海軍 十八試局地戦闘機 「震電」    

     海軍十八試局地戦闘機 「震電」


 

 第2次世界大戦中に日本が開発した航空機には実戦に間に合わなかったものも数多く存在します。この震電もそんな中の一機です。震電の最大の特徴はエンテ式(エンテとはドイツ語で「鴨」を意味する)と呼ばれる日本で開発された航空機の中では異色の機体構造でした。

 飛行機が空を飛ぶために必要な力の一つに「推進力」があります。推進力とは機体を前方に動かずための力で、これを生み出すエンジンの取り付け方は大きく二つに分かれます。

・一つはエンジンを機体の最前方に取り付けて、このエンジンの前に行こうとする力に機体を引っ張ってもらう「牽引式」。

・もう一つはエンジンを機体の後方に取り付けて、エンジンが前に行こうとする力で機体を押してもらう「推進式」があります。

 航空技術が劇的に進化した1930年代末期に入ると、各国の航空エンジニアたちはプロペラ機での速度の限界は700km/h辺りが限界であると考え、これまでに無いさまざまな機体構造を考えました。特に前述のエンジンの配置そのものを考えるエンジニアもおり、

       「エンジンが前方にある限り、それが速度向上を妨げる空気抵抗になる」

と考えました。逆のエンテ式は、エンジンが後方に配置されるため空気抵抗が大幅に減らせ、速度向上につながります。特に武装を前面に集中配置することが出来るので、戦闘機としては絶好の条件と考えられました。この理論をもとに、設計を行ったのが海軍航空技術廠(空技廠)の技術将校、鶴野正敬少佐です。
(震電のテストパイロットも努めた,)

 開発は昭和19年に九州飛行機で始まり、昭和20年8月の初飛行のテスト結果も良好でした。実戦には30ミリ機銃を4門搭載し、750km/hの高速を持って一撃離脱するという構想も練られていたのですが量産に移る前に終戦を迎えてしまい、幻の新鋭機となってしまったのです。

 アメリカの技術調査団にもエンテ式航空機「震電」開発成功の情報は遠く聞き及んでおり、日本に到達するや否や「十八試局戦はどこだ」と問われるほどの注目度の極めて高い新鋭機であったと伝えられています。欧米でもエンテ式航空機の開発は進められていたのですが、実のところ震電が最も完成度が高かったといわれています。戦後の航空機はMe262を始祖にしたジェット機が主となっていきますが、推進式であった震電の機体構造は後の航空機開発には何らかの参考にはなったことでしょう。


 今は下火となった、架空戦記でかつてこの震電もアイドル的扱いを受けました。B-29撃墜は当たり前、艦載機として空母に配備されたり、ジェット推進型になったりと当時の日本の国力では実現不可能な設定を描いた駄作が粗製乱造された時期がありました。読み物とはいえ、ここまでおかしな「歴史のもしも」は韓国の捏造された歴史教育を見せられているような気分がします。


 性能諸元  
 全長; 9.76m
 全幅; 11.11m
 全高; 3.92m
 正規全備重量; 4950kg
 エンジン;三菱 「ハ43」42型発動機 (公称出力 2030HP)
 最大速度; 750km/h (計算値)
 武装; 30o機銃×4
      爆弾30kgまたは60kg×2




                             TOPページへ戻る 

            
航空機講座過去ログ1  航空機講座過去ログ2  航空機講座過去ログ3  航空機講座過去ログ4