一式陸上攻撃機/特別攻撃機「桜花」


                                    
        一式陸上攻撃機/特別攻撃機「桜花」
 
 1921年と1930年の2回に渡って、第1次世界大戦の戦勝国の間で海軍軍縮会議が行われました。これは戦争回避もさることながら、遠まわしに日本の軍事力増強の封じ込めの意味合いも含めていました。ここでは詳しい解説を割愛しますが、この条約の結果、日本は海上戦力を大きく漸減されることとなりました。戦艦、航空母艦はおろか、駆逐艦までも制限された日本が取った手段は航空戦力を持って海上戦力の不足を補うことでした。

 陸上基地から発進させた中型爆撃機で敵の艦船を空爆すれば、大口径の主砲で攻撃することと同じ意味を持ちますし数十キロ先から大砲を撃つよりも航空機の空爆の方がはるかに高速で正確です。このコンセプトで開発されたのが96式陸上攻撃機でした。昭和12年、日中戦争が始まり重慶(中国内陸の工業都市。現在は人口300万超)爆撃に投入されました。都市爆撃にも艦船攻撃にも有用であることを確信した日本海軍は三菱に対して96式陸上攻撃機の後継機の開発を命じました。後の一式陸上攻撃機(以下一式陸攻)でした。


 開発は前作の96式陸上攻撃機(以下96式陸攻)の欠点を改め、南方作戦を視野に入れて航続距離が4000キロ以上あること、前作より高速・重武装であること、生産しやすいことなどが盛り込まれました。その結果、三菱の新技術が惜しみなく投入され以下の特徴を有する新型爆撃機が誕生しました。

・搭載する爆弾類は機体内に内蔵することができ、空気抵抗を大幅に減らすことに成功した。
・コクピットから胴体尾部まで流線型でまとめたため、空力学的にスピードが出やすくなった。
・主翼外板を燃料タンクの一部とする「インテグラルタンク」の新規採用(デッドスペースの削減)
・零戦に採用された20ミリ機銃を防御火器に採用し、空対空戦闘力を強化した。
・大型高出力エンジン「火星」を採用してスピードアップ(後の局地戦闘機「雷電」のエンジンでもある)

 昭和14年10月試作機が完成し、無事に初飛行を迎えました。採用を揺るがす致命的な欠陥も無かったようで昭和16年4月制式採用されました。太平洋戦争勃発後はマレー沖海戦でイギリスの戦艦を航空攻撃で壊滅させ、日本海軍航空隊とその航空機のレベルの高さを全世界に見せ付けました。

 しかし、どんな高性能機も時代に合った性能が発揮できなくなれば旧式機となります。開戦当初はトップクラスの性能を有した一式陸攻も昭和17年後半には徐々に損害が目立ち始めました。その主たる原因は速度性能もさることながら、防弾性能の低さからでした。

 当時の海軍には「戦闘機無用論」という思想があり、高速重武装の爆撃機ならば、戦闘機がなくとも作戦遂行が可能というものでした。しかし、いかに一式陸攻が高速といっても時速400キロ代前半では簡単に敵戦闘機に捕捉されますし、搭載された防御火器の命中率は乏しいものでした。また防弾装備を施されていない燃料タンクは一度敵の弾が命中すれば、松明(たいまつ)の様に燃え上がり貴重なベテランパイロットを一挙に失うという結果になっていました。
 後継機のデビューが遅くなる最中、三菱でもエンジン換装や主翼の再設計、防弾タンクの採用などに踏み切りますが続々と登場するアメリカの新鋭機の前にはどうすることもできずただ「ワンショットライター」と揶揄され徒に犠牲を増やすだけでした。




 昭和19年、アメリカは日本本土空襲を実現させるため南太平洋からマリアナ諸島方面(グアム、サイパン)への作戦を開始しました。日本もそれに呼応して、再建されたばかりの機動部隊でアメリカを迎え撃ちました。世に言う「マリアナ沖海戦」です。この戦いで完敗した日本海軍は戦略方針を大きく改めました。

 「航空機動部隊による組織的攻撃から奇襲による肉迫攻撃への転換」

それはすなわち特攻メインに切り替えるというものでした。ディフェンス面ではアメリカの進撃を食い止めるために戦闘機の開発が継続されましたが、オフェンス面では特攻用兵器の開発という技術者にとっては死ぬよりつらい設計を強いられたのです。マリアナ沖海戦に敗北した昭和19年8月、1人の海軍特務少尉が海軍航空技術廠にあるプランを持ってきました。その内容は大型爆撃機にロケット推進式の有人ロケットを懸架し、敵上空で切り離すというものでした。この有人ロケットに脱出機構は無く、パイロットは射出後、二度と生きて帰ることはできませんでした。
 後に新幹線開発のキーパーソンとなる三木忠直技術少佐は


       「技術者として承服できない。こんなものは恥です。」


と言ったエピソードが残されています。しかし、軍令部にこのプランを持っていったところ、新たな特攻兵器を模索していた彼らは飛びつきました。さっそくプランは実行に移され、皮肉にも反対意見を唱えた三木技術少佐が設計を担当することになりました。このプランは前もって東大航空研究所で風洞実験が行われており、そのデータを基に設計図はわずか1週間で描き上げられ、試作機も1週間足らずの急ピッチで進められました。

 元々特攻兵器として運用される予定でしたので、材料は木が多用され構造も生産しやすいよう簡便化されました。航空兵器というだけあって主翼や安定翼はありましたが、敵艦に突っ込むまでのコースの微調整程度の機能でした。
 運用直後は出撃前に原則1度だけ訓練が行われました。火薬の代わりに同重量の水を詰めた桜花で実際に射出・突入訓練が行われたのです。しかし、ソリによる着陸が可能とはいえ、水バラストの操作が着陸の成否を分ける訓練は殉職者を多発する結果となり訓練は早々と中止されました。

 桜花はフィリピン戦でデビューする予定でしたが、空母信濃で輸送中に桜花のパイロット共々アメリカ潜水艦によって撃沈されました。また後続部隊も空母雲竜で輸送中、潜水艦によって撃沈されており初の実戦投入は沖縄戦にまでずれ込みました。


 昭和20年3月、九州にいた第721海軍航空隊に桜花による特攻命令が下りました。総指揮官であった野中海軍中佐は十分な護衛機がなければ完全に失敗に終わると上申しましたが、その声は握りつぶされました。実際には一式陸攻18機に対し、零戦55機が護衛につきましたが25機がエンジントラブルで引き返し、敵戦闘機の迎撃を掻い潜って攻撃が成功する望みは絶たれました。敵艦隊に到達する前にレーダーで補足され、待ち伏せていた艦載機によって桜花搭載機はわずか20分たらずで全て撃墜され、生還できたのはわずか20機の零戦のみでした。
 出撃前、野中中佐は部下である飛行長に

「湊川だよ」

と言ったエピソードが残されています。

母機ごと撃墜されれば一挙に8人の搭乗員を失うリスクの高い作戦にも関わらず軍部は桜花にこだわり続けました。しかしその戦果は母機・桜花のパイロット合わせて400名以上を失いながら駆逐艦一隻というあまりに見合わないものでした。




 戦後、桜花を接収した米軍はその気の触れた発想を揶揄し「BAKA BOMB」(バカ爆弾)と呼んだそうです。

 また、桜花計画に反対しながら、お国のためにと桜花を設計させられた三木少佐は戦後自分の設計した桜花で多くの未来ある若者を散らせた事で自分を責め続けました。クリスチャンであった彼の母と妻の勧めで彼はキリスト教に改宗しました。

「凡て重荷を負ひて労苦せる者我に来たれ。我汝等を休ません」(マタイ伝11:28)
(すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます )

この言葉を胸に彼は今まで培った技術を平和な新生日本の役に立つ新幹線で開花させました。




※湊川・・・「湊川の戦い」のこと。
 1336年、足利尊氏と新田義貞・楠木正成連合軍との間で行われた合戦。
 足利軍が総勢25万の軍勢であるのに対し、新田・楠木連合軍は手勢がたったの3万強という必敗の戦いであったが、楠木正成は天皇への忠義のため逃げずに戦った。この戦いの結果、楠木一族は滅亡したが、義に殉じた武将としての誉が残った。現在の湊川神社(兵庫県神戸市)は楠木一族を祀る神社である。 


性能諸元 (一式陸攻二二型 )              


 全長; 19.63m
 全幅;  24.88m
 全高;  6.00m
 正規全備重量; 15,451kg
 エンジン; 火星21型 
       (離床馬力1850馬力×2)
 最大速度; 437km/h (高度4600m)
  武装;  
7.7mm旋回機銃×3(前方・側方)
         20mm旋回機銃×2(上方・尾部)

  爆装;   60kg爆弾×12
        250kg爆弾×4
        500kgまたは800kg爆弾×1
        800kg航空魚雷×1
        

性能諸元 (桜花一一型 )      
 全長; 6.066m
 全幅;  5.12m
 全高;  1.16m
 正規全備重量; 2270kg
 動力; 火薬式ロケット 
     (推力800kg×3)
 最大速度; 1040km/h 
      (急降下突撃状態時)

  武装;  
1200kg徹甲爆弾  





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