零式艦上戦闘機 21型  
  
    
        零式艦上戦闘機 21型 

 日本人の大半が知っている戦闘機で最も有名な戦闘機として真っ先に名前が出てくるのはこの零式艦上戦闘機のことでしょう。大抵は「ゼロセン」と呼ばれていますが、正式には「れいせん」となります。おそらく連合国側に「ゼロ」と呼ばれた名残でしょう。
 昨今コミックやゲームなどでは、奥の手の表現で「ゼロ」や「零式」などが乱発されていますが、何か深層的なものにかつて日本が世界に誇ったこの「零式艦上戦闘機」があるように思えてなりません。

 昭和12年、日本海軍は「12試艦上戦闘機計画要求書」という新型機開発の各航空機メーカーに公募しました。この公募に応じたのは中島飛行機と三菱重工業の2社でした。

 設計要求とされた点を簡潔にまとめると以下のようになります。

 ・最大速度は高度5000mで時速500キロを超えること
 ・武装は7.7mm機銃と20mm機銃を2丁ずつ装備できること
 ・滞空時間は巡航速度で6時間以上
 ・運動性は主力戦闘機の96式艦上戦闘機と同等以上

 この要求はあまりに過酷で、96式艦上戦闘機を上回る97式戦闘機を開発した中島飛行機が途中で辞退したほどのもので、後に開発に成功する三菱の堀越二郎技師ですら「ないものねだり」といわせるほどのものでした。消去法で三菱が単独開発することになりましたが、その要求があまりにレベルが高すぎるため、昭和13年4月、三菱と海軍との協議の席が設けられ「航続距離、運動性、速度」の優先すべきものを1つ挙げてほしいという要望を出しました。しかし、三菱が開発中の新型機にかける期待の大きさから海軍は一歩も譲らず、三菱は持てる技術すべてを投入して開発することになりました。

 この当時、飛行機の材料にはジュラルミンというアルミ系の合金が広く用いられていましたが、三菱は軽量化と強度確保のため新素材「超々ジュラルミン(略称ESD」を採用しました。このESDは住友金属工業が海軍航空技術廠の要請で開発したものですでに存在していた超ジュラルミンよりさらに高い強度がありました。

このESDは現在のJIS規格ではA7075と呼ばれ、今でこそハードケースや金属バットなど身近なところで使われていますが、かつては最新鋭戦闘機の部材だったのです。

 さらにエンジンも日本で始めて1000馬力級の栄エンジンが採用され、極限まで軽量化された機体との相乗効果で当時としては常識はずれの速度と運動性を持つ伝説の戦闘機が誕生しました。しかし、新材料ESDを使ったとはいえ、まだ未知の部分も多く、テスト飛行で急降下をした際に空中分解するなど様々な困難を乗り越え、昭和15年7月、ついに制式採用されました。この年は皇紀2600年であったことから、2600年の下二桁を取って「零式艦上戦闘機」と名称がついたのです。しかし、開発年度が他国の諜報機関に知られてしまうことを恐れ、新聞などのマスメディアで「零戦」や「零式艦上戦闘機」といった呼称が軍部から禁止され「荒鷲」あるいは「若鷹」などの表現が使われました。

 
 制式採用された直後、初期量産型は中国戦線に送られ、8月には96式陸上攻撃機の護衛任務に付きました。この当時、主力戦闘機であった96式艦上戦闘機では爆撃機の長大な航続距離に随伴することができず、中国空軍の迎撃機による損害は軽視できないレベルになっていました。零戦が護衛に付くようになってからは、迎撃機がめったに姿を見せなくなり、初の実戦は9月になってからでした。中国空軍が配備していたI-15,I-16と別次元の運動性と火力は当時の世界の常識をはるかに超えるもので、初陣となった重慶上空での空中戦では1機の損害も出さずに2倍の敵迎撃機を壊滅させ、中国空軍を震撼させました。

 やがて空母「赤城」を中心とする航空機動部隊編成に伴い、空母での運用も検討されます。昇降機(エレベータ)幅に主翼を50pずつ折りたためるように改良された零戦が大戦初頭のゼロファイター伝説を作った21型です。特に運動性が高く、格闘戦となった場合は連合国の戦闘機はまったく歯が立たず連合国のパイロットたちは「積乱雲と零戦に出会ったら逃げろ」と教えられていたというエピソードがあります。「大空のサムライ」で有名な坂井三郎氏をはじめとする日本のエースパイロット達も大抵はこの21型で武勲を挙げたケースが多いようです。


 操作性に優れ、稼働率も高い(大戦末期においても7割強)素晴らしい機体だったのですが、運動性と強力な武装を達成するために犠牲になったのが防御面の不足でした。

 実は初陣となった中国大陸で既に現場のパイロットから要望は挙がっていたのですが、「運動性と速度を持って回避すべし」と納得させられ、防弾装備が検討されることはありませんでした。意外なことにヨーロッパでも防弾装備を付けた戦闘機は運動性が落ちるとパイロット達から嫌がられ、アメリカが武器貸与でヨーロッパに持ち込んだ戦闘機からその考えが改められたほどでした。

 緒戦は防御力の不足は腕でカバーできる熟練パイロットが綺羅星のごとくそろっていたのですが、ミッドウェー海戦の敗北からガダルカナルの戦いで第一線のパイロットを失った後は防御面を腕でカバーできるパイロットが不足し、零戦はその真価を発揮することはありませんでした。

 また零戦の持つ長大な航続距離はパイロットに想像以上の負担を強いることになりました。零戦の開発目的は元々空母上空に長時間待機して、敵機を警戒することにありましたが、それは長距離作戦にも向けられました。ガダルカナルの戦いでは往復6時間の作戦が実施されました。たった30分の空中戦のために6時間の間、敵からの奇襲を警戒しながら操縦することの負担、さらにはオートパイロットやナビゲーションシステムのない時代の長距離飛行は高度な技量や精神力が要求され、空戦後の疲労や負傷でパイロットが意識を失って墜死したり、燃料切れで不時着したりと大勢の熟練パイロットを失う結果になりました。


 さらに戦争が激しくなるにつれ、大馬力エンジンを搭載したアメリカ軍機に圧倒されはじめます。零戦は栄エンジンとの精緻な組み合わせにより、改良の余地が無いほど完成された機体であったことから、エンジンの載せ換えや主翼の改良などのマイナーチェンジしか施せずほぼこの一機種で戦い抜くことになりました。

追い詰められた日本は昭和19年秋から特攻作戦を開始し、零戦は戦闘機としてではなく、爆弾を搭載して敵艦に突入する特攻機として使われるようになりました。

 終戦直後はパイロットの命を軽視した欠陥機と酷く非難されましたが、時間が経つにつれ見直され現在では世界各地で日本の傑作機としてレストアが行われています。



性能諸元(零戦21型 A6M2)

 全長; 9.06m
 全幅;  12.20m
 全高; 3.509m
 正規全備重量; 2336kg
 エンジン; 中島「栄」12型 (公称出力 940HP)
 最大速度; 533km/h 
 航続距離; 3350km (関空を出発するとして無補給でベトナムまで飛べます)
 武装;  20o機銃×2 7.7mm機銃×2
      
      爆弾:30kg×2または60kg×2
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