世界は、その一瞬で鮮やかになった。 幼い頃から、欲しい物ならなんでも手に入った。 両親からもそれぞれなりの愛情を受けて育ったと思っているし、生意気だが可愛い弟もいて何不自由のない生活。 だが恵まれ不満がないことと、満ち足りた生活というものは、まったく違うものなのだとブルーが知ったのは、十二歳になってすぐのことだった。 「ブルー、シロエ。いらっしゃい」 隣国の実家へ出かけていた母は、その傍らに小さな少年を伴って帰って来た。 「この子はお母様の恩人のご子息なの。つい先日、ご両親が亡くなってしまわれて、お母様がお預かりすることになったのよ」 母がその背中に手を添えて紹介した子供は、金の髪と翡翠色の瞳を持っていた。 俯きがちのその横顔は、遠慮していると言うよりは、どこか空虚な鈍い色。 両親を亡くしたばかりと言う話なので、きっとそのショックのせいだろうと幼いながらも推測する。 シロエと同じ歳くらいだろうかと見ていると、母の続けた言葉がそれを肯定した。 「シロエよりひとつお兄さんなのよ。ブルーもシロエも仲良くしてね」 シロエはまだ幼いせいもあってか、母に付添われた少年にいい顔をしなかったが、ブルーは母の期待に添う優しい笑顔で手を差し出す。 「こんにちは。僕はブルー。弟はシロエという。君の名前は?」 母が少年のことを色々と話しながら、その名前を教えなかったのはきっと子供たち同士で自己紹介させたかったのだろうと僅かに見上げれば、母はにこりと微笑む。 やはり間違っていなかったのかと、母の期待に添えたようで嬉しくなったブルーに、少年は小さな声で答えた。 「……ジョミー」 「そう、ジョミーか。今日から僕らと仲良くしてくれると嬉しいな」 笑顔を見せて手を差し出すと、ジョミーはしばらくその手をじっと見て、それからゆっくりと手を上げて緩慢な握手を交わした。 握った手をそのまま引いて、ブルーは部屋の外を指差した。 「ジョミー、邸の中を案内するよ。着いてきて」 誘いかけると、ジョミーは素直に頷いて手を引かれるままに歩き出す。シロエも連れて三人で広間を出ると、まずは三階から回ろうと階段を登った。 「うちは少し郊外にあるけれど、その分景色は悪くない。南側には湖とその向こうに山が見える。天気の良い日は雪に覆われた山頂付近が白く映えて綺麗だし、霧のある日でも靄が薄ければ、逆にぼやけた様子が浮かびがる幻のようで面白いんだよ」 説明しながら振り返っても、手を引かれたジョミーは説明を聞いているのかいないのか、よく分からない様子で階段を登るだけだ。 その後ろについてきているシロエは更に機嫌を損ねた顔で唇を尖らせている。兄が自分ではなく、来たばかりの少年の手を引いていることが面白くないのだろう。甘やかされて育った独占欲に仕様のない子だと苦笑する。 「ほら、ここからなら遠くの山まで見渡せるんだ」 邸の中でも景観の良い場所から外を見渡せば気が晴れるのではないかと、着いた部屋から窓の外を示したが、ジョミーはただ淡々と頷いて窓に手をかけぼんやりと眺めるだけだった。 「ちょっと!せっかく兄さんが案内してくれているのに、ちゃんと聞いてるのか!?」 とうとう我慢ができなくなったのか、シロエが眉を吊り上げてジョミーを睨み付ける。 ジョミーは激しくぶつけられた怒りに困ったように首を傾げる。どうしたらいいのか分からないらしい。 「よさないかシロエ。来たばかりの場所でジョミーが戸惑うのは当然だろう」 たしなめると更に不満そうな顔をした弟は放っておいて、申し訳なさそうなジョミーに微笑みかけた。 「シロエの言うことは気にしなくていいよ。今まで散々甘やかしてしまったせいで、少し我侭な子になってしまってね」 「兄さん!」 その評価は納得できないと足を踏み鳴らしたシロエにジョミーは緩く首を振る。 「シロエくんは悪くない……ぼくが、ぼんやりしてるから……」 「そうだよ」 「シロエ!ジョミー、君がそんなことを気にする必要はない。ゆっくりと慣れていってくれればいいんだよ」 「……うん……ありがとう……」 こくりと首を倒すように頷いたジョミーの様子はとても素直だ。両親を失った痛手に落ち込んでいることを差し引いても、生来に気が弱いのかもしれない。この調子ではシロエにどれほど押し切られることになるか分かったものではない。 ブルーが労わるような気持ちで微笑みかけると、ジョミーは少しだけ目を開いて、寂しそうに目を伏せた。 ブルーがジョミーにばかり構い、おまけに怒られるし、すっかり臍を曲げたシロエはふいと踵を返して出て行ってしまい、ジョミーは申し訳なさそうに眉を下げる。 「気にしなくていいよ。少ししたらすぐにまた来るから」 喧嘩をすると部屋を飛び出すのに、しばらくすると戻ってきて無言でブルーの服の端を掴んでただ俯く。 謝るのは嫌だけど、ひとりでいるのも嫌なのか、それとも兄を怒らせたままだということが嫌なのか、いつもそんな感じだとブルーが笑うと、ジョミーは少しだけ表情を綻ばせた。 「いいな……弟って可愛いんだ……」 「そう?生意気なだけだよ」 そう言いつつも、むっつりと口を引き結びながら服の端を握って後ろをちょこちょことついて歩くシロエを見ると、ついその頭を撫でてしまうのだから弟に甘いという自覚はある。 苦笑しながらブルーは握ったままのジョミーの手を引いて次へ案内しようと部屋を出た。 「この三階の西側は父の書斎があるから、そこを通るときは静かにね」 特に金儲けの算段をしているときは敏感だから。そう続けそうになって口を閉ざした。余計なことまでは言わなくていい。 父のことは嫌いではないが、母に対するように素直に敬愛することはなかった。家族を大事にしていて、母のことも愛している人だけど、損得勘定に対する執着には閉口してしまうからだ。 だが一方では、父がそうであるから没落貴族が増える昨今でも、この家が爵位に相応しい生活を営めるのだということも分かっている。 この辺りでは静かにというつもりで連れてきた父の書斎の前を指差して、そのまま通り過ぎようとしたとき、僅かに開いていた隙間から母の声が聞えた。 「ジョミーは私がお預かりした大切な子です。あなたがどうお考えでも、教師もつけて、きちんとした教育を受けさせるつもりです」 「何もそこまで興奮することはあるまい。私も無闇に追い出せと言っているわけではないだろう。ただお前の生国はこの間変事があったばかりだ。貴族であるお前の恩人だというのにその素性を明かせない者の子供というのは、一体どういう立場かと聞いてるだけではないか」 「明かせないわけではありません。けれどあなたは、少し身分に対して偏見がおありでしょう」 「つまり、卑しいだけで、厄介な身の上ではない……ということか」 「卑しいなどと!人の貴賎は身分に由来しません!」 漏れ聞えた話に聞き入っていたブルーは、繋いでいた手がするりと抜けて、今更ながらジョミーが一緒にいたことを思い出して、慌てて振り返る。 ジョミーはすでに走り出していた。 先ほどまでのおっとりとした様子から一変した素早さに呆気に取られたのは一瞬で、すぐその背中を追いかけてブルーも床を蹴った。毛足の長い絨毯が音を吸収したから、幸いにも両親はここにブルーとジョミーがいたことには気づいていないはずだ。 追いかけながら、ブルーは近付かない背中に舌を巻く。 ただ頷いて、手を引かれるままに歩いて、ぼんやりとした子だと思っていた。 それなのに、どうだろう、この逃げ足の速さ。 階段を駆け下りるジョミーは、後ろからついてくるブルーを振り切りたかったのか、途中で手すりに手をかけた。 あっと思う間もなく、絨毯を蹴った身は軽やかに手すりを越えて一気にその姿を消し去る。 慌ててブルーも手すりに手を掛け、身を乗り出して下を覗くと、踊り場に見事に着地をしたジョミーは残る階段を駆け下りてすぐに姿が見えなくなった。 あまりの行儀の悪さに呆気に取られたブルーは、風になびくように揺れた金髪が見えなくなって、慌てて再び階段を駆け下りる。 ブルーが一階に辿り着くと、既に正面玄関の扉は開け放たれていた。 「ブルー様」 扉の傍で戸惑っている家人に、ブルーは拳を握り締めて頷いた。弾丸のように飛び出した主人の連れてきた子供に、どう対処したらよいのかわからず、出て行くに任せてしまったのだろう。 「僕が行く」 母に、仲良くしてとお願いされたのだ。このまま出て行かせるわけにはいかない。 ジョミーが飛び出したことを両親にはまだ報せないように言いつけると、ブルーは正面玄関からは出て行かずに踵を返して裏手へと回った。 裏手から邸を出て厩舎に飛び込んだブルーは、幸いな偶然に馬を牽いて使いに出てようとしている家人と出くわした。 「ブルー様!厩舎に飛び込んでは危ないですよ!馬が興奮して……」 「すまない、その子を貸してくれ!」 「え、あ、ブルー様!?」 「急いでいるんだ!君は別の馬で行ってくれ!」 気心の知れた愛馬以外に騎乗することは初めてだ。だが贅沢は言っていられない。鞍をつける時間が惜しいのだ。 手綱を奪い取りその場で騎乗すると、厩舎を飛び出した。 ジョミーがどこへ行ったかなんて分かりもしないが、それはジョミーも同じことだろう。 咄嗟に飛び出していっただけのことで、どこに宛てがあるわけでもないだろうし、あったとしても初めて訪れた場所からどうやって行けばいいかなんて分かるはずもない。 それにあの勢いならきっとまっすぐに走っているに違いないと、正面玄関から続く正面の道を選んだブルーの判断が正しかったことは、すぐに証明された。 蹄の音に気づいて肩越しに振り返ったジョミーは、馬で追いかけるブルーに目を見開くと、道を外れて草原の方へと走る。その向こうに広がる林を目指しているのだろう。馬の足を鈍らせるつもりに違いない。 そのまま追いかけてもジョミーが木立に紛れる前に回り込める自信はあったが、ブルーは敢えて馬から飛び降りて自分の足でジョミーを追いかけた。 「待つんだジョミー!」 「来るなっ」 激しい拒絶に、ブルーはまた驚かされた。 ただぼんやりしているだけの子ではないことは、その足の速さと活発な行動で見せ付けられたけれど、この拒絶には強い意志が込められていた。 気が弱いだなんて、どうして思ったりしたんだ。 拳を握り締めて、更に強く地面を蹴る。 少しずつ近くなる背中に手を伸ばし、触れた手首を一瞬で掴み取ると強く後ろに引いた。 「あっ……!」 急に引っ張られたジョミーがバランスを崩して倒れてきて、それを抱き留めながらブルーも転倒を余儀なくされる。 草の上とはいえ強かにぶつけた尻と腰に痛みと衝撃が走り、力の緩んだブルーの手から逃げ出そうとジョミーはすぐに身体を起こす。 だがブルーはそれを後ろから抱き込む形で阻んで腕の中に少年を閉じ込めた。 「やっと捕まえた」 「離せっ」 ブルーも息を切らせているが、邸からここまで自分の足だけで走ったジョミーの疲労はそれを上回るはずだというのに、まだ元気に暴れる様子に閉口しながら、振り回される両手に肘を入れられては堪らないとその手首を掴んで無理やり下へと降ろさせる。 「そう、心配しなくても……父は母に甘い……途中で追い出したり、いじめたりなんて、しない、から……っ」 逃げようとするジョミーと、動きを封じようとするブルーで力比べをしながら、邸に戻るように説得するブルーに、ジョミーは激しく首を振った。 「ぼくのせいで君の親が喧嘩するのはいやだ!」 「……え?」 ジョミーの叫びに拘束するブルーの力が緩んだ。その隙に、ジョミーは再び駆け出そうとする。 だがブルーはその手をすぐに捕まえて、強く後ろに引いた。 腰を浮かしかけていただけだったジョミーはその勢いで反転するように座り込み、ようやく正面からジョミーと相対することができた。 その瞳は、もはや力ないものではない。 新緑のような、翡翠のような、美しい翠の瞳は、滲ませた雫に淡い光を反射する。 「ぼくがいなくなれば、君の両親が喧嘩をする理由がなくなる。ぼくがいなくなればいい!」 それは子供の短絡的な考えで、恩人の子供だとジョミーを大切にしようとしている母は父を振り切ってでもいなくなった子供を捜すだろう。 だが今のブルーはそんな両親の対立など頭の片隅にもなかった。 ジョミーはきっと自らの境遇を思って飛び出したのだろうと思っていた。 けれど彼は、ブルーの家族のことを思って自分が消えようとしていたのか。 胸を突くように込み上げたものが何かも分からない。 ただこの美しい瞳に浮かぶ透明な雫をどうにかしたくて、その華奢な身体を強く引き寄せ掻き抱く。 「だめだよ、ジョミー」 ただ逃がさないようにとする拘束とは違うそれに、抱き締めた小さな身体が怯えたように硬直した。 それでも背中に回した手に力を入れて、更に強くジョミーを抱き締める。 「行ってはだめだ。僕から離れてはいけない」 「どう………して……」 「どうしても」 理由を尋ねられても、明確な答えはブルーにも出せない。ただこの綺麗な子が、どこかへ行ってしまうことに耐えられそうになかった。 「ぼくがいたら」 「喧嘩なんて、いつでもやるものさ。僕とシロエもよく喧嘩する」 「そんな喧嘩とは違うだろう!?」 「弟がいるのは、いいなって言ってたじゃないか」 強く抱き締めて、目の前で揺れる金の髪に目を細める。 「シロエと接して、本当は弟なんて生意気だって実感したらいい。父は少し距離を置こうとするかもしれないけど、それだって時が経てばどうなるか分からない。母は君を大切にするだろうし、さっきの話からするときっと息子のように接すると思うな。それから僕は……」 君の兄になれたらと思う。 そう言うはずだった言葉が、急に喉が詰ったように出なくなった。 強烈な違和感が、兄という立場を否定している。 家族に、そのような存在になれたらと話していて、母は母として、シロエは弟にと、そう言うならブルーは兄になるはずだ。どこに違和感があるのか、分からない。 腕の中でジョミーが苦しそうに身じろぎをして、ブルーは慌てて込めすぎていた力を緩めた。 ようやく楽なった様子でほっと息を吐いたジョミーが伏せていたゆっくりと瞳を上げると、その瞳はまだ涙に濡れていた。あるいは、ブルーが強く抱き締め過ぎたせいか。 目尻から零れ落ちた真珠の粒ような雫に、自然と出た指先がそっと頬を掠める。 「それから僕は…………君の近くに在りたい」 滑り出た言葉は、意識しなかったものだというのにストンとブルーの中に落ち着いた。 ジョミーに傍にいて欲しい。ジョミーの近くに在りたい。 ぱちぱちと瞬きをする大きな瞳に魅入られたまま、ブルーは両手でその頬を覆った。 「君の一番近くに在りたい。君のその瞳に映りたい。君が涙を流すなら、この手で拭いたい。ジョミー………僕は君の笑顔が見たい」 瞬きを繰り返していたジョミーは、ブルーの両手に覆われた頬を赤く染め、目を逸らすように瞳を伏せた。 「………なにか……ちょっと、大袈裟」 「そんなことはない。まだ言い足りない」 「まだあるの!?」 これ以上あるのかと呆気に取られたジョミーは、視線を戻したことを後悔したようにぎゅっと唇を噛み締める。 照れた様子が可愛らしくて、我知らず頬が緩んだ。 「君が僕と同じように、僕と一緒にいたいと思うようになって欲しいと願っている。だからジョミー、僕に時間をくれないか」 「同じ、ようにって………」 口にしなくても瞳が無理だと零すジョミーに、ブルーも苦笑を漏らした。 「僕と共に時を過ごして、僕に触れてみてくれないか。僕が君の傍にいることに値する者かどうか、その目で確かめて」 「値するかだなんて!ぼくのほうこそ……っ」 「僕がそうありたいと願っている。だからあとは君が測ってくれたらいい」 「そんなの」 「どちらにしろ、僕に触れずに判断されることは我慢ならないから、連れて帰るよ」 きっぱりと言い切ったブルーに、ジョミーは呆気に取られたように目を丸めた。 「強引だ」 「甘やかされて育ったからね。シロエほどではないけれど、僕も大概我侭だ」 「でもぼくがいると………」 「君が出て行くなら、僕も着いて行く」 「なんでそんな結論になるの!?」 ありえない話を聞いたと言わんばかりに声を裏返したジョミーに、ブルーはまるで邪気のないような笑顔を見せる。 「君には悪いけれど、今は両親のことより僕は自分のことしか考えられない。君がいなくなることは、僕の心の一部をもぎ取られるようなものだ」 「呆れた……」 とうとうはっきりと口にしたジョミーは、むっと眉を寄せて下からブルーを睨め上げる。 「なんで……そこまで……今日会ったばかりなのに……」 もっともなジョミーの疑問に答えられたら、ジョミーの中でブルーの評価は上がっただろうか。 だが残念ながらブルーも首を傾げるしかない。 「さあ?」 「さあって!」 「僕にも分からない。だけど込み上げるこの願いは確かだ。今はそれしか言えない」 今度こそ言葉を失ったジョミーに、ブルーは頬を包んでいた手を離して、少し汗ばんだ額に掛かっていた金の髪をそっと上げる。 「君が僕をいらないと、そう結論が出たら、それには従う。だから結論を測るために、今は僕の傍にいてくれ」 逃がしはしないけれど。 心の中でそう呟いて、顕わにした額に口付けを落とした。 |
貴族の子息のブルーと、貰われてきたジョミーの話。 これでもブルーはまだ十二歳です(笑) あさひさま、95000ヒットのリクエストありがとうございます! できるだけ多くの要素を盛り込めるように頑張ります〜! |