戦争を経験した世代がよく覚えている本土空襲にきたアメリカの軍用機は3種類と言われています。当時、「P公」と呼ばれたP-51「ムスタング」、ただ単に「グラマン」と呼ばれたF6F「ヘルキャット」、そして空爆の恐ろしさを日本人の心に植えつけたB-29の3機でした。
B-29は前機種であるB-17の延長線と考えられがちですが、開発コンセプトは全く異なっていました。B-17は中型爆撃機として、軍事施設や地上敵部隊に空爆を行う目的で開発されたのに対して、B-29は始めから長距離戦略爆撃機として開発がスタートしました。戦略爆撃とは戦場に展開している戦闘部隊ではなく、敵国本土の戦争継続を支える軍需工場や軍港、司令部設備、果てはインフラ設備を目標とした空爆でした。
アメリカ陸軍航空部門はこの計画を「プロジェクトA」と命名し、新ジャンルの超長距離爆撃機開発の公募を始めました。この公募に名乗りを挙げたのは「ボーイング」、「ロッキード」、「ダグラス」「コンベア」の4社でした。
この新型長距離爆撃機に求められた性能は以下の2点でした。
・航続距離は8500km以上を持つこと
・2万ポンド(約9トン)の搭載能力を持つこと
ボーイングの設計チームはこの厳しい条件を達成するため、まず陸軍からの要求条件に近い実現しやすい試作機を製作し、その試作機のデータからさらなる高性能機を開発するという手法をとりました。B-29の前段階機とも言える試作機XB-15の開発はB-17の初飛行から3年後の1938年に無事成功し、次世代機開発のための大きなステップとなりました。この試作機は速度に難があり、直接軍用機としての制式採用はされなかったものの、改修して輸送機になったり、改設計の末、旅客飛行艇に生まれ変わり、現在のブリティッシュ・エアウェイズや旧パン・アメリカン航空(通称パンナム)に就航したりと無駄にはならない末路を辿りました。
このXB-15の開発成功で8000kmを連続飛行できることを確信したボーイングの設計チームは先に開発されたB-17とXB-15の技術を組み込んださらなる高性能機の開発に乗り出しました。
同じ頃競作していたライバルメーカー達も、自社の最先端技術を惜しみなく投入した結果、甲乙つけがたい設計となり、結局は全てが採用となる異例の結果となりました。
この中でも、ボーイング社の設計案であったXB-29は軍用機としての出来に申し分なかったため、本命とされ、初飛行に先駆けて1941年6月に制式採用が決定しました。(初飛行は1942年9月)一方、ロッキード社が手がけたXB-30はXB-29の生産に遅延や重大な問題が起きたときの保険として、量産がスタートしました。
B-17とB-29の技術を比較すると、こうなります。
B-17 | B-29 | |
排気タービン | あり | あり |
与圧室と空調 | 空調未装備 | どちらも標準装備 |
防御火器の遠隔操作 | 不能 | 可能(ジェット戦闘機も撃墜できるくらい高性能化) |
オートパイロット | なし | あり |
防氷装置(アンチアイスロックシステム) | なし | あり |
補助動力システム | なし | あり |
初飛行 | 1935年7月 | 1942年9月 |
この比較表を見ての通り、たった7年でこれだけの技術革新がなされたB-29は当時の水準から考えると半分未来の兵器とも思える性能でした。1944年4月頃から、ヨーロッパ→インドを経由して中国内陸部の成都基地に集結したB-29は1944年6月から北九州への日本本土爆撃を開始しました。
しかし、開始早々に燃料と弾薬の調達に成都基地は不適であると判断され、アメリカは日本本土から3000kmの距離にあるマリアナ諸島に目をつけました。1944年6月、マリアナ沖海戦に勝利したアメリカはグアム、サイパンの両島にB-29基地を建設し1944年11月からここを拠点に日本本土爆撃を再開しました。
爆撃開始当初は高高度から軍事施設や工場を精密爆撃する方針でしたが、効果が薄いことや日本の戦争継続能力を失わせる心理戦に結びつかないことが判明し、アメリカ陸軍は低高度からの焼夷弾によるじゅうたん爆撃に切り替えました。東京大空襲、大阪大空襲、原爆投下などは全てB-29の性能があってこそ実現できたミッションでした。
配備が始まった頃は防御火器を標準装備したタイプのみが使われていましたが、運用データを考慮した後に改修したエンジンに換装したA型、軽量化を図って尾部銃座以外を全て撤去したB型、大型カメラと長距離用燃料タンクを増設した戦略偵察機となったF-13A型と各型を合計してなんと4000機近くが生産される主力爆撃機となりました。
このように見れば、B-29は日本の迎撃を受けず悠々と引き揚げてこれたイメージがありますが、B-29の搭乗員にとって初期の日本本土爆撃は「死出の旅」と言っても過言ではないほど危険なミッションでした。その大きな理由に搭載エンジンの信頼性が低いことにありました。
採用されたエンジンはF6Fヘルキャットのものよりもさらに強力な2200馬力の最新型のエンジンでした。しかし、軽量化のためにエンジン本体にマグネシウム合金を多用したことや空気抵抗を軽減するために機体のカウリング(エンジン覆い)を細く絞りすぎた機構上、冷却が追いつかないことから、エンジン火災が頻繁に起きました。さらには硫黄島陥落までは護衛機が追随することが出来ず日本本土防空隊の迎撃機から手痛い反撃で損耗する機体もありました。
P-51やF6Fの直衛もあって次第に損耗率は減りましたが、やはりエンジンだけは地上整備員泣かせの複雑な機体であったと伝えられています。
対日戦終了後は朝鮮戦争に投入されました。ジェット主流の時代ではかつての名機も絶好のカモとされ、強力な防御砲火を以ってしても北朝鮮軍のMIG-15の強力な37mm砲で次々と撃墜され、1951年にはその損害の大きさから昼間の爆撃任務から外されました。
性能諸元
全長; 30.2m
全幅; 43.1m
全高; 8.5m
正規全備重量; 61200kg
エンジン; ライト R-3350-57 エンジン 2,200馬力 ×4
最大速度; 574km/h
武装; 12.7mm機銃×10 20mm機銃×1
爆弾搭載量:最大9000kgまで