普段は遅刻癖のある自分が約束の時間通りに来るのは、それほどまでに大切な事であると無意識に思っているからか。待ち合わせの場所である喫茶店の前の通りで煙草を吹かしている男が、自分と目が合うと同時に笑顔で手を振った。
「おはよう、光矢。ちゃんと来てくれたんだな」
笑顔に惹き付けられて駆け寄って来た自分の頭を撫でる父親の手の温もりの心地良さに眼を細めながら、光矢はゆっくりと口を開いた。
「うん、本当は兄ちゃんや有花も誘ったんだけど、どっちも用事があって来れな」
「父さんに誘われたって言ったのか?」
全て言い終わる前に鋭い声が言葉を遮り、今まで見せた事のない眼で自分を見下ろしてして来る。その冷たい眼の光に密かに肝を冷やしつつ、光矢は幾度も首を振った。
「う、うぅん。兄ちゃんにも有花にも言ってない。二人をビックリさせたかったから…」
「言ってないのか。なら良いんだ。……さて、早速行くか。光矢は何処に行きたいんだ?」
言ってない。その一言を聞いた途端、瞳の冷たさは消えて何時もの柔和な笑顔を見せた父親に光矢は微かに戸惑いの表情を見せたが、絶えぬ笑顔に気を取り直して、困ったような笑顔を見せた。
「実は、どうすれば良いか分からないんだ。俺、物心付いた時は父さんが近くにいなかったから“父さんと遊ぶ”ってのが分からなくて……」
「成る程な。……すまなかったな、ずっと寂しい思いをさせて…」
謝罪をし、両手で頬を撫でれば、息子は全てを真に受けて幾度も首を横に振る。よく言えば純粋、悪く言えば単純なこの少年を手懐けるトドメの言葉が口から出る。
「全てを取り戻せるかは分からないが、これからは少しずつ埋め合わせをするからな」
「…本当に?」
ほら、やっぱり真に受ける。腹の底から込み上げる笑いを良き父親の笑顔に変え、年の割には小さな背中を軽く押して近くに停めていた車へと誘う。
「あぁ、本当さ。よし! 分からないなら、とりあえずドライブにするか! その先で行きたい場所が見つかったら、其処に行けば良い」
「ドライブかぁ。へへっ、何か嬉しいな。こうして父さんと一緒にいれるなんて」
「お前が父さんと暮らすって言うのなら、ずっと一緒にいれるぞ?」
「あ…うん。そうだな。正直、まだちょっと迷ってるけど……」
嬉しそうに笑ったかと思えば、戸惑い気味に俯く息子の忙しい表情の変化を横目で見ながら、父親はハハッと笑った。
「焦る事は無いって。今日はそう言うのは考えないで遊ぶのに集中しよう、な?」
自分の返事を待たずに車を発進させる父親の横顔に向かって、光矢は小さく笑って頷いた。
模擬試験を終えた帰りに図書館に寄り、日が沈みかけている今まで其処で時間を潰して漸く施設へと帰って来た智哉は、部屋で雑誌に眼を通している妹に何気なく声をかけた。
「有花、光矢は?」
「コウちゃん? まだ帰って来てないよ。さっき、寮母さんにコウちゃんから電話あってね、夕ご飯いらないって。コウちゃん、おいしい物食べるのかなぁ?」
「さぁ、どうだろうな。にしても、何処まで遊びに行ったんだか…」
一昨日の夜に弟の誘いを断って以降、胸の中で鈍く渦巻いている謎の不安感を溜め息に変えて小さく漏らしながら、ブレザーのネクタイを片手で解いていると有花が顔を上に向けて兄の瞳に語り掛けた。
「ねぇ、お兄ちゃん。最近、みんなで遊びに行く事ないよね。また、どこかに行きたいね」
「そうだな…。最近、俺が模試ばかりで休日も何も無かったからな。よし、再来週の日曜は模試も何も無いから何処か行くか」
「ホント? わぁいっ!」
「まぁまぁ。有花ちゃんは何を喜んでいるのかしら?」
兄の返事に眼を輝かせて喜ぶ少女の声を通りすがりに聞いた寮母が扉を開けてクスクス笑うと、笑われた方は唇の両端を吊り上げてはにかみ笑いを浮かべ、そのまま照れを隠すかのように兄の腕にしがみ付く。自分の腕でフフッと声を出して笑う妹に智哉は目を細めて笑いかけた。
「今日は楽しかったか?」
時間帯の関係か、多くの客で賑わうファミリーレストランの一席。食後のコーヒーを啜りながら問う父親に光矢はハンバーグステーキの最後の一かけらを口に運びつつ頷くと目の前の顔が綻んだ。
「そうか、楽しんで貰えて良かった。父さんも今日一日楽しく過ごせたんだ。光矢に礼を言わないとな」
「そ、そんな…」
照れを隠すように顔を下に向けてもごもごと咀嚼し、やや過剰な感じで口内の物を飲み込んだ息子を面白そうに見詰めながら、父親は脇に置いていた鞄に手を突っ込んで暫く掻き回した後、あっ…と小さく声を上げて眼を丸くした。
「どうかした?」
「あぁ…。実は光矢にプレゼントを用意してたんだが、どうも家に忘れて来たみたいなんだ」
「ありゃりゃ」
おどけた台詞と共に舌を出して笑う光矢だったが、困惑した様子で鞄を引っ掻き回す父親を見ている内に笑顔は微かな困り顔に変わった。
「べ、別に良いよ。そんな必死にならなくたって…。また一緒に遊びに行こうよ。その時で、良いから」
「いや、今日どうしても渡したいんだ。…なぁ、ちょっと父さんの家に寄ってくれないか?」
「えっ、でも…」
「まだ8時半前だろ? 此処から近いし、ちょっとだけだから。な?」
「じゃあ…」
父親に誘われた時、ふと脳裏に兄の顔が浮かんだが、手を合わせて懇願されると断る事が出来なくなって思わず頷いてしまう。決まりだな。自分の反応を見た父親は笑顔を見せて言った。
「じゃあ、早速行くか。先に出て待っててくれるか?」
「うん」
レシートを抓んで立ち上がる父親にピョコンと頷いて周りの客の視線を独占しながら、“ご自由にお取りください”と書かれた手書きのカードの下に置いていたレモン色ののど飴を一つ失敬して店の外へ出た光矢の背中を眼で追う父親の口の片端が吊り上がり、店内の片隅にある公衆電話の受話器を手に取ってカードを入れる。慣れた手付きでボタンを数度押して暫くした後に受話器から聞こえて来た声を聞いた彼は笑顔に冷酷な色を加えた。
「あぁ、今から連れて行く。ちゃんと待っててくれよ?」
クッ…と笑いながら出入り口の方へ目をやると、ガラス戸の向こうでボンヤリと星空を見上げながら飴を口の中で転がしている息子が視界に入る。その余りにも呑気な様子に父親は改めて詰まるような笑い声を漏らして受話器を置いた。
「さっき、誰に電話してたんだ?」
車を走らせ始めてから暫くした後、何気なく聞いて来た光矢に父親は食事をしている時から脳内で作り上げていた台本の台詞をそのまま口にした。
「あぁ、父さんの友達だよ。…実は光矢を見せてやりたくてな。今、父さんの家で待たせてるんだ」
「俺を?」
「そう。素直で綺麗な自慢の息子だからな」
「……」
父親の言葉に頬が熱くなるのを感じ、アッサリと赤く染まっているのであろう其処を隠すように両手で擦ると横から笑い声が聞こえた。
「何だ、照れてるのか? 本当にお前は可愛いなぁ。見かけも心も」
「………」
余計に照れを感じたのか頬を擦る速度を速め、そのまま視線を少し下に向けてしまった息子の反応に父親は改めておかしそうに笑いつつ、内心でニヤリと悪魔の笑みを浮かべた。
「此処がお父さんの家?」
車を降りて少し歩いた先に見えた古いながらも一部屋が広そうなアパートを見上げると、父親が隣で頷いて自分の背中に手を添えた。
「あぁ。ボロだけど、結構広いんだぞ?もし、光矢が父さんと暮らす事になったら、此処が光矢の新しい家になるんだ」
「此処が…」
「まぁ、その辺はまだ決まっていないから何とも言えないけどな。ほら、こんな所で立ち話しないでサッサと入ろう?今日は少し冷えるからな」
「あ、うん……」
すっかり忘れていた“父親との生活の事”を思い出し、微かに戸惑いの表情を浮かべた光矢の背中を父親の手がゆっくりと押す。それに合わせるかのように光矢の足が一歩進み、そのまま所々が欠けているコンクリートの階段を上がっていった。
それが自分の全てを狂わせる絶望への階段であるとも知らずに。
「お邪魔します……」
彼にしては珍しく緊張した様子で玄関に立つと、パチリと言う音と共に周囲の視界が明るくなる。父親に導かれるままに廊下を進み、閉ざされた扉の一つを開けると、突然部屋を包んでいた闇の中から数本の腕が伸びて自分の肩や腕を乱暴に掴んで闇に引き擦り込んで来た。
「!!?」
突然の事に眼を白黒させる余裕すら与えられずに床に引き倒され、その際に後頭部を打って軽く呻く光矢の両腕両足首を何かが掴んで押さえつけると共に上から幾重にも重なった笑い声が降りかかり、突如闇を照らした蛍光灯の光が光矢の眼に突き刺さった。眩しさに反射的に眼を細める光矢の視界に入って来たのは父親のそれとは違う幾体もの男の影達。
「ようこそ、いらっしゃい♪」
歓迎を意味する言葉ではあるが、それを言っている男の口元はだらしなく歪み、瞳は幼い光矢から見れば異様な光を帯びている。同じような状態の多数の瞳に見詰められている感触に恐怖を感じ、無意識の内に顔を横に向けるが、無骨な手が自分の頬を掴んで無理矢理恐ろしい光を見詰めさせられる羽目になる。
「写真でも可愛かったが、やっぱ実物はもっと可愛いよな。綺麗な顔しやがって」
「え? えっ…!? な、何? 何なんだ!? お、お父さん…っ!!」
状況が理解出来ずに混乱し、男達の中から父親を探した光矢は大きく息を呑んだ。其処にいるのは、ついさっきまでの明朗快活で優しかった理想の父親ではなく、エゴにまみれて冷酷そうな悪魔。父親の皮を被った悪魔は大きく唇の端を歪めると、息子の近くへと歩み寄ってしゃがみ込み、額の中心を指でピンッと弾いた。
「これがお父さんからのプレゼントだよ。今から、とっても気持ち良い事をこのお兄さん達にして貰うんだ。その快感がプレゼント…」
「何言ってやがるんだ。顔がすげぇ綺麗だからって料金割増にしやがって。ま、高い金払ってでもヤりたくなる顔してるけどな」
男の一人が懐から取り出した茶封筒を渡すと、父親は封筒の中を覗き込み、満足そうに頷いて息子から離れた。
「よしよし、ちゃんと代金は受け取ったからな。さ、暫くの間そのガキはアンタ達の物だ。好きにしてくれ」
「なっ…何言ってやがるんだ!! 勝手に話を進めるんじゃねぇよ!! 離せっ……離せぇっ!!」
恐怖心に潰されかけながらも光矢は声を限りに叫びながら派手に暴れて抵抗し、何とか男の手を擦り抜けた右手が手近な人間の顔を打った。
「くっ…! このガキ…ガタガタ騒ぐんじゃねぇ!!」
「!!!」
突如眼前に突き付けられたナイフに叫びは喉の奥へと引っ込み、身体も抵抗の二文字を忘れる。ナイフを持った男はヘヘッと笑い、部屋の光に反射する刃を光矢の頬に押し当てた。
「ほーら、今度抵抗したらお前の綺麗な顔に大きな傷を付けちゃうよ。それでも良いのかなぁ? 自慢のお顔を傷付けたくは無いよなぁ?」
「……やれるもんならやってみろよ。あぁ、そうさ!! やってみろよ! 俺の顔に十字傷でも何でも入れてみろ!!」
「なっ……!」
てっきり、大人しくなると思った少年の思わぬ答えに驚いた男のナイフが小さく跳ね、少年のすべらかな頬に一本の細い赤線が引かれる。顔に傷入れちまうの? 勿体ねー。誰かの声が聞こえた気がした。
「……ほぉ〜? 顔に傷が付いても良いんだ?」
一歩離れて面白そうに様子を見ていた父親が近付き、片膝を突いて息子の頬に滲む血をゆっくりと指で拭い取りながら冷笑混じりに言った。
「顔に傷が付いたら誰もお前の事なんか愛さなくなるぞ?」
「――――!!」
愛さなくなる。その言葉一つだけで顔を強張らせて息を呑んだ光矢の反応に父親は片眉を吊り上げ、思いつくままに光矢の抵抗を止める言葉を並べてみた。
「お前、分かってるのか? 今、お前が周りに良くして貰ってるのは顔が良いからだぞ? その顔に傷が付いたらお前を愛する理由なんて無くなるさ。智哉も有花もお前から離れたりしてなぁ?
醜い傷を持ったお前なんかと関わりたくないって」
「……兄ちゃんも……有花も……」
声と同じように震える右手を胸の前に近付け、胸元で光る十字架を強く握り締める光矢の瞳から一粒の涙が伝い落ちる。もう、抵抗の意志は無くなった。好きにしてやれ。悪魔が目配せで男達に伝え、再度息子から離れて台所へと向かった。カシュッ。缶ビールを開ける音が光矢の耳にまで届いて来た。
「お。大人しくなったなぁ? 良い子だ。でも、急に暴れると面倒だからな。押さえとけや」
「おい、コイツ右手に握ったペンダント離さねぇぞ」
「ほっとけよ。初めての奴がシーツ握る感覚なんだろ」
「……………………」
俺、これから何されるんだろう? 虚ろな目で部屋の電灯を眺め、男達の会話をボンヤリ聞きながら母の形見を強く握り締め直す光矢に下卑た笑い声が降りかかった。