楽しいことだけの人生などありはしない。
そんなことは子供でも知っている。
けれど苦しいことや、悲しいことがあったとしても、世界の本質は色鮮やかに素晴らしいもので出来ていると、その頃の自分はまだ信じていたらしい。



空席の左側を見る気になれなくて、ブルーは頬杖をついて冬の寂しい景色の窓の外を眺める。
今まではジョミーが隣にいた。
今は一人きりで受ける授業。シロエはまだ幼いから、別の家庭教師がついているし、ジョミーが来る以前の元の生活に戻っただけだ。
疑問が胸を渦巻く。
どうしてジョミーがいるのに、ジョミーがいなかった頃の生活を送らなければならないのか。
ジョミーは邸の中にいる。けれど以前のように共に過ごすことは許されない。
ジョミーから、他愛もないことで呼び止められることもなくなった。ジョミーがブルーを呼ぶときは、いつも誰かから言いつけられた用事があるときだけで、それも伝え終えるとすぐに下がってしまう。
こんなに近くにいるのに、ジョミーが遠い。
何の解決策も見出せないまま、無駄に半年が流れてしまった。
窓の外を眺めるブルーの耳に流れ込んでいた、教本を朗読する声が止まる。
「ブルー様」
パシンと鋭く分厚い本を閉じる音が響いて、ブルーは頬杖をついたまま、億劫そうな視線を前へ向ける。
家庭教師は口元を歪ませて、強く本を握り締めていた。
「注意が散漫になっておられるようですが」
「ああ、そうかもしれませんね」
悪びれもしない気のない返事に、家庭教師のこめかみがぴくりと震えた。
「そのようなことで、この家を立派に継げるとお思いですか」
「さあ?少なくとも、父上の望むようなやり方ではない後継者になるつもりだから。それが立派かどうかは知らないな」
「……今日はここまでにいたしましょう」
まるで挑発するかのようなその態度に、家庭教師は溜息をついて首を振った。


家庭教師に八つ当たりしても仕方がない。
ブルーは教本を小脇に抱えて部屋を後にしながら溜息を零した。これではなんの解決にもなっていないどころか、単なる子供の癇癪だ。
ブルーが訴えたいことはそうではなくて、だが訴えたい相手は最初から聞く耳を持たない。
「母上がいらっしゃれば……」
呟いて、すぐに首を振る。
なくなった庇護を惜しんでも意味はない。庇護がなくなったからこそ、ジョミーと引き離されたのだ。
ブルーの手は、ジョミーを守るには様々なことがまだ足りない。それを手に入れることが先だと思うのに、そこに至るまでの道のりを、ジョミーが隣で共に歩いてくれないことが不満なのだ。矛盾している。
「どうすればいい……どうすれば早くジョミーを守るだけの力を手に入れられる……」
廊下で立ち止まり窓に手をついて見下ろした庭では、馬丁が馬を牽いて歩いていた。
それを守るといえるかはともかく、ブルーも最初から無力にただ歯噛みしていたわけではない。
何度かジョミーの手を引いて、邸を飛び出そうとしたことがある。貴族の子として生まれ、ろくに労働も知らない自分とでは、ここから飛び出したところでジョミーに苦労をかけることになるのは目に見えていて、それでも同じ苦労をかけるなら、こんなところで主と従者でいたくはなかった。
だがその逃亡は、見つかるとか連れ戻されるとか以前の問題で、ジョミー自身が強く拒絶して一度も果たされていない。
それが邸の庇護下にありたいという理由ならともかく、ジョミーはいつでもブルーが父親と対立することに心を痛めて反対するのだ。
思えば、ジョミーは初めてこの家に来たときからそうだった。家族同士で争うことを極端に嫌い、その原因が自分であると殊に心を痛める。
嫌うと言うよりは、恐れているというほうが近いかもしれない。
「どうしたら……」
吐く息で窓が白く曇ったところで、階上から陶器の割れる激しい音が聞えた。
振り仰いだ階段を慌しい足音が駆け下りてきて、現れた黒髪の弟はブルーを見て酷く複雑な様子で顔をしかめた。
だがそのまま何も言わずに、ふいと顔を背けると更に階段を駆け下りて行った。
最近のシロエがああいう態度を取る時は、ジョミーが絡んでいることが多い。
ブルーとは違う接し方ながら、シロエは友人としてジョミーのことをとても好いていた。
だからこそ、使用人になったのだと言われても納得していない。
ブルーが階段を昇ると、廊下に飾ってあったはずの壷の残骸を前にしゃがみ込んだジョミーの後姿が見えた。
「ジョミー」
声を掛けると、はっとしたように振り返る。
その表情は、失敗をしたとばつが悪そうに苦笑いするのでもなく、使用人らしく恐縮した様子ですぐに伏せられる。
「ブルー様、申し訳ありません」
「今は誰もいないよ、ジョミー」
だからそんな遠ざけるような話し方はやめてくれとお願いしても、ジョミーは緩く首を振るだけだ。
「お叱りはいかようにも」
「……それはどうせシロエがやったんだろう。さっき逃げて行った」
シロエのそれは、単なる八つ当たりでもジョミーを困らせようというものでもなく、ジョミーは使用人に向かないから、せめて自分の遊び相手として下働きから解放しようという、短絡的だがシロエなりに考えての行動だと、ブルーもジョミーも知っている。そして恐らく父親も気づいている。
廊下に飛び散る白い陶器の欠片を拾う指先を見て、ブルーは眉間にしわを寄せてすぐ傍に歩み寄った。
「危ないですから、ブルー様はあまり近付かないでくだ……」
「手が荒れている」
ジョミーの苦言なんて聞きもせずに腰を屈めたブルーは、その白い手を掴んで上へ引っ張った。
過日、青い鳥の羽根を差し出した柔らかそうだった手は、水仕事や力仕事に爪が割れ、肉刺も潰れて、指先も赤くひび割れてきている。
使用人たちはみな、労働の跡の見える手をしているけれど、ジョミーはその仕事に慣れていないせいか、他の誰よりもひどく荒れていた。
割れた壷の破片で切ったわけでもないのに赤く血の滲む指先に、ブルーは壊れ物を扱うようにそっと両手でジョミーの手を包み込む。
「ブ、ブルー様っ」
「ジョミー……すまない。君にこんなつらい思いを……」
「これは……ぼくが不慣れなせいで……ただ未熟の証です。は、放してください」
「嫌だ。できることならこのまま連れ去りたいのに」
そっとその指先に口付けようと寄せた唇が触れる、その前に激しく振り払われた。
「それはだめっ!」
ブルーの手を振り払ったジョミーは、両手を引いてブルーに取られないようしながら一歩後ろに下がる。
「それはだめ……い、いけません。あなたはこの家の」
「家を継ぐ者なんて、その気になればシロエがいる。シロエまで嫌がるなら従兄弟だっている。でもジョミーと共にありたい僕は、ここにいる僕だけだ。そしてジョミーも君だけ。代わりはどこにもいない」
「でもその従兄弟は、あなたじゃない」
ジョミーは引き寄せた両手を握り合わせ、今にも泣き出しそうな、あるいはまるで笑い出しそうに、眉を寄せて震える口の端を引き上げる。
「あなたじゃない。労働者たちと歩み寄ろうとする、あなたじゃない」
「ジョミー、それは……!でも、僕は」
「ぼくひとりの為に、たくさんの可能性を潰したりしないで。そんなの絶対にいやだ」
「ジョミー!」
「冷静になってよ!あなたはこの家を継いで、たくさんのことが出来る人になるんだ!」
「君が隣にいなければ、意味がない!」
陶器の破片を踏み砕き、一歩で距離を詰める。
ブルーから逃げるように引き込んで両手を握り合わせていた手首を掴み、力任せに引っ張った。
バランスを崩して前へとたたらを踏んだジョミーを、正面から強く抱き締める。
「ブルー……っ」
「ジョミーに傍にいて欲しい。僕の隣にいて、僕と一緒に歩んで欲しい。それはそんなに我侭な願いなのか?」
抱き締めたジョミーは、腕の中で何も答えずにただ首を振る。
「ジョ……」
「ブルー」
背後から割って入った冷静な声は、ただでさえ激情に呑まれ掛けていたブルーの心を更に震えさせた。


すべての元凶ともいえる父の声に、ジョミーがはっと息を飲んで力の限りにブルーを押し返した。
すぐに離れてしまった温もり。空になった両手。
ジョミーは俯いて、目を合わせようともしてくれない。
唇を噛み締めて振り返ると、呆れた様子の表情で父が立っていた。
「先に言っておきますが、ジョミーには諌められました」
「分かっている。ジョミーを使用人としてから此の方、いつまでも我侭を振りかざしているのはお前とシロエだ。あまり下男を困らせるな」
「あなたは……っ」
下男と、わざわざ強調するように口にする父にブルーの眦が上がる。
だが父は言い合いに応える気がないように軽く手を上げて首を振った。
「下らん話を聞くためにお前に声を掛けたのではない。ブルー、お前に私の名代として、挨拶に行ってもらいたい家がある」
「あなたの名代?よくもそんなことが言えますね。僕はあなたの代理など、絶対に……」
「あまり我侭ばかりを言うものではない。使用人と近しくしすぎて、己の立場も弁えられんか」
「ジョミーに非はありません!」
「そうか、ならばお前の非なのだろう。何度も言わせるな。ジョミーをこの邸に置いているのは、亡きあれの心情を汲んでの事だ。だがそのためにお前に悪影響があれば、自ずと答えは変わってこよう」
震える拳を握り締める。
こうやって、ジョミーの傍に寄れば寄るほど、父はジョミーを盾に脅しをかけるようなことを口にする。
何度揉めたか数えもできず、そしていつでもブルーが勝つ糸口はない。
「………分かりました」
握り締めた掌に爪が食い込んで、その痛みがブルーを辛うじて押し留めた。ここで父に殴りかかっても、その咎はジョミーに向く。
身の内を荒れ狂う激情を宥めながら、どうにかやり過ごそうとするブルーに、父は満足そうに頷いて手を振った。
「ここの片付けは誰ぞにやらせておこう。ジョミーはブルーの支度を手伝ってやりなさい」
ここでもまだ、主と使用人だと自覚させようとする父親に、握り締めたブルーの爪は、掌の皮を鈍く傷つけた。


白いシャツを羽織る。髪を後ろへ撫でつけ、整える。
椅子に座って綺麗に磨かれた靴に足を入れ、その紐を括ろうと屈む前に、自然な動作でジョミーが膝を付いた。
「ジョミー、君がそんなことをしなくてもいい」
「靴墨が手につきます」
「ジョミー……」
既に何度目かも分からない溜息をつくブルーに対して、ジョミーはまるで聞えていないかのように淡々と事務的な言葉を返す。
「きつくはありませんか。緩くは?」
「大丈夫だ。ジョミー、頼むからふたりしかいないときにまで、そんな風に距離を空けないでくれ。さっきみたいなら廊下ではない。誰かに見咎められることもないんだ」
「ぼくは使用人ですから」
「ジョミー!」
右足の靴紐を括り終えたジョミーは、左足の紐を手に取る。俯いたまま顔も上げず、けれどジョミーが小さく笑ったことは分かった。
「……ブルー、ぼくは旦那様に本当に感謝している。あなただって分かっているだろう。由緒正しいこの家で働くには、どんなに端役の仕事を得るのだって、身元を保証する人がいないといけない」
「君の身元は母が保証していた」
「違う。ぼくの身元は、保証されるべきなにものもないも同然だった。夫人は……奥様は、ただ旧交によってぼくを拾ってくれただけだ。その、旦那様にとってはどこの誰とも知れないぼくを、この邸で働かせてくれた。本当に感謝している」
「…………だから、父と争わないでくれ、と?」
「そう」
ジョミーは靴紐を括り終えると僅かについた靴墨を布で拭いながら、膝を付いたまま顔を上げる。
「あなたが思っているほど、ぼくは不幸じゃない。ぼくが悲しいのは、ぼくがいなければ争わなかったはずの人と、あなたが争うことだ」
「こうも考え方がずれているんだ。ジョミーのことがなくてもいずれ衝突はしたさ。だからそんなことにジョミーが心を痛めなくていい」
はっきりと言い切っても、ジョミーは僅かに目を伏せて苦笑いをするだけだ。
ブルーはその両手を取って引っ張ると、両手の指先にそれぞれ口付けをする。
「ブルー!ぼくの手は汚いからっ」
「汚くなんてない。懸命に働いた尊い手だ。僕のジョミーの、愛しい指だよ」
慣れない労働に痛めたが手が痛々しい。
まだ父を説得する力も、この状況を好転させる術も、まるで浮かばないけれど。
せっかく街に出るのだから、せめてこの手に塗るいい薬を買って来よう。
それすらも、ただの自己満足かもしれないけれど、何もしないよりはずっとましだ。
祈るような思いで、傷を刺激しないように、優しくジョミーの両手を包み込んだ。






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