温かいシャワーが一日の埃を洗い流していくが、無表情で押し殺していた心の重さは全く流されそうに無い。俺は誰よりも兄ちゃんの事が好きだって自信はあるよ。 十分ほど前、涙も拭わずに紡いだ弟の言葉が彼の心を重くし、戸惑わせる。視線を前に向けると曇った鏡の中に輪郭がぼやけた自分の顔が映った。美しい弟に惚れられるには余りにも不釣合いに思えてならない己の顔。雰囲気は似ていると何度か言われた事はあったが、それを否定せずにはいられないあの美貌。
 弟の秀抜な体躯の調和と秀麗な美は、兄にとって自慢であり、羨望であり、同時に嫉妬でもあった。弟は弟で自分の長身をやたらと羨ましがっていたが、その眼差しさえも自分の空しさを増長させる位に彼は美しく、ある時は全てを賭して守らねばならぬと言う防衛心を促し、またある時は全てを壊したいと言う破壊衝動を掻き立てた。時には瞳の中に宿る大きな宝石をキラキラと輝かせながら柔らかな薔薇色の唇の両端を吊り上げて笑い、時にはその宝石を強く燃やして浮かぶ限りの怒りの言葉を吐き出し、時には大きな瞳と比例しているかのような大粒の涙をボロボロと零しながら悔しそうに唇を噛み締め、時には何処か別の世界が見えているかのように遠い眼をした無防備な顔を見せる。そんな多数の表情を持ち、それをコロコロと変える弟は普段から表情に乏しい自分を密かに妬ませ、同時に魅了していた。つまり………
 其処まで考えた智哉はハッと我に返ったかのように微かに眼を見開き、大きく溜め息を吐いて凛々しい両眉の間を軽く抓って目を閉じた。

 言うんじゃなかった。電灯も点けていない暗い自室のベッドに腰掛け、祈るように組んだ手に額を当てた光矢の瞳から涙が止め処なく流れ、兄に想いを告げた事による後悔を思い出すとその量が急激に増える。分かってたじゃないか。兄ちゃんと俺は実の兄弟だから、この恋が成就する訳無いって。光矢は数十分前に想いを吐露した感情的な自分自身を恨み、戒めるように己の手の甲に力の限りに爪を立てた。彼が自分の想いを知ってしまった以上、もう今までみたいに接する事は出来ないだろう。それが何よりも辛いと言う事は充分に分かっていた筈なのに。
「……でも…」
 でも、やっぱり俺は本気で兄ちゃんが好きだった。いや、“だった”なんて過去形じゃない。例え駄目だと言われても、タブーだとされても、俺は兄ちゃんが好き―――
 ガチャッ。
「!」
  突如耳に飛び込んで来た音に思考を中断され、反射的に頭を上げて音がした方を見ると、開いた扉のドアノブに手をかけている兄がいた。彼の顔を見た瞬間に蘇る後悔と羞恥と恋心が顔を瞬く間に熱くする。
「…何だよ」
  喉の奥から呻くような声を出しつつ顔を横に向けるが、兄は何も言わずに灯りを点けて静かに自分に近付いて来た。
「…実の兄貴に惚れた弟に対する説教か? それとも身内を愛する事がタブーとされている事についての講義か? …勘弁してくれよ。今は何も聞きたくない。兄ちゃんの顔を見るのも辛いんだ」
「…………」
  敢えて自暴自棄な声で言い、大袈裟に肩をすくめても彼は表情も無言の姿勢も崩さずに隣に腰掛けて来る。石鹸の香りがする風が光矢の鼻腔を擽った。その後も自分を見るでもなく、口も開かずに無言を維持する兄に光矢は苛立たしげに再度口を開いた。
「だから、何なんだよ。何か用があるんじゃねぇのか?」
「……………」
  苛立ちの声に漸く兄は顔を弟の方へ向け、暫くの間その瞳をじっと見詰める。兄の不可解な行動の連続に改めて苛立ちをぶつけようとした一瞬前に兄は先手を打つかのように口を開いた。
「……お前を…」
  其処まで言ってまた黙り、視線を下に向けるが、それも一瞬の事。下を向けると同時に舌先で軽く唇を濡らした智哉は即座に顔を上げて、再度弟の瞳を覗き込んで静かに言った。
「…抱きに来た…って言ったらどうする?」
「えっ……」
  予想外過ぎる言葉に自暴自棄も苛立ちも吹き飛ばされて微かに素っ頓狂な声を出し、内心で冗談だろうと疑う光矢だったが、兄の真剣な顔にその疑いは呆気無く揉み消された。
「……だ、抱くって…兄ちゃん…」
「…抱きに来たとは言っても、俺は何もしない。お前に任せる。お前が俺にしたい事をしたいようにすれば良い」
「な、何もしない……俺に任せるって…本当に何をしても良いのか? 抱き付いたり、キスしたりしても良いわけ?」
「お前がそれを望むのならな」
「……………」
  何時もと変わらぬ表情で、何時もと変わらぬ声色で言葉を紡ぐ智哉を光矢は暫し凝視していたが、やがて見詰めていたその顔にそろそろと手を伸ばし、頬を撫で始めた。
「ぁ……」
  ただ頬に触れただけなのに胸の中心部が急に忙しく動き始め、ドンドンと激しい鼓動になって胸を打つ。それでも高揚する自分とは打って変わって相も変わらず表情を崩さぬ兄に少しムッとした光矢は、半ば勢いに任せた様子で唇を近付けて兄のそれと重ねてみた。柔らかく、お互いに溶け合いそうな唇の感触に自然と頬は赤くなり、派手な鼓動は胸から全身に範囲が広がるのを感じた。あぁ…どうしよう…身体が…妙に熱い。心臓が何か別の生き物になって胸を突き破りそう。軽く触れ合うだけのキスでこんなに熱くなると言う事は有り得るのだろうか?
「……うんっ…ん……ぅ…」
  幾度も細かく唇を重ねる度に体温は上昇し、腕が次第に兄の身体に絡み付き始める。軽く離した唇から艶めいた熱い吐息が漏れ、瞳が微かに揺れた。それなのに兄は全く変わらない。頬の色も瞬きの回数も口元も何も変わらない。それどころか
「…何だ、それだけで良いのか?」
  小さく開いた口から出たのは愛の囁きではなく、自分とは正反対に余裕である事を表す言葉。捉え方によっては挑発にも聞こえる言葉。何だ、それだけで良いのか? お前の想いと言うのはその程度のものなのか。兄の台詞の中にそんな内心の言葉が隠れている気がし、そこまで考えた瞬間頭がカッと熱くなり、頬の紅が一層濃くなった。相手の“挑発”にまんまと掛かって半ば逆上した頭は冷静な判断も何も出来なくなり、ただ本能のままに相手を突き飛ばしてベッドに沈めて、その上に乗る。其処までして漸く、前髪を少し乱した兄が小さく…本当に微かに口の端を吊り上げた。
「そうか。抱かれる方ではなく、抱く方を選択したか」
「…ち、違う」
  何処までも冷静な兄に翻弄されかけている弟は少し瞳に落ち着きを取り戻して小さく首を横に振り、咎めるように、そして懇願するように瞳を潤ませて相手の指に己の指を絡めた。
「俺一人動いたって、何も出来やしない。兄ちゃんも、じっとしていないで少しは動けよ」
「……………」
  濡れた瞳を暫し眺めていた智哉の瞼が薄く閉じられ、クッと小さく笑いを漏らす。その態度に小さく頬を膨らませる光矢だったが、突如腕を掴んで来た兄の指の感触に心臓が跳ねた。
「動けと言う事は、お前を抱いても良いって事なんだな?」
「……ぅ…」
  兄の確認の言葉に光矢は戸惑い気味に小さく呻いたが、一瞬眼を硬く瞑った後に決心したのかゆっくりと頷くと兄はまた小さく笑った。
「…お前が嫌だと言ったら、すぐに止めるから」
「………ん…」
  再度頷いた自分の頬を丁寧に撫でて来る智哉の手に自分の手を重ねると、相手の体温が伝わるのを感じる。その心地良さに熱く揺れる息を吐きながら、光矢は自分よりも精悍さを感じる兄の顔を見詰め、頬に触れている手が離れるのを拒むように両手でその手首を掴んだ。兄ちゃん。掴んでいる手に自分の顔を軽く押し当てながら甘えた声で呟いた後、再度彼は兄を呼んだ。
「…なぁ、兄ちゃん。怒らないで聞いて欲しいんだけど…」
「うん? 何だ?」
「あの……」
  頭の中で反復されるのは、前々から気にはなっていたが中々聞き出せなかったとある質問。その答がイエスであれば兄を本気で心配したくなり、逆にノーであればそれはそれで嫉妬の炎で胸を焦がされそうなその質問を口にする事を、光矢は暫し瞳を泳がせて迷っていたようだが、やがて唇を舌で軽く濡らしてそれを口にした。
「…兄ちゃんってさ…その、童貞?」
「…いや?」
  首を小さく横に振って答えた兄の答に意外そうに眼を丸め、瞬きと同時に胸に宿った嫉妬の火種に顔を紅潮させた弟が何か言わんと(彼の事だから、“相手は誰だよ”と言う台詞だろうが)口を開こうとした瞬間、智哉の腕が下から伸びて女のそれを刺激するかのようにシャツの上から弟の胸を押さえ、そのまま軽く押し上げる。その行動に頬の紅を一層強めて言葉を飲み込んだ弟を凝視しながら、智哉は興味無さげに言った。
「大学の時に付き合わされた飲み会で一緒になった女と一回だけ。酷く酔ってたから家まで送ってやったら“抱いてくれるまで帰さない”ってさ。で、本当にしつこく言って来て、帰してくれそうにないから女の願いを聞いた。それだけの話だ」
 淡々と話される兄の過去を聞いた光矢は胸が少し痛んだ。兄ではなく、その女性の事を考えて。きっと、きっとその人は……
「……その女の人さ、兄ちゃんの事が好きだったんじゃね? だから、そう言う事言ったんじゃねぇか?」
「例えそいつが俺を好いたとしても、俺はそいつに興味が無かったからどうにもならない。お前もさっき言ったじゃないか。相手が自分を好きになっても、自分もそいつが好きじゃないと意味が無いって」
「……そう、だけど……」
 語尾を弱めながら答える光矢の胸中は一気に不安で曇って行った。もしかして、今こうして俺を相手にしてくれているのも“仕方ないから”なのかな。相手をしないと、また俺が癇癪起こして面倒な事になるから…
「心配するな。お前の事は嫌いじゃない」
「えっ……うわっ!」
  まるで自分の胸中を読まれたかのような台詞が下から聞こえたかと思うと視界が目まぐるしく回り、何時の間にか声の主が上にいる。突然の事に眼を丸くする光矢だったが、伸びて来た手が髪に触れた途端に動揺が急激に治まるのを感じた。

 丸くしていた眼を心地良さげに細めた弟につられて同じく眼を微かに細めた智哉は、黒が強い檜皮色の髪を幾度も撫でた。その柔らかな髪を撫で、指で軽く梳きながら、智哉は弟の顔を凝視する。豊かで長い睫毛の隙間に見える吸い込まれそうな大きな鳶の瞳に自分の顔が映し出され、瑞々しい桃の唇が嬉しそうに綻ぶと規則正しく並んだ白が零れた。
 ドクン。冷静な仮面の下で跳ねる胸の中心。相手は気付いていないようだが、呼吸が微かに乱れ始め、髪を梳く指先も痺れみたいな物を覚え始める。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かようとしても、それは逆に焦りとなって胸の鼓動を速く、そして大きくする。強靭な冷静沈着な仮面も、弟の美貌と無垢な笑顔の前には呆気なく引き剥がされて………
「っ! に、兄ちゃん…?」
  髪を撫で続けていた手がピタリと止まったかと思うと、その優しかった手付きとは対照的に乱暴に腕を掴まれて強く引き寄せられる。そのまま力の限りに抱き締めて来た兄の腕力に微かに顔を歪める光矢の耳元に感情を何とか抑えているような兄の声が聞こえて来た。
「……お前が嫌だと言ったら止める約束だったが…俺も男だからな。これ以上進めると自分を制御出来なくなるかも知れない。お前が嫌がっても歯止めが利かないかも知れない。…それでも…するか?  止めるなら今の内だ」
「…まだ、それらしい事も何もしてないじゃん。俺は平気だよ? 兄ちゃんだから、平気」
「…………」
  彼は何故こうも自分を惑わす台詞を口に出来るのか。頭を少し動かして相手の顔を見れば、無邪気な笑顔を見せてくれる。その笑顔に引き寄せられるように無意識の内に智哉の顔が近付き、半ば本能が赴くままに唇を重ね合わせると、ふわりと柔らかい感触が唇に広がった。へへっ。唇を微かに離した途端に聞こえる嬉しそうな笑い声。
「何か嬉しいな。兄ちゃんにキスして貰えるなんて」
  幸せそうに、そして何処か照れ臭そうに笑い、少女のように赤らめた頬を胸元に押し当てる弟を兄は純粋に愛しいと思った。たった一度口付けをしてやっただけでこんなに喜ぶ弟。では“キス以上の事”をすれば、どのような反応をするのだろう。疑問が頭に浮かんだ時には、既に身体が動いていた。
「…ん…っ…」
  抱き締めていた身体を丁寧に横たえた手が光矢の両足の間に近付き、何かを確認するかのように中心に触れると既に硬度を増している男の熱が伝わり、触れられた方の口から戸惑いと快楽が入り混じったような声が小さく漏れる。性格と同じく素直である弟の身体に智哉は微笑を浮かべ、熱に触れている手を激しく上下させて布越しに擦りあげると、裏返った嬌声が聞こえて来た。
「…ぁ……あっ、やぁ…ッ……!」
「反応良いんだな、お前」
  身体を震わせ、時折腰を浮かせながら喘ぐ弟の様子を面白そうに眺め、赤い顔に口を近付けて柔らかい耳朶に軽く歯を立てると、弟の身体が改めて震えて、短い嬌声を飛ばす。このままイカせてやろうか?  彼にしては珍しい意地悪な声で囁きかけ、返事も待たずに手の動きをより激しくしようとした兄の手首を光矢は何とか掴み止めた。
「はっ……はぁ…だ、駄目…っ…」
「…嫌だったのか?」
  快楽の所為か熱く潤んだ自分の瞳を見詰めて来る智哉の不安げな顔に光矢は慌てて首を振った。
「い、嫌…じゃないけどっ……下着…汚れる、からっ…」
「……………」
  息を切らせながら、恥ずかしげに下半身の服を軽く掴む光矢の手を取った智哉の唇が甲に触れる。思わぬ行動に目を丸くする弟を可笑しそうに見ながら、智哉は少し声を出して笑った。
「お前がそう言う事に拘るなんて意外だな」
「…い、嫌なモンは嫌なん……」
  恥ずかしげに言っていた台詞が途中で途切れたのは、兄の手が躊躇も何も無く下着ごと衣服を掴んで膝下まで下ろしたから。既に先端から溢れていたらしい蜜が脱がされる着衣との間に細い糸を引いた。
「……ぁ……」
  兄の目の前に自分を晒すと言う事に羞恥を感じて顔を覆うが、無言で待つ兄に観念したのか恐る恐る手を下ろし、これからされる事に対する不安と緊張と密かな期待と喜びの入り混じった顔を見せると、兄は静かに顔を綻ばせて囁きかけた。綺麗だよ。それは生まれてから多くの人間に幾度も言われ、正直な所聞き飽きた(…と人前で口にすれば、顰蹙を買うのだろうが)台詞だったのに、兄に言われた瞬間に胸が燃え上がるように熱くなる。
「…に、兄ちゃん……」
  瞳と唇を濡らし、無意識の内に両手で銀の十字架を包み込む光矢に智哉は改めて微笑み、ついさっき自分を呼んだ小さく開いている薔薇の蕾に自分の唇を押し当てた。