
日本人の大半が知っている戦闘機で最も有名な戦闘機として真っ先に名前が出てくるのはこの零式艦上戦闘機のことでしょう。大抵は「ゼロセン」と呼ばれていますが、正式には「れいせん」となります。おそらく連合国側に「ゼロ」と呼ばれた名残でしょう。
昨今コミックやゲームなどでは、奥の手の表現で「ゼロ」や「零式」などが乱発されていますが、何か深層的なものにかつて日本が世界に誇ったこの「零式艦上戦闘機」があるように思えてなりません。
1938年、日中戦争において96式陸上攻撃機によって拠点爆撃が実施されていましたが、この爆撃機の航続距離に随伴できる護衛機は無く中国空軍の迎撃機による損害はもはや軽視できる状況にありませんでした。この状況を鑑み、海軍は中島飛行機に双発の長距離戦闘機(後の「月光」)の開発を、単発の長距離戦闘機の開発を三菱に命じました。これに対し三菱は当時30代そこそこの新進気鋭の設計技師、堀越二郎を中心とした設計チームに委ねます。
設計要求は先行投入された96式艦上戦闘機を上回る運動性と大陸爆撃に随伴できる長大な航続距離、そしてスイスエリコン社製20_機銃の搭載でした。この条件は当時の日本には過酷な要求でしたが、鋲(びょう)一本にいたるまでの徹底的な軽量化を図り、さらには当時住友金属で開発された新材料、ESD(超々ジュラルミン)を使用して設計要求値を達成したのです。その運動性は当時の世界の常識をはるかに超えるもので、初陣となった重慶上空での空中戦では1機の損害も出さずに2倍の敵迎撃機を壊滅させ、中国空軍を震撼させました。
やがて空母「赤城」を中心とする航空機動部隊編成に伴い、空母での運用も検討されます。昇降機(エレベータ)幅に主翼を50pずつ折りたためるように改良された零戦が大戦初頭のゼロファイター伝説を作った21型です。特に運動性が高く、格闘戦となった場合は連合国の戦闘機はまったく歯が立たず連合国のパイロットたちは「積乱雲と零戦に出会ったら逃げろ」と教えられていたというエピソードがあります。「大空のサムライ」で有名な坂井三郎氏をはじめとする日本のエースパイロット達も大抵はこの21型で武勲を挙げたケースが多いようです。
操作性に優れ、稼働率も高い(大戦末期においても7割強)素晴らしい機体だったのですが、運動性と強力な武装を達成するために犠牲になったのが防御面の不足でした。緒戦はこれを腕でカバーできる熟練パイロットが綺羅星のごとくそろっていたのですが、ミッドウェー海戦の敗北で第一線のパイロットを失った後は防御面を腕でカバーできるパイロットが不足し、零戦はその真価を発揮することはありませんでした。
さらに戦争が激しくなるにつれ、大馬力エンジンを搭載したアメリカ軍機に圧倒されはじめます。零戦は「栄」エンジンとの精緻な組み合わせにより、改良の余地が無いほど完成された機体であったことから、エンジンの載せ換えや主翼の改良などのマイナーチェンジしか施せずほぼこの一機種で戦い抜くことになりました。
終戦直後はパイロットの命を軽視した欠陥機と酷く非難されましたが、時間が経つにつれ見直され現在では世界各地で日本の傑作機としてレストアが行われています。
性能諸元(零戦21型 A6M2)
全長; 9.06m
全幅;
12.20m
全高; 3.509m
正規全備重量; 2336kg
エンジン; 中島「栄」12型 (公称出力 940HP)
最大速度; 533km/h
航続距離;
3350km (関空を出発するとして無補給でベトナムまで飛べます)
武装; 20o機銃×2 7.7mm機銃×2
爆弾:30kg×2または60kg×21