まだ夏の暑さが微かに残る秋の午後。人々が行き交う賑やかな通りを制服姿の二人の少年が肩を並べて歩いていた。
「光矢、お前少し髪切ったらどうだ?」
  目を通していたポケットサイズの単語帳を閉じながら声をかけると、隣を歩いていた光矢と呼ばれた少年は白い歯を見せて笑った。
「そんなに長くないだろ? 良いじゃん、気に入ってんだから」
「頭髪検査に引っ掛かって、説教食らったくせに」
「えっ! な、何で分かるんだよ!!」
「大方、予想付くって。あの中学、服装とかにはやたら厳しかったもんな」
  単語帳を鞄にしまい、耳がうっすら隠れる位までに伸びている髪を軽く耳に引っ掛けて来る兄の手から逃げるように、光矢は丁度通りすがった公園へと駆け込んだ。
「別に髪型なんて何でも良いと思わね? 別に極端に変な髪形じゃないんだし……」
「でも、お前その髪形になってから、急激に女の子に間違えられる回数増えたよな」
「…ちぇっ。どうせ俺は成長遅いですよーだ」
  兄の鋭い一言に不満そうに唇を尖らせ、手近にあったブランコに飛び乗って立ち漕ぎを始める光矢の背丈は十四歳の少年にしては小柄で身体も細く、声もまだ大人の男性には程遠い高さを維持していた。そして何よりも、彼が幼い頃に周りにいた人々の予想通り、あどけなくも美しくなったその顔が幾度も彼の性別を誤解させていた。…俺、男なんですけど。性別を間違えられた時、輝く黒目が目立つ大きな瞳を一瞬見開き、長い睫毛を瞬かせ、そして眉を密かに顰めつつ視線を僅かに下に落とし、柔らかい薔薇色の唇を小さく開いてボソボソと言う弟の姿を思い出して、小さく笑った智哉だったが、ふと背中に感じる視線に何気なく振り向き、同時に息を小さく呑んだ。
 そんな、まさか……。智哉の瞳に映った男がニヤリと笑った。
「うん? どうしたんだよ、兄ちゃん」
「…いや。……悪い、ちょっと待っててくれないか?」
「?」
  笑顔が消え、何処か表情が険しくなった兄を光矢は不安そうに見詰めていたが、結局小さく頷いてしまう。兄は一瞬だけ弟に小さく笑いかけ、公園の隅のベンチに座っている男の方へと走って行った。

「……今更、何なんだよ」
  声に怒りを滲ませてもニヤケ面を崩さぬ男に智哉は不快そうに眉間に皺を寄せた。幼かった自分の目の前で母と激しい言い争いを繰り返し、その時に母に汚い暴言を幾度もぶつけ、その母が死んでも姿を見せず、今までずっと自分達を放って置いたその男。思い出す事で湧き上がる怒りの炎を瞳に燃やす智哉に対し、彼は飄々とした様子で肩をすくめた。
「冷たいなぁ。実の父親に向かってその態度」
「アンタなんか俺達の父親じゃない! 母さんが死んだ時も、その後もずっとずっと失踪してたくせに…!」
「大人には大人の事情ってのがあるんだよ。まぁ、あの女が死んで、お前らが施設に預けられているのを知った時は少し驚いたけどな」
  胸のポケットから煙草を取り出し、ゆっくりと燻らせる“父親”に智哉は自分の拳がブルブルと震えるのを感じた。それは、普段は冷静沈着で通っている自分にとっては珍しい事だった。
「にしても、お前も大きくなったなぁ。確か、お前が七つの時に別れたから……もう十八か」
「まだ今年の誕生日を迎えてないから十七だ」
「そんな細かい事でグダグダ言うなって」
「一体、何の用で姿を見せたんだ……」
  遠く離れた所で座り込んで、たまたま通りがかった散歩中の犬の頭を撫でて笑っている弟をチラチラと見ながら、苛立ちを隠せぬ様子で問う智哉の態度を楽しむかのように父親は口の中の煙を大きく吐き、首を傾けて智哉の視線の先を追って唇の端を吊り上げた。
「お、アイツ…もしかして光矢か? あのガキがあんなに綺麗に成長しやがったか」
「近付くんじゃないぞ。アイツはアンタの事は余り覚えてないし、教えたくも無い。こんなろくでなしが父親だなんてな」
「つれない事言うねぇ。にしても…ほぉ〜…」
「何だよ! 変な目で見やがって!」
  肩越しに光矢をジロジロと見る視線が気に食わず、自分の身を盾にするかのように立ち塞がると、父親はニヤリと笑いながら煙草を燻らせた。
「いや、あんなに綺麗な顔したガキだったら………なぁ?」
「…! アンタ、何を企んでるんだ。光矢を巻き込むな!! …もう俺の目の前から消えてくれ…二度と姿を見せないでくれ!!」
「ハイハイ。そんなに言うなら消えますかね。お前の目の前から」
  悪夢を振り払わんばかりに目を硬く閉じて首を大きく振る息子の姿を面白そうに眺めた後、足元に煙草を捨てて揉み消し、ゆっくりとベンチから立ち上がって出入り口へと歩いて行く。その背中が見えなくなるまで智哉は憎々しげな視線をぶつけていた。

「兄ちゃん、終わった? ……あのオッサン誰? 知り合い?」
  背後から聞こえた声にハッと我に返って振り向くと、何時の間にか近付いていたらしい弟が小さく首を傾げて出口の方を見ていたが、兄と視線が合った途端に恐る恐る顔を覗き込んだ。
「…兄ちゃん、何言ってるかは分からなかったけど、珍しく怒鳴ってたな。今も、ちょっと顔強張ってるし…」
  弟の言葉を聞いた瞬間、目を僅かに見開き、瞬きすると同時に何時もの表情を作る。ゆっくりと息を吐いて呼吸を整えた後、智哉は漸く弟に微笑みかけた。
「……あのオッサン、俺達の事じっと見てたから、何かと思って話しかけたら腹立つ事言って来てな。ちょっと頭がおかしいんだろ。何にせよ、知り合いなんかじゃない」
「…そっか」
  本当かな。笑顔を返しつつも光矢は心の中で密かに疑い、呟いた。目の前にいる兄は普段から冷静で、暴言をぶつけられた位では怒る事もなかったし、もし怒ったとしても怒鳴ったり表情を強張らせるような事はまず無かったからだ。そんな冷静な彼を激昂させたあの男は本当に見知らぬ人間なのだろうか?
(いや、きっと、たまたま兄ちゃんの機嫌が悪かったんだ。兄ちゃんだって人間なんだし、腹も立てるよな…)
  心の奥に湧いた不安を無理矢理の納得で何とか封印させて、改めて笑顔を見せる光矢に兄も安堵の溜め息のような物を吐き、帰ろうかと弟の背中を軽く叩いた。

 それから数日経ったある日の夕方。共に遊んでいた友人に別れを告げて施設への道を歩く光矢の背後に一人の男が近付き、細い肩を軽く叩いた。
「久し振りだな、光矢」
「誰…ですか?」
  確か、数日前に兄の怒りを買ったあの男が自分の名前を知っていて、こうして笑顔で声をかけてくる。この謎の男の正体が掴めずに怪訝そうに問う少年に男は困ったように笑った。
「まぁ、覚えてないのも無理は無いか。俺が出て行った時は、お前まだ小さかったもんなぁ…」
「え、まさか…」
  遠い記憶の奥の奥に微かに残っている気がするその顔を何とか引っ張り出そうとする前に相手の男はアッサリと自分の正体を口にした。
「そう、お前のお父さんだよ。……暫く見ない間に、こんなに大きくなって…」
「お父…さん?」
  懐かしそうに眼を細めて自分の頭を撫でて来る父親(と名乗る男)に戸惑いの表情を見せるが、父親の顔を殆ど知らぬまま育ち、密かに父親の温もりを求めていた少年は、無意識の内に身体の力を抜いてしまう。頭から頬へと移動して優しく撫でて来る大きな手に自分の手を添えると、その男は嬉しそうに微笑んだ。
「…本当に、お父さん?」
「疑ってるのか? 寂しいなぁ。智哉は智哉で俺に関する記憶の中で何か誤解でもあるのか、俺の事を憎んでいるみたいだし」
「兄ちゃんが…」
  数日前、珍しく声を荒げて表情を強張らせた兄を思い出す光矢の顔を父親はゆっくりと覗き込んで来た。
「立ち話もアレだし、其処の喫茶店でも行かないか? 色々話もしたいしな」
「…俺も、話がしたい……“お父さん”と」
  自分が密かに抱いていた理想像の如く、明るくて柔和そうな父親に警戒心は徐々に薄れ、ついには小さく微笑んで頷いてしまう。その笑顔を見た父親は改めて笑い、少年の背中を軽く押した。

 小さな鐘を鳴らしながら扉を開けて店に入った途端に、店員や他の客の注目を浴びている息子に気が付いた父親は近場の空席に腰を落とし、空のコーヒーカップやグラスを乗せた盆を持って通りがかった店員に注文をしながら、同じく向かいの椅子に座った少年の顔を見て面白そうに笑った。
「凄いんだな。入った途端に視線独り占めじゃないか。まぁ、綺麗な顔してるもんな」
「き、綺麗? そっかな。何か女の子によく間違えられて嫌なんだけど…」
「良いじゃないか、中性的美少年って奴なんだよ。将来、どんな風になるか楽しみだよな」
  自分の言葉にほんのりと頬を赤らめて俯く光矢をニコニコと見詰めていた父親だったが、突然姿勢を正して真顔になった。
「なぁ、光矢」
「うん? 何?」
「今、施設に暮らしてるんだって? その施設を出て父さんと暮らさないか?」
「えっ…」
  父親の言葉に口を付けていた冷や水のコップをテーブルに置くと、その僅かな衝撃でグラスの中の溶けかけた氷がカランッと鳴った。眼を丸くして自分を見詰めてくる息子に父親は水を一口飲んで続けた。
「今まで、お前と一緒に暮らせる余裕は無かったけど…父さん、やっと仕事が安定して生活に余裕が出来て来たんだ。だから、今まで一緒にいてやれなかった分をこれから埋め合わせ られればって…」
「…………」
  お待たせしました。涼しげな女性の声が横から耳に入り、オレンジジュースとコーヒーがテーブルに並ぶ。若い女性は一瞬、自分の顔を見た後に何故か嬉しそうに頬をほんのり赤らめて微笑み、カウンターの方へと歩き去った。あの子、チョー可愛いよ。店の奥の方から何処か昂揚した女性の声が聞こえた気がした。
「……駄目か? ずっと放って置いた父さんを許したくないかな?」
  突然の誘いに戸惑った様子で、ジュースの中に沈む氷をストローで幾度も突く光矢に自嘲的に笑うと、俯いたままの頭がぷるぷると横に振られた。
「許したくないとか、そんなんじゃなくって、あの、兄ちゃんや有花は引き取らない訳? 俺だけ父さんと暮らすのは、ちょっと……」
「智哉はもうすぐ大学受験らしいからな。それが落ち着いてから有花と一緒に引き取るつもりだ。とりあえず、父さんも暫く光矢とだけ生活して色々と慣れたいと思ってるし」
「…そっか」
「まぁ、ゆっくり考えれば良いさ」
「…うん」
  動揺を隠すかのようにストローに口をつけて、勢い良くジュースを吸う光矢を父親は目を細めて見ていたが、脇に置いていた鞄から一台のカメラを取り出した。
「光矢、ちょっと飲むの止めて笑って」
「え? 何? 写真?」
「あぁ、可愛い息子の写真一枚ぐらい持っておきたいからな。ほら、笑って笑って」
「……」
父の言葉に乗せられて、カメラのレンズに向かってニッコリ笑う。カシャリ。シャッター音が弾けた。
「有難うな、光矢。この写真は、ずっと大切にするから」
  カメラを大事そうに仕舞う姿を見て、はにかみ笑いをする息子を眩しそうに見ながら父親は、そうだ…と何かを切り出す単語を口にした。
「今度の日曜、空いてるか? お前が良かったら、一緒に遊びに行こうかと思ってるんだが…」
「え? 本当!? 行く行く!」
  父親と言う存在と温もりを求めていた少年が誘いの言葉に眼を輝かせて勢い良く身を乗り出すと、父は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、今度の日曜の朝九時に、この店の前で待ち合わせ……で良いか?」
「うんっ!」
  大きく頷く光矢を見た父親は一瞬だけ不気味な笑みを浮かべたが、完全に舞い上がっている光矢はその僅かな変化に気付く事は無かった。

 それは、光矢と父親の約束がある二日前の夜の事。薄暗い街灯の下で男達が一枚の写真を見て口笛を吹いた。
「マジでコイツ? うわ、すっげぇ可愛いじゃん」
「だろ? 明後日、連れて来る予定だが……どうだ?」
「どうだ…って、断る訳ねぇだろ。こんな極上のエサをチラつかせといて」
「喜んで“買わせて”貰いますよ」
  人の全く通らぬ夜道に下卑た笑い声が響いた同時刻。とある児童施設内の一室で一人の少年が、机に向かっているお目当ての人物の背中に声をかけた
「なぁ、兄ちゃん。明後日の日曜空いてる?」
「明後日の日曜? 悪い、学校で模試がある」
「そっか。有花も友達の誕生パーティーがあるから空いてないって言ってたしな…」
「何かあるのか?」
  大学入試の過去問題集から眼を離して、漸く自分の方を向いた兄に弟は小さく頷いた。
「うん、ちょっと遊びに誘われたから、兄ちゃんもどうかなぁ…って」
「そうなのか。俺の事は良いから、お前だけで楽しんで来いよ」
「うん。…次の機会があったら誘うから。ゴメン、勉強の邪魔して」
  ふと、あの時の兄の強張った表情が脳裏をよぎり、敢えて父の事は口にしなかった光矢は小さく笑って部屋を後にする。智哉は弟が去ったドアを怪訝そうに暫く見詰めていたが、小さく息を吐いた後、机の上の問題集に眼を落とした。