凄く気持ち悪かったから?精神が不安定と言う次元を超えていたから?それとも……死にたいって一瞬思ったから?
 吐く事で視界を涙で滲ませながら、早坂は無意識の内に自分の心臓辺りをギュッ…と握った。

 服部竜一との待ち合わせの時間より10分前に早坂良麻は冷峰学園の屋上に姿を現し、フェンスからボンヤリと空を眺めていた。別校舎からは吹奏楽部演奏であろう、クラシック音楽の一部分が繰り返し演奏される音が聞こえて来る。微かにトランペットの音がずれて演奏が止まるのを聞きながら、早坂はポケットに手を突っ込んで屋上へのドアの鍵がある事を改めて確認した。此処に来る前に職員室入り口近くの鍵の保管所からコッソリ拝借した物だ。全ては邪魔者を寄せ付けない為に。竜一と二人きりになる事を誰にも邪魔させない為に。
「……その前に…テストさせて貰うけどね、竜一君」
小さく笑いながら腕時計を見ると約束の時間の3分前を指していた。竜一の性格上、時間に遅れる事はあっても早く来ると言う事はないであろう。まぁ準備は早く整えるに越した事は無い。早坂は屋上の出入り口を一瞥して改めて笑い、フェンスに手をかけた。