ブルーがジョミーを説得しようとした言葉は、嘘にはならなかった。 素知らぬ振りでジョミーを邸へ連れて戻ると、話し合いは終わっていたのか父は素っ気なく、だが確かにジョミーを歓迎するとだけ告げて後は一切関わらなかった。 そして母は、微笑みを浮かべてジョミーに自分の家だと思って寛いでねと優しく語りかけた。 でも、と口ごもるジョミーに、母は有無を言わせぬ笑顔で念を押す。 「あなたには、あなたを幸せにする義務があります。望まぬ者に訪れるものは何もありません」 にっこりと、笑顔なのに反論を許さない雰囲気の力強い言葉。ジョミーは小さく、はいと返答した。それ以外の言葉など出しようがないほどだったのだから、ブルーは母の言葉に内心で喜びながらほんの少しジョミーに同情を抱かずにはいられなかった。 母の血を受け継いでいることを実感しながら、まだまだ修行が足りないと思い知らされた瞬間でもある。 「望みを持つことは、決して浅ましいことではありません。幸せであろうとすることは努力であって、諦めてしまうことは努力を放棄することです。あなたはそれを惜しまない子であると、私は信じています」 神妙に母の言葉を聞くジョミーの横顔は、シロエとひとつしか歳が変わらないのだとは思えないほどに、酷く静かで、そして眩しかった。 「今日はここまでにいたしましょう」 家庭教師がそう言うと、並んで座っていたブルーとジョミーは教本を閉じて揃って一礼をする。 「ありがとうございました」 家庭教師はひとつ頷いて、指先で眼鏡を直して部屋を後にした。扉が閉まると同時に、ジョミーはほっと息をつく。 「ジョミーは勉強があまり好きじゃないみたいだね」 あまりにも深い安堵の息に、ブルーがくすくすと笑いながらそう言うと、ジョミーは顔を赤く染めてぐっと小さく唸る。 「教育を受けさせてもらっていて、そんなこと言わないよ。本当に感謝しているんだ」 「悪いとは言ってない。僕も本を読むだけの授業はあまり好きじゃない。まったくためにならないとは思わないけれど」 そう微笑みかけると、ジョミーはすいと目を逸らす。 「ジョ……」 俯いた頬に触れようとしたとき、ノックもなしに扉が開いた。 「お勉強、終わった?」 絶妙のタイミングで邪魔をしてくれた弟に、ブルーが思わず溜息を漏らす横で、ジョミーはすぐさま席を立つ。 「シロエ」 その親しげな響きは、ブルーの名を呼ぶときの比ではない。 「大丈夫、終わったよ。次の授業までは時間もある」 ノブを握ったまま、部屋を覗き込んでいたシロエの表情がぱっと明るく輝いた。 「じゃあお庭に行こう!ジョミーに見せてあげたいものがあるんだ!」 「なんだろう?そう言われるとちょっと楽しみだな」 最初は母や兄の関心を集めるジョミーに敵愾心を燃やしていたシロエだが、ものの三日もしないうちに、家の誰よりもジョミーと親しくなってしまった。 歳が近いせいというよりも、きっと本当は初めから馬が合っていたのだろう。 ブルーはどちらかといえば静かに過ごすことを好み、シロエと遊ぶにしても本を読んで聞かせたり、駆け回るシロエを微笑ましく見守ることが大半だったことに対して、ジョミーは自身が活動的だった。 庭で追いかけっこをしたり、広い邸の中でかくれんぼをしたり、暴れたい盛りのシロエにとっては、格好の遊び相手になってくれたのだから、シロエが懐くのも当然だろう。 部屋に取り残されたブルーは、溜息をついて教本を手に立ち上がる。 ジョミーは母に対しては、遠慮が消えないもののそれでも気を許した様子を見せる。シロエとは特に仲良くなっていて、他の家の者たちとも笑顔で会話を交わしている。 ジョミーは客人のように、あるいはまるで養子にしたかのようにブルーと同じ待遇をされているのに、それを笠に着ることもなく家人にも分け隔てなく丁寧に接する。彼らは一様にジョミーに好意的だった。 父は元からジョミーと接触しようとしないので、比較対象にはしない。 そうして見ると、気が付けばブルーが一番ジョミーと距離を空けられているように思えてならない。 最初に、まだジョミーの心が固く閉ざされていたときに、きっと踏み込みすぎたのだ。一度構えてしまったせいで、ブルーに対してはまだ一歩距離を空ける。 失敗したと思わなくもないけれど、まずはジョミーに邸に留まってもらわなくてはいけなかったのだから仕方がない 一番近くに在って、もっともその笑顔を向けられる者になりたいと思ったのに、現状はまったく正反対だ。溜息をつきたくもなる。 馬で外を走って気晴らしでもしようと教本を部屋に置きに戻ると、開けた窓から庭で笑い合うジョミーとシロエの声が聞こえた。 弟に嫉妬だなんてみっともない。眉間に寄せた皺に気づいたブルーはそれを指で広げて、鏡を覗いて平静な表情に戻っていることを確認してから部屋を出て階下に降りた。 「ブルー」 その玄関で出かける支度を整えた母と一緒になった。扉を開けると既に馬車が用意されている。 すぐに馬車に乗り込むためか手にしたパラソルを折り畳んだまま、母や明るい陽光に手を翳した。 外に出ると中庭の楽しそうな声が良く聞える。 頭上から聞えた小さな笑い声に、再び憮然としてしまったことに気づいたブルーが表情を取り繕うに前に、母は嬉しそうに頬に手を添えて微笑んだ。 「ジョミーが来てくれて、本当によかった。シロエはあんなにはしゃいで、あなたも歳相応の顔を見せてくれて」 我が子ながら優等生過ぎて心配だったのよと零されて、馬車までの短い距離を、母の手を取ってエスコートしながら、ブルーは僅かに頬を染めた。弟に嫉妬だなんてみっともないと思っていたのに、母にはすっかり見抜かれている。 扉を開けて待っていた馬車に着くと、母はブルーの手を離して乗り込み、でもねと言葉を続ける。 「ジョミーと仲良くすることは良いけれど、あの子がいずれこの家から出て、自分の道を歩むことを忘れてはだめよ。共に過ごすのはあの子が成人して自らの歩みべき道を定める、それまでのほんの少しの間しかないということを覚えていなさい」 「ほんの少しとは限りません。ジョミーは僕の傍に留まる選択をしてくれるかもしれない。父上の後を継ぐ僕の傍に居て、手助けをしてくれるかもしれない」 珍しく正面から反発した息子に目を丸めた母は、それから少し寂しそうに微笑んだ。 「ええ……そうね。道を決めるのはジョミー自身ですものね」 まるでブルーの言葉は叶わないと言いたそうな微笑みを残して、母は馬車を出発させた。 釈然としないものが残ったせいで、馬を走らせてもあまりスッキリとすることができなかった。 次の授業までに着替えておかなくてはとタオルで汗を拭いながら邸に入ると、正面玄関の前の階段に膝を揃えて座っていたジョミーが待っていたかのように立ち上がる。 「ブルー」 何かを抱えているのか、軽く握った両手を胸に珍しくジョミーの方から駆け寄ってきた。 珍しいことに嬉しくなって、その肩に手を伸ばそうとしたのだが、寸前で思い止まる。 乗馬で汗をかいたし、まだ手も洗っていない。ジョミーに触れて抱き寄せるわけにもいかない。 気晴らしなら別の方法を選べばよかったなんて、ブルーが後悔していることに気づいた様子もなく、ブルーのすぐ前まで駆け寄ったジョミーは薔薇色の頬で微笑んだ。 「ねえ、あなたは知ってた?庭の西側の木の上に、鳥の巣があるんだよ。今日シロエが教えてくれたんだ」 「そうなのかい?知らなかったな」 「やっぱり!きっとあなたは知らないだろうって、シロエが言った通りだ」 シロエと遊んでばかりいることを強調されているような話題は少しつまらなかったけれど、それを帳消しにして、なお余りあるほどジョミーの微笑みは可愛らしい。 ジョミーにつられるようにして笑顔になるブルーに、大切にしているものを特別にといった様子で、ジョミーは胸に引き寄せていた両手を差し出して、緩く握っていた拳を開いた。 「巣のすぐ傍に落ちていた羽だよ。もうすぐ巣立ちが近いんだと思う。親鳥の羽にしてはまだ小さいもの」 ジョミーの両手に乗っていた小さな二枚の羽根は、淡い青い色をしている。この地方には珍しくない鳥だとその羽根で種類が分かったけれど、そんな無粋なことを言う必要はない。 大切なのは、庭に鳥の巣があって、それをジョミーが喜んでいること。そしてそれをブルーに教えてあげようとしている、そのふたつだ。 「小鳥は見えたかい?」 「うん。顔を出しているだけで、ぼくとシロエがいる間に飛ぶ練習はしてくれなかったけれど、とっても可愛かった」 君のほうがずっと可愛い。 太陽のような眩しい、けれど見る者の目を射ることのない暖かい微笑みに、心の中だけで呟く。 だがジョミーはじわじわと頬を染めると、何かを言い淀むように俯いた。 せっかく輝くような笑顔を見せてくれたのに、何か気に触ることをしてしまっただろうかとブルーは焦って首を傾げる。 「ジョミー?」 腰を屈めて、下から覗き込むその前に、ジョミーは小さく口の中で何かを呟く。 「あの………ね」 「うん?」 焦らせないように、無理に言わせるような口調にならないように注意をしながら、ブルーは焦れる心を押さえて優しく続きを促した。 ジョミーはそれでも少し迷うように、俯き加減の視線を彷徨わせて、やがて下からちらりと覗くようにブルーを目だけで見上げる。 迷うようなその仕草はまるで恥らっているかのようで、ブルーはくらりと眩暈を覚えた。 なんてことをするのだろう、この子は。 「あの、あなたは綺麗なものとか、素晴らしいものとか、たくさん持ってるって分かってるけど、でも、あの……」 そんなブルーの動揺など気づいた様子もなく、ジョミーは色々と言葉を捏ね回す。何が言いたいのか分からないけれど、そんな困った様子も可愛いだなんて、うっとりと眺めるブルーに、羽根を一枚乗せた右手が差し出された。 「ひとつあげる」 「え………?」 目を瞬いたブルーに、ジョミーは顔を真っ赤に染めて今にも泣き出しそうな顔を見せる。 「ジョミー!?」 「あ、あなたにはつまらないものだって、分かってる。でも、この羽根を見ていたら、あなたのことばかり考えてた。あなたの名前と同じ色で、とても綺麗で、だから」 慌ててジョミーを覗き込もうとしたブルーは、それが泣くことを堪えているのではなくて、羞恥を押さえ込んでいるのだとようやく気づいた。 ジョミーが恥かしいのは、一体どうして、何に対してなのか。 ブルーは緩む頬を動く任せてゆっくりと笑みを深くして、ジョミーの右手の上に手を重ねる。 「だから?」 これ以上はないくらいに耳まで赤く染めたジョミーは、やっぱり羞恥に泣き出しそうな顔をしたままで、聞き逃してしまいそうな小さな声で呟いた。 「……ぼくの、宝物……」 ブルーは重ねた手を軽く握り、ジョミーから羽根を受け取りながら、その手を引き寄せる。 ジョミーの掌には、羽根を受け取り軽く握った甲を、ジョミーの手の甲には、そっと添えた右手の掌を。 両手で優しく包むように挟んだジョミーの右手の指先に、優しく口付けを贈った。 「ブ、ブルー!?」 「ありがとう、ジョミー。君の宝物を僕に分けてくれるんだね?嬉しいよ」 「ひ、拾った羽根だよ」 ジョミーにとって価値があっても、ブルーにとってはつまらないものだろうと。 だがその呟きは、ブルーにはますます甘い囁きにしか聞えない。 ブルーにはきっと価値がないだろうと思っても、渡したくなるほどにブルーのことを想っていると、そう証明しているようにしか、聞えない。 「ただの羽根ではないよ」 そっとジョミーの手を離し、緩く握っていた手を開く。ジョミーの手から、ブルーの手へ移った青い羽根が、その細かな羽毛を振るわせた。 「君の心が詰っている。それが僕には何よりも嬉しい。僕の宝物だ」 きっとジョミーには距離を空けられているのだと考えていた。警戒とまではいかなくとも、どうしたらいいのか分からない相手だと思われているのだと。 けれどそうではなくて、あまりにブルーが傍に近付こうとし過ぎて、それにどう応えたらいいのか分からずに照れていただけなのだと、この羽根は教えてくれた。 嬉しくて頬を緩ませるブルーに、それが嘘でもお世辞でもないと理解したジョミーも、嬉しそうに微笑む。 ジョミーから貰ったジョミーとブルーの宝物。片方はジョミーが、片方はブルーが、分け合って持っているということも、また嬉しくて仕方がない。 二人だけのものだと内心で浮かれそうになっていたブルーは、はたと気づいてジョミーの肩を掴む。 「ひょっとして、シロエも羽根を拾ったかい?」 ジョミーが拾ってジョミーの心を込めた羽根はこれだとしても、同じ物をシロエが持っているとなると、弟には申し訳ないが少しつまらない。それどころか、シロエにもジョミーから手渡していたらと思うと聞かずにはおれなかった。 ジョミーはきょとんと目を瞬いて首を振る。 「ううん。シロエは小鳥を見たかっただけみたい」 ああよかった。 大人気ないと言われようと、自分はまだ子供だとブルーは素直に心の底から幸せに浸った。 馬車の中で、頬杖をついて窓の外を眺めていたブルーは、目を閉じて同時に思い出に蓋をした。 思い返せば、この日々こそが、もっとも幸せな時だったのかもしれない。 |