ジョミーが邸に留まると一応決めたからといって、以前と変わらない生活が送れるとはさすがに思ってはいなかった。
母の悲報を受けた日から邸は悲しみに沈み、それはジョミーもまた同じだった。
笑って欲しいなんて無茶はさすがに願いはしなかったけれど、ジョミーの様子はただ悲しんでいるだけはなく、時折深く考え込む様子が伺えて、それが気が気ではない。
まさかとは思うけれど、黙って出て行く算段をつけているのではないだろうかと、そんな様子を見かける度に何かと話し掛けてはその思考を中断させていた。
ジョミーはそんなブルーに気づいているのかいないのか、思索の邪魔をされても怒ることもなく、ただ少し困ったような顔をするだけだった。
そんな顔をさせたいわけではない。
だがジョミーが出て行ったらどうする。
そんな煩悶を繰り返しながら母の死から一ヶ月が経ち、ようやく弔問客が途絶えた頃、ブルーとジョミーを取り巻く状況は更に一変した。


気晴らしに付き合って欲しいという理由でジョミーを誘った遠乗りから帰ってくると、上階からシロエの怒鳴り声が聞えた。
まだ兄たちほどは上手く馬を扱えないと置いていかれて拗ねたのかとも考えたが、甘やかされて育てられたとはいえ、シロエは無闇やたらと誰かに当り散らすこともない。ジョミーと顔を見合わせて、とにかく様子を見に行くことにする。
「やめろ!やめろって言ってるんだ!ぼくの言うことが聞けないのか!?」
「何をそんなに興奮しているんだ、シロエ。一体どうしたと……」
階段を登り、手すりに手を掛けたまま弟をたしなめるはずの言葉が口の中に消えた。
「何をしている!」
「ブ、ブルー、どうしたの?」
後ろにいたジョミーはまだ二階の廊下の光景が見えていないために戸惑うように訊ねてくる。だが最愛のジョミーからの呼びかけにも振り返りもせずに眉を吊り上げて、最後の一段を登りきった足で廊下の絨毯を踏み締めた。
シロエに行く手を邪魔されながら、荷物を運んでいた家人たちは一斉に首を竦める。
まだ小さな、それに時折とはいえ癇癪を起こすシロエに噛み付かれることはまだしも、普段が温厚なブルーが柳眉を逆立て怒りの表情を見せるとなると、さすがに堪えたのだろう。
荷物を抱えたままその足が止まり、怯えたように身を竦める。
ブルーは目を細めるとゆっくりと、威圧するように低く押さえた声で廊下の一団を一瞥した。
「何をしているのかと、聞いている」
「ブルー!どうしてみんなにそんな恐い声を向けるの!?」
後を追って階段を登ったジョミーは、後ろからブルーの服を引っ張って興奮を押さえるようにと示してから、息を飲んだ。
後ろから聞えたその声にならない呼吸だけの小さな音が、ブルーの胸を焦げ付くような痛みと怒りで更に焼く。
家人たちがそれぞれ手にしていたのは、ジョミーの荷物だ。身の回りの品、嗜好品、それらすべてをジョミーの部屋で見た覚えがある。
「兄さん!こいつらジョミーの部屋から勝手に荷物を運び出すんだ!」
悔しさからか怒りからか、目に涙を滲ませたシロエが強く睨みつけながら家人たちを指差すと、彼らはうろたえたように一歩下がった。
握り締めた拳を震わせるシロエの横に立ち、一切の表情を消したブルーの怒りは弟の激しさとは対照的だったが、それは青く立ち上る高温の炎を思わせる恐ろしさを秘めている。
そんなブルーの冷たく燃える瞳から、その前に回り込み両手を広げて家人たちを庇ったのは他ならぬジョミー自身だった。
「待ってブルー。怒らないで。これには何か事情があるんだよ」
「ジョミー!どうして君が彼らを庇う!」
「だってみんなぼくにも優しかった。理由もなくこんなことしないよ。だから」
「理由があることなんて分かっている。だがどんな事情だろうと暴挙は暴挙だ!」
ジョミーが周囲の者と上手く馴染んでいるなんて、そんなことは分かっている。彼らが好き好んでこんなことしているわけではないことは、ジョミーに庇われたことで申し訳なさそうに俯いたことで確信もしている。
そうではなくて、彼らがこんなことをしている事情に怒りを覚えるのだ。
彼らが望んでこんな真似をするはずがない。
ではなぜ。
答えはとっくに分かっている。
「暴挙などと、少しは口を慎まんか」
三階から降りてきた人物に、ブルーの怒りが煽られる。隣でシロエの表情も険しくなった。


「親のすることだぞ」
ジョミーの荷物を運び出すよう指示を出した主の登場に、ブルーの怒りを受けていた家人たちは、助かったというより更に困惑が増したようだった。互いに隣の者とちらちらと視線を交し合う。
「これが暴挙でなくてなんだと仰るか。ジョミーは母上の客人です」
「あれは死んだのだ。彼はもう誰の客でもない」
「では僕の友人だ。今すぐこんなことは止めてくださいっ」
「友人は選ばねばならんぞ、ブルー。お前はこの家を継ぐ者だ」
「僕の友人は、僕が選びます。あなたに指図されるいわれはない!」
選べと言うなら、親の方こそを選べるものなら選びたい。よりによって、ブルーの命とも言えるジョミーを否定するような親なんて。
息子の激しい抗議にも眉一つ動かさず、父はジョミーに視線を移した。
「……素性も明かせんくらいなのだからその出自も推して知れるものだ。我が家の跡取りの友人に相応しいはずがなかろう」
「くだらない」
忌々しげに吐き捨てると、ブルーは父に向かって足を踏み出した。踏みしめた絨毯からは煙が出るのではないかというほどに強く摩擦が起こっている。
「あなたは、人の貴賎は身分ではなくその心根にあると、母上が生前仰っていた言葉をまるで理解していない!」
「あれは女であったから、あのような甘い考えでも許容されていたのだ。お前がそれと同じでどうする」
「そんなことを本気で信じているあなたこそどうかしている!」
大きく振ったその手が誰かにぶつかり、ブルーははっと息を飲んで隣を返り見る。
その手はぶつかったのではなくて、ジョミーの両手に止められていた。
「やめてブルー。ぼくのことで、君のお父さんと、君が争うことはない」
「『君のお父さん』ではなく、『旦那様』だ。ブルーのこともそのように気安く呼ぶことは許さん」
冷たい声に、ブルーは鋭い視線を再び父親に戻す。それに対しても父は何も反応はせず、顎を軽く上げて息子ではなくジョミーを見下ろした。
「ジョミー。お前を邸には置いてやろう。それでもお前はあれが連れてきた子供だ。ただし、下男としてだ。ブルーの友人などとおこがましい態度は改める。それが最低条件だ」
「なにを……っ」
怒りで意識が焼き切れそうだ。
そのあまりの激情に喉を詰らせたその一瞬に、ジョミーが驚いたように呟いた。
「ここに……置いて、もらえるんですか?」
「ジョミー!」
どうしてそんなことを、そんなまるで温情を掛けられたかのようなことを言う。今侮辱されているのは、ジョミー自身だというのに。
父は軽く目を見張ったが、すぐに嘲笑を浮かべて軽く息を吐く。
「どうやらお前より、ジョミーの方が弁えている様だ。当然か。卑しい者は、憐憫の情に縋って生きるのだろうからな」
「あなたは……っ」
「ブルー!……いえ……」
袖を引かれた。だがそれよりも、引いた手が離れたことのほうが痛かった。
その続きは、聞きたくなかった。
「ブルー様」
それをジョミーの口から、ジョミーの声でなんて聞きたくなかった。
それでも、父に強要されて、仕方なくならまだいい。
一種の強要ではあったけれど、それよりもジョミーが自身の意思でも受けれた答えだったからこそ、聞きたくなかった。
蒼白になって言葉も出ないブルーに、ジョミーは見ていられないというように目を伏せる。
だがすぐに顔を上げて、まっすぐにブルーの瞳を見つめて微笑んだ。
「旦那様の優しさを、悪く言ってはいけませんよ」
「うむ、うむ。よく分かっているようで結構だ。作業を続けろ」
立ち尽くすブルーの横を、遠慮がちな家人たちが通り過ぎて行く。
それでもブルーの目には、微笑みを見せるジョミーしか映らない。
本気で?
本気でそれを言っているのか?
どうして!
どれほど叫びたくても、喉が麻痺したかのように声が出ない。
まるでその代わりのように、それまで震えて兄と父の言い争いの成り行きを見つめることしかできなかったシロエが床を踏み締めた。
「ジョミー!ジョミーはぼくの友達だ!約束したじゃないかっ」
「シロエ…様、それは……」
「……っ!………き……聞きたくないっ」
ジョミーの視線を追うように、ぎこちなく弟に目を向けると、その紫苑の瞳から大粒の涙を零したシロエは、その強い視線を父ではなくジョミーに向ける。
「ジョミーの馬鹿っ!大っ嫌いだっ」
涙を拭おうと差し出された手を強く跳ね付けて、シロエはジョミーから顔を背けるようにして走り出す。
その背中が小さくなるのを眺めていたブルーは、俯いたジョミーの小さな声を聞いた。
「……これで、却って良かったんだ」
何が良かったと言うんだ。
人を差別したくないというブルーに賛同してくれたのはジョミーだったのに。
一体何が良い、と。
目の前のジョミーをただ見つめていて、走り去ったシロエも、満足の笑みで階上へ戻った父も、ジョミーの荷物を運び出した家人たちの姿も、もう誰もいないことも気づかずに、ブルーはその手を伸ばす。
ジョミーの細い身体を引き寄せて、抱き締めた。
ジョミーは抵抗しなかった。
引き寄せられるままにブルーに身を任せ、その抱擁をただ受け入れる。
だがその手がブルーの背中に回ることはなかった。


一体何がよかったというのか、少しも分からない。






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