グラマン TBF 「アベンジャー」
  
   
        グラマン TBF アベンジャー

 

 1935年、アメリカ海軍は艦上攻撃機(以下、艦攻)ダグラスTBD「デバステーター」(破壊者という意味)を機動部隊に配備しましたが、技術の進歩は目覚しく1941年の太平洋戦争が勃発した頃には完全な旧式機となっていました。旧式機とされた理由として、最高速度が当時の水準で見れば明らかに見劣りし、さらに空母で運用されるにはあまりに航続距離が短すぎたためでした。

 新時代の空母での運用には不向きなデバステーターに代わる新型艦攻を求め、アメリカ海軍は航空機メーカーに対し、公募を出しました。そのうちの1社、グラマン社は艦攻の設計経験は全くなかったのですが、「ワイルドキャット」の成功で自社技術に自信を持っていました。「ワイルドキャット」の設計経験を持ってすれば艦攻も作り上げられる、そう考えた設計チームの中心人物であったリロイ・グラマンは「ワイルドキャット」の発展・拡大設計として新型艦攻の開発に着手しました。



 最大速度の大幅なアップ、1トンある魚雷を装備しても1500km以上の航続距離を有すること、空母での運用のため、取り回しがし易いことも求められましたし、パイロットの命を守る防弾装置の必須など要求は難しいものばかりでした。数々の試行錯誤を乗り越え、1941年8月ついに新型艦攻TBFは初飛行を迎えました。同じ頃カーチス社で開発されていた新型急降下爆撃機SB2C「ヘルダイバー」は不具合が多く設計チームを大いに悩ませていましたが、TBFは無理のない模範的な設計もあったせいか初飛行からはトントン拍子で開発が進み1941年12月には制式採用され、生産が開始されました。
 1941年12月7日の午後、グラマン社は新しく完成した工場の式典でTBFのお披露目を行いました。皮肉にもその日は日本海軍がハワイを奇襲した日でもありました。「ハワイの敵は必ず取る」その意味を込めてTBFはその日から「アべンジャー」(復讐者という意味)と呼ばれるようになりました。


 工業大国アメリカといえど、生産経験のない飛行機をつくるのは並大抵のことではなく5ヶ月をかけてやっと100機ばかりの生産が終わったところで「アべンジャー」は初陣を迎えました。それは無敵と言われた日本機動部隊が壊滅したミッドウェー海戦でした。この戦いでは「アべンジャー」はたった6機しか陸上基地に配備されず、パイロットの不慣れもあり6機中5機が失われるという散々な結果に終わりました。しかし同じ艦攻のデバステーターは零戦と対空砲火によってさらに大きな損害を出しており、雷撃隊として空母を出発したパイロットの大多数が帰艦することはありませんでした。


 ミッドウェーの初陣を皮切りに大増産された「アべンジャー」は空母に次々と配備され、太平洋戦線では大和・武蔵といった日本の連合艦隊の主力艦艇を撃沈する原動力として、大西洋では主に軽空母に配備されUボート撃沈と大いに海上を暴れ回りました。大量生産が可能となったのは自動車メーカーの生産ライン流用でした。このため自動車メーカーで製造されたものは区別のため、機体名称にTBMが付けられました。


性能諸元     

 全長; 12.48m
 全幅;  16.51m
 全高;  4.70m
 正規全備重量; 7876kg
 エンジン; ライト R-2600-8「サイクロン」空冷星形複列14気筒 1,700馬力×1基
 最大速度; 436km/h 
  武装;  7.62mm機銃×2(機首固定、後方下部各1)、12.7mm機銃×3(主翼固定2、後方旋回1)
   
  爆装;  航空魚雷×1または227kg爆弾×4など、主翼下に落下燃料タンク装備可能(1C型以降)



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