夜が明ける。
月の柔らかな光が地平の彼方に沈み、東の山の稜線が赤く染まる。
ジョミーはこの、夜の役目の終わりを告げる光景がつらくもあり、同時にとても好きだった。
遠く景色を見渡せることに世界の広さを思い、守ることを強要されている場所の美しさを目の当たりにする瞬間。
赤く染まる明け行く空に目を細める。
最後の小節を歌い終えたジョミーは、緩く息を吐いた。
「……まるであの人の瞳の色だ」
少し離れた背後に立つ麗人。
この国は、彼のもの。



ジョミーが振り返ると、ブルーはうたた寝するどころか座りもせずに扉に凭れてまっすぐにジョミーを見ていた。
半ば予想していた光景ではあった。
ただじっと何時間も繰り返される同じ歌を聴き続けるなど飽きただろうに。きっとジョミーは歌い続けているのにと律儀に立っていたのだろう。
……個人としては、悪い人ではないのだ。
けれど彼は国王。
「陛下……」
一礼をして一日の役目の終わりを告げようとすると、ブルーは緩やかに首を振って苦笑した。
「ジョミー、忘れたかい?」
柔らかく微笑む一言に意図を測りかねて首を傾げる。
それでも何も言わないブルーに困惑すると、やがて諦めたような溜息を吐かれた。
「二人きりの時は名を呼んで欲しい、と」
「あ……」
すっかり忘れていた。あるいは、この人にもうあまり近付きたくない心理の表れだったのかもしれない。
後ろから抱き締められたときは心臓が止まるかと思った。
何か男であることを疑われるようなことをしてしまったのかと。
ぎゅっと抱き締めるだけで何かを探る手つきではなかったことに安堵したのは、ブルーの意図が分かってからのことだ。
それにしても、もしもあのとき偶然にでも気付かれていたら。
考えるだけでも身震いがくる。
ジョミーが男であるとブルーが気付いたとしたら、彼が見せるのは驚愕か怒りか、それとも侮蔑だろうか。
ジョミーは手を握り締めて震えそうになる身を懸命に堪える。
唇を噛み締め、目を閉じて、この息が詰まるような時間が早く過ぎ去るようにと祈るしかない。
名前で、なんて。
呼びたくないな……。
ジョミーは僅かに視線を逸らすように落とした。
親しくなりたくない。
まさか王が本気でジョミーと親しくしようとしているとは思わないが、この人の考えは読めないから確信は持てない。
それが王の気紛れであるなら余計に。
「これ以上振り回されてたまるか」
拳を握り締め、小さく小さく呟く。
国の、王の都合に振り回されるのは運命だけでたくさんだ。押し付けられた決まりの中で築き、保っていた平穏まで乱されたくなんてない。
これは親しくなるものではなく、この危うい均衡で保たれている平和を守るための、仕方のない行為だ。キースも王の意向に沿えと注意していたじゃないか。
ジョミーは抵抗を覚える心に蓋をして、苦笑を浮かべて頷いた。
「すみません。やっぱり陛下を御名でお呼びするなんて緊張してしまって……」
「ジョミー」
不満そうに眉を寄せた表情が、昨日に見たものとは少し異なるように見えたのは気のせいだろうか。きっとそうだろう、ジョミーの王に対する認識が変わったせいだ。
不満と言うよりも、まるで傷ついたように見えたの、なんて。
「緊張して言われたことをうっかり忘れてしまっただけですよ、ブルー」
そう付け足して微笑みながら名前を呼ぶと、ブルーは綻ぶような笑顔を見せた。その笑顔も、昨日までのものとは少し違うような気がする。だがそれもきっと気のせいだ。
キースは王の意向に沿えと言った。名前で呼べと言うなら名を呼んで、歌が聞きたいというのなら歌って聴かせよう。
なんでも王の希望を叶えよう。満足して、さっさと王都に帰ってもらえるように、なんでも。
「もう下に降りましょう。お腹は減ってませんか?ぼくが作るごはんはキースみたいに美味しくはないと思いますが、簡単な食事なら作れます。もう時間に追われてもいないので、ちゃんと二人分」
肩に掛けたストールを直しながら、一人前の料理を二人で分けたことを冗談めかして言うと、ようやくブルーの表情から硬さが取れたように見えた。
「そうかい?だが僕は君の手料理の方が楽しみだな」
柔らかに笑う王に微笑み返しながら、本当に自分が笑えているのか、鏡が欲しかった。


共に螺旋階段を降りて二階に差し掛かったところで、寝室に毛布を置いてくるとブルーに先に降りてもらう。
ブルーと別れ、部屋に入った途端にジョミーは毛布を抱き締め、扉に背を預けたままずるずると床に座り込んだ。
「……息苦しい」
昨夜この部屋に毛布を取りに寄ったときより、身体が重い。これは徹夜明けのいつもの疲れではない。
ブルーと一緒にいることが苦しい。今までも緊張はしていたし、警戒もしていた。その分だけ疲れることはわかる。
だがそれとは別に、冷静であれと思うたびに、息苦しくなっていく。
悪い人ではない。だから騙すことがつらくて、それでも騙さなくてはいけない。
村の大人と同じでジョミーではなく歌姫を思っているだけなのだと繰り返し確認しているのに……ジョミーに触れるあの手がひどく優しくて、それだけがつらい。
床に座り込んだジョミーは、立てた膝に顔を埋めて重い息を吐いた。
いっそこのまま眠ってしまいたいほどの疲労を感じていたが、まさか王を放って置くわけにはいかないだろう。朝食を作って、迎えの人がくるまで話し相手になって……。
考えるだけでまた息苦しく胸が詰まるようだった。
気は進まないが何時までも降りなければ、あの人の良さそうな王が心配する。
そう思ったところでちょうど階下から物音が聞えた。
今は落ち込んでいる暇さえないのかと溜息混じりに億劫そうに立ち上がる。
部屋を出で、階下からの物音がブルー一人のものでないことに気づいた。
はっきりとは聞えないが、どうも誰かと会話しているようだ。
迎えが来ているのかもしれない。いや、きっとそうだ。国王が一人で出歩くなんて聞いたこともない。きっと泡を食って迎えに来たのだろうと、同じく王に振り回される身として昨日ちらりとだけ見た、気の優しそうな従者を気の毒に思う。
だけどこれで迎えが来るまでの話し相手どころか、朝食を一緒に取るなんて苦行をしなくてもいいかもしれない。王本人がああは言っても、高貴な人が質素な食事を取るなんて、従者は善しとしないのではないだろうか。
淡い期待を抱き、少しだけ気分が浮上したような安堵で階段を降りたジョミーは、扉を開けた途端に冷気が流れ込んできた錯覚を起こした。


一階には予想通り、あのリオという従者がいた。
だが冷気の元は彼ではない。
睨み合っているのはブルーと、そしてなぜかいるキースだ。
扉を開けたときの格好まま不思議な光景に首を傾げたジョミーは、睨み合っていたブルーとキースの鋭い視線を同時に向けられて、思わず息を飲んだ。
そのジョミーの怯えた様子に、ブルーはハッと気付いた様子で表情を和らげ微笑み掛けてくれたが、キースの表情は緩まない。
ブルーとなにやら揉めていた余波ではなくて、ジョミー自身にも言いたいことがあるのだろう。
ふと急にブルーの笑顔が更に輝き、キースの機嫌が更に悪化する。
対照的なその態度にますます混乱したジョミーは、優しく手の甲を撫でられて驚愕した。
撫でられたその手が、自らブルーの服の袖を掴んでいたことに。
ブルーの袖を掴む手を見て目を瞬き、腕を辿るように目を上げると、にこりと赤い瞳が嬉しそうに眇められる。
「え……」
「大丈夫だよ、ジョミー。何も心配しなくていい」
扉の傍にブルーがいたことに加えて、キースが恐ろしい表情で睨んでいるのでつい優しい笑顔の方へ寄ってしまったらしい。
ジョミーが慌ててブルーの袖を離して一歩離れると、今度は王が眉を下げてキースの表情が僅かにだけ厳しさを緩めた。
「………えっと……」
何がどうなっているのだろう。
説明を求めたいが、今は気心が知れたキースにも縋る気になれない。キースと睨み合っていた相手がブルーだということを思えば、ブルーに訊ねる気にもなれない。
結果的にジョミーは第三者、この場にいたもう一人の人物に目を向けた。
リオは心得たように頷き、苦笑を零す。
「申し訳ありません、歌姫。ご迷惑をお掛けしました。お恥ずかしながら陛下のお姿が村長宅より消えていることに気づいたときは既に夜も更けておりまして……」
「護衛対象に逃げられる護衛とは、聞いて呆れる」
冷たい声で吐き捨てるキースに顔色を変えたのはジョミーだけだった。
「キ、キース……」
ジョミーに王を怒らせるなと釘を刺したはずのキースの喧嘩腰に、蒼白になって小声で窘めたがリオは苦笑の表情のまま首を振る。
「キースくんの言うとおりです。今まで陛下がどれほど我々護衛に対して協力的だったかを思い知らされました。今後はもう少し周囲の警護を強化したいと思います」
「リオ」
眉を寄せた主君に対し、リオはジョミーに向けていた苦笑を改め、ブルーを真剣な表情で見据える。
「今更お願い申し上げることではないと思いますが?」
しばらく睨み合っていた主従だったが、折れたのは主の方だった。
「わかった、今後は勝手に抜け出さない」
両手を上げて降参の意を示すブルーに、リオは溜息をついて頷く。
「そう願います。しかも日暮れの山道をお一人で行かれるとは」
「人の通りとしていても、山ですから獣も出ます。闇では沢を落ちることも。慣れぬ山道の中をご無事でようございました」
淡々と感情を込めないキースの口調に青くなったのはジョミーだけで、ブルーは肩を竦め、リオはやはり困ったように苦笑を浮かべる。
ジョミーは何となく気分的に足音を立てることすらいけないことのような気がして、息を殺しながらそろりと爪先立ちでキースの方へにじり寄った。
くいっと指先で袖を引くと、肩越しにブルーを伺おうとして背後に冷たい冷気を感じて振り返るのをやめた。
立場的にも相性的にも、決して仲がよくはないだろうと思われるキースとブルーだが、それにしても昨日まではここまで険悪ではなかったはずだ。一体どうしてこんなことになっているのか、声を潜めてキースに訊ねる。
「なんでそんな喧嘩腰なのさ。陛下の機嫌を損ねるなって言ったのキースじゃないか。怒らせるようなことするなよ」
ジョミーが殊更声を潜めたというのに、キースはまるで憚ることもなく声を大きく言い放つ。
「妙齢の娘が一人で暮らす塔に、従者の目を掻い潜ってまで一人で夜に押しかけるような行為は、痛くもない腹を探られても仕方がない話だろう」
「キ、キース!」
痛烈に王を批判するような口調に慌てて袖を引いたジョミーは、最初その言葉の意味を捉え損ねて、ただキースの態度に驚き、ブルーとキースを交互に見る。
さすがに気に触ったのか、ブルーの柳眉が角度を上げた。
「確かに、軽率であったことは認めよう。だが私がジョミーの意向を意に介さないような男だとでも?」
「失礼いたしました。しかしジョミーの意向もなにも、あなたの意志が通らないことなどありましょうか」
キースに腕を引かれ、その背後に力づくで回されてたたらを踏んだジョミーは、キースの服の端を掴みながらどうにか転ばずに踏みとどまった。
「おい、ちょっとキース……」
確かにブルーが押しかけてきたときは慌てたけれど、せっかくジョミーが上手く一晩誤魔化したのにここで怒らせるなんてどうかしている。
どうして二人ともこんなに怒っているのだろうとしばらく二人の言葉を考えてみたジョミーは、ようやくキースの牽制の意図を悟ると共に、かっと頬を真っ赤に染めた。
「この……馬鹿っ!」
目の前で対決中のブルーに意識を向けていたキースは、唐突に背後から振り上げられた拳を避けることもままならず、無防備な後頭部に強かな一撃を喰らう。
「なっ……!ジョミ……っ」
思い切り叩いてうずくまらせるつもりが、ジョミーの方が背が低かったために思った通りには拳が入らなかったらしく、キースは前によろめいただけに留まった。
それがまた癪に障って、さらに膝の裏に蹴りも入れておく。
殴って蹴って強制的に背の高い幼馴染みが床に膝をついたところで、珍しく見下ろせる体勢で上からその鼻先に指を突きつけた。
「キースの馬鹿っ!何考えてるんだよ!ブルーがそんなことするわけないだろ!」
拳を握り締めて力説したジョミーは、力いっぱい否定したときにブルーがどんな表情をしたかは見ていない。
ただとんでもないことを言う幼馴染みに、純粋に腹を立て、真っ赤に染めた顔で握り締めた拳を空中で振り回す。
「大体、ぼくとブルーがそんなことできるわけないだろ!ぼくらは……っ」
「ジョミーっ!」
上から押さえつけられるように怒鳴られていたキースが、突然バネがしかけられていたかのように跳ね起きてジョミーの口を手で塞ぐ。
幾分乱れた息で、キースはジョミーの言葉の後を無理やり引き継いだ。
「そう、王と歌姫だ。滅多なことが起こるはずはない。だが、男女である以上は、当たり前の危惧でもある」
男同士で何がどうなる心配だと憤っていたジョミーは、キースの言葉に息を飲んだ。
うっかり自分で男だと口にしてしまうところだった。
危ういところで止められて、蒼白になったジョミーが大人しくなったことを確認してから、キースは溜息をつきながらジョミーの口を押さえた手を引き、床から立ち上がる。
埃を払いながらブルーに目を向けたキースは、蒼白になったまま俯くジョミーを背後に隠してブルーを見据えた。
「このように、歌姫は世俗のことには疎くあります。差し出口かとは思いましたが、私も立場上、歌姫の身辺に関して敏感にならざるを得ないとご理解ください」
「……いや、君の言うとおりだろう。ジョミー……歌姫」
声を掛けられ、まだ心臓が大きく跳ねていたジョミーはびくりと肩を震わせる。
その様子に、ブルーは苦笑いを零して溜息をつく。
「昨日は遅くに押しかけ、我が侭を言ってすまなかった。また改めて、今度は従者を伴って、訪ねてもいいだろうか?」
キースの背後で、その服を握り締めながら声もなくこくこくと頷くジョミーに、ブルーは何かを言いたげな様子を見せた。
だが結局それ以上は何も言わず、暇だけを告げてリオと共に塔を出て行く。
窓からブルーの背中が山道へと消えていく様を見届けて、ジョミーはようやく安堵の息を吐きながら力つきたように床に座り込んだ。
「あ……ぶなかったー……」
「自分が女のふりをしていることを忘れていたな。だから僕は怒ってみせたというのに……」
殴られた頭を擦りながらブツブツと不平を鳴らすキースに、ジョミーはそのまま床に両手をついて嘆く。
「だってキースがめちゃくちゃなこと言ってると思ったんだよ!男同士で変な心配するなって」
「王がそう知ってるなら僕だって怒るか。向こうが急にその気になって、服を剥がれて男だと知られるなんて馬鹿な話はごめんだ。だから牽制しただけだ!」
「悪かったよ、そう怒るなって……」
「怒りたくもなるさ!王が従者の目を盗んで一人で塔に向かうなんて只事じゃない。歌姫を手篭めにするつもりじゃないのかと、あの従者と二人で夜の山道を駆け上がって来たんだぞ!だというのに、お前ときたら鍵の掛かる塔の最上階に王を招き入れていたなんて……っ」
「え、キース、さっき来たんじゃないの!?夜のうちから、ここまで来て待ってたの?あの人と二人で!?」
「お前な……」
キースは両手で顔を覆うと、溜息を零しながら椅子に腰を落とした。
「王の気まぐれな色好みでお前のことが知られるんじゃないかと、どれだけ慌てたと思っているんだ……」
「ご、ごめん……」
謝りながら、でもブルーの我が侭を聞かされたことはジョミーが謝ることなのだろうかと僅かに疑問も感じたが、キースの憔悴しきった様子にジョミーは殴ったことを謝るつもりで頭を下げた。






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時には信頼されることもつらかったり……
そんなことしないと断言されたブルーの心境やいかに(笑)