ブルーが初めて歌姫を意識したのは、父王の葬送の儀を終えた夜だった。 王が他界した日、ブルーはなすべきことに追われて、ただの子としての立場で父親の死を悲しむ暇もなかった。そこにいたのは、王を失った国を統治するため、王太子から至高の位へ昇った新王ブルーだ。 まだ父が健在で王太子の立場だった頃からブルーの関心は国政に向いていた。これは予定していた未来が予想より早く到来したにすぎない。 数日に渡る国葬を終えた夜、疲れた溜息を零したブルーは酒を満たしたグラスを片手に王都を見渡せる私室で窓を開け放った。 夜の冷たい風に髪を弄らせながら、行儀も悪く桟に腰を掛けて窓枠に背中を預ける。 大臣たちが見れば金切り声を上げて王の気品について抗議をしそうな格好だ。近侍のリオ辺りは、ブルーの身の安全についての苦言をくどくどと諭そうとするかもしれないが。 「………疲れた」 聡明な王子としてすでに幾ばくかは政治に関わりも見せ、大臣たちとも衝突しながら上手くやってきたと思う。だが王と王子の立場では、周囲の視線一つにしてもその重みが違う。 いずれそれにも慣れるだろう。慣れなくてはいけない。今は過渡期であるために消耗が激しい。 それだけだ。 そうと分かっていても、身体が重い。 目を閉じて、冷たい澄んだ空気が酒気を帯びて少し熱を持った肌を撫でる心地良さに身を委ねる。 風に乗って遠く聞こえるのは王都の夜の喧騒だった。 「……ここが僕の国」 護るべき、統治すべき民と国。 夜の街の陽気な喧騒は、王城の王の私室にはほとんど微かに聞こえる程度だ。それでもその活気に満ちた声に、ブルーは頬を緩ませてまたグラスを傾けた。 空になったグラスをぶら下げて、窓枠から足を降ろして部屋の中へ戻ろうとする。 その耳が、微かに聞こえる喧騒から、違う音を拾った。 途切れ途切れの小さな声。 それなのに一度そうと気づくと、つい耳を傾けずにはいられない。そんな声。 振り返ったブルーは窓枠に手を掛けて、もう一度目を閉じてじっと耳を澄ませた。 集中する。細い糸を手繰り寄せるように、じっと。 途切れ途切れに聞こえる声が、やがて旋律であると気づくと、その後は他の音など耳に入らない。 「………子守唄?」 夜に歌う子守唄。 当然のはずのその声。けれどこんな遠くにまで届くそんな大声で紡ぐ歌なんて……。 「歌姫か」 国を安寧に導き護る歌い手。 なるほど、国を護り導く歌声という言い伝えは、あながち嘘ではないのだろう。 人心の荒廃は、国の荒廃を招く。 歌姫の歌は疲れた心を優しく解きほぐすかのように、温かに胸に染み込んで来る。 その夜、ブルーは窓を開けたまま、微かに聞える音に身を委ねるように穏やかに眠った。 翌朝の目覚めは快適だった。 そうして、ふと考える。 ブルーは、王は、その声に癒される。 では歌姫は、どうだろう。 ブルーがその声に耳を傾けずにはいられなかったような何かが、彼女たちにはあるのだろうか。 そうして、興味を持って調べた歌姫の制度は、まるで牢獄のような歪な形をしていた。 あの時もその声には驚かされた。 塔の内部に戻る扉にもたれ掛かって腕を組んだブルーは、閉じていた目を開けてジョミーのその小さな背中を意外な思いで眺める。 王都で聞いた歌姫の声はかすかに耳に届く程度。それなのに一度その声を捉えてしまえば、聞く者を魅了して離さない。 だがここから王都までの距離を思えば、微かにですら声が届いた事実のほうが信じられない。 それを傍で聞くとなると、どれほど耳に負担が掛かるかと覚悟していたというのに、ジョミーの声はこの距離でも耳に心地良いとしか感じられない。これこそが歌姫の神秘なのかもしれないが、それにしたって不思議だ。 村で暮らす人々は、毎夜この声に包まれて眠るのか。 なんて羨ましい。 歌姫の歌は、国の物、国を守護する王の物、王への供物。 それなのに、その歌を王が確かに聞くことができないなんて、そんな理不尽な話はない。 ふと、そんな不満が頭をもたげる。 優しい旋律はブルーの疲れを癒し、乾いた心を潤すというのに、同時の覚えるこの飢餓感はなんだろう。 もたれていた扉から身体を起こす。 せっかくジョミーが持ってきてくれた火は置いたまま、彼女がくれた毛布を翻しゆっくりとその背後に歩み寄る。 近付くブルーの気配に気づいていないのか、それとも歌うことに集中しているのか、ジョミーは振り返らない。 王へ、ブルーへ捧げる歌なのに、ジョミーはブルーを見ない。 「ジョミー」 両手を広げ、そっと後ろから包み込むように、その細い身体を抱き締めた。 抱き寄せた身体は、突然のことに怯えたように激しく震えた。 「ブ、ブルー!?」 歌が途切れて、裏返ったジョミーの焦りを滲ませた声にはたと我に返る。 腕の中にはジョミーの細い肢体。振り返ったその目は丸く見開かれてその驚愕をブルーに伝える。 突然押しかけて、その役目を果たす様を見たいと無理に押し切り、挙句の果てに妙齢の少女を了承も得ずに抱き寄せ、役目の邪魔をした。 血の気の引く音が聞こえるのではないかと思うほどに、頭の天辺から指先に至るまで、一気に熱が引いた。 一体、僕は、何をした!?何をしている! 自分でしたことが信じられず、混乱したまま立ち尽くすしかないブルーから、ジョミーがふいと目を逸らす。 拒絶を示す様子に、頭を強く殴られような衝撃がブルーに圧し掛かる。 それを強調するように、僅かに身体を捻ったジョミーの手は、ブルーの胸を押し返した。 「こ、こんなことされては困ります」 「それは……いや、これは、その、違うんだ、ジョミー」 不埒なことをしようと思ったわけではない。そう説明しようとしても、既に行っていることが不埒なのだから何の説得力もない。大体、どうしていきなりこんなことをしてしまったのか自分でも分かっていないのに、一体どんな言い訳をするつもりだ。 しどろもどろに言い淀むブルーに、ジョミーは更に力を入れてブルーを押し返す。 俯いたその横顔は、困惑よりも怒りよりも、恐怖に血の気が引いたように青白い。 ジョミーを抱き寄せた手から力が抜けて、押されるままにその身体を手放してしまった。 ジョミーはさっと身を翻し、自らの身を守るように片手を胸に引き寄せ、腰の位置までもない低い壁に片手を掛ける。 ブルーの手から少しでも遠ざかるように更に身を捻るジョミーの、月明かりを受けた金の髪が強風に舞う光は、闇によく映えた。 その背に輝く、大きな月。 「ジョミー、危ないからこちらへ……」 塔から落ちることももちろんだが、ジョミーが月に浚われるような、そんな恐怖がブルーに歩を進めさせた。今度は勝手に掴むのではなく、ただ手を差し出すだけ。 どこまでも広がる夜の空に晧々と輝く月を背にしたジョミーは、血の気の引いた固い表情でゆっくりと首を左右に振る。 「ぼくに触れないと約束してください」 「ジョミー……僕は」 「約束してください。絶対にぼくに触らないで」 静かな、けれど有無を言わせぬ強い拒絶に、ブルーは手を下ろし、一歩後ろに下がる。 「わかった。決して触れない。だからそんな身を乗り出すような、危険な逃げ方はやめてくれ」 ジョミーは慎重に様子を伺いながら、ブルーから身を守るように僅かに捻っていた身体を、半ば乗り上げていた低い壁から、少しずつ離す。 探るような視線と解けない警戒に、ブルーは両手を上げて更に一歩下がった。 肩に掛けていたジョミーの毛布が落ちる。 踏んでしまいそうになったそれを拾い上げて顔を上げると、ジョミーは白い顔色をして少し震えている様子だった。 震えていたとして、理由は別のものだろうけれど。 ジョミーを驚かせないように、恐がらせないように、慎重に拾い上げた毛布を差し出す。 近付かないようにしたので、手を突き出すような冷たい差し出し方になってしまったけれど、せめて声は優しく。 「すまない。僕のせいで怯えさせた。これを」 ジョミーは差し出された毛布に目を瞬いた。 「そういうことですか……」 固い表情が和らぎ、少し呆れたような顔で深い溜息をつく。 「あのですね、ぼくは寒くないから大丈夫って言ったじゃないですか」 「え……いや」 これは今震えている様子だったから渡そうとしたのであって、抱き締めてしまったのは、そういう意味ではなかったのだけれど。 ではなぜ急にあんなことをしたのかと問われたら、答えを返せない。なにしろブルーですら理由はよくわからないのだから説明のしようがない。ただ、ジョミーに振り返って欲しかっただけだ。 ブルーではない誰かのためにジョミーの歌を届けるような、その背中だけを見ていることに、耐えられなかった。それを言葉でどう説明したらいいのかわからない。 騙しているようで気が引けたが、怯えられてしまうよりは呆れられたほうがずっといい。 「すまない」 「本当に毎日こんな格好で歌ってるんです!もう、心配性だな」 軽く空気を含んで頬を膨らませたジョミーは、毛布を差し出すブルーの手をそのまま押し返す。 「ぼくは続きを歌わなくちゃ。ブルーは寒いんだったら下に降りてください。粗末ですけど、ベッドも空いてますから」 「いや、今度こそ大人しくしているよ。本当に寒くは……」 「ありません!」 「すまない……」 ジョミーの勘違いを利用して完全に嘘をついたことになった謝罪に胸が痛んだが、ジョミーにはそれが反省しているように見えたのだろう。つんと顔を逸らして言い切ったあと、すぐに眉を下げて微笑みを向けてくれる。 「心配してくださったのは、嬉しいです。でも急に後ろから毛布の中に取り込むのはやめてくださいね。本当に心臓が止まるかと思った」 「うん、すまな……」 「もう、そんなに何度も謝らなくていいですよ」 機嫌が直った様子で笑いながらジョミーが身を翻すと、黒いストールと金の髪が風でふわりと柔らかく舞った。 艶やかなその光景に、ブルーは僅かに痛んだ胸を押さえる。 今はブルーの真意を勘違いしたから笑ってくれたが、最初ジョミーは絶対に触るなと、青白く怯えた様子でブルーを警戒した。 急に後ろから男に抱きすくめられたのだから驚き怯えるのも無理はない。当たり前のことだ。 そうだとしても、ジョミーの立場を思うと、少し気がかりだった。 ジョミーは今年で十四歳だという話で、あの親しげな村長の息子とはあくまで友人同士らしい。それならばまだ無事だったのだろうと思っていたが、果たして本当にそうなのだろうか。 歌姫の村の者は、歌姫に子供を産ませるためならなんだってする。ジョミーがあの少年と心を通わせているならすべて彼が一任されるかもしれないが、そうでないのなら、一体どの辺りから村人達は次代の歌姫の存在を望むだろうか。彼らにとって、歌姫の血は決して絶えさせるわけにはいかないものだ。 昼間の想像が、ふとまた脳裡を過ぎる。 例えばそこにジョミーの意思が含まれているのなら、まだいい。 だがもし嫌がる彼女を無理やり押さえ込んでの行為だとしたら。 黒い靄が胸を染め上げるような重く苦い感情に、唇を噛み締める。 もしジョミーの尊厳を踏みにじるが如き行為だとすれば、相手を、それを許容する村を、許すことはできない。 歌姫の制度を維持しているのは王室だというのに、なんと理不尽な感情。 噛み締めた唇から、血の味が口内に滲む。 怒りなのか焦燥なのか、誰に向いているのかも定かではない思いに眉を寄せたブルーの耳に、再び紡ぎ始めたジョミーの優しい歌が流れ込んでくる。 その暖かさに包まれても、今度は安らげそうもない。 この歌声を残すために、それだけのためにジョミーをこの場所に閉じ込め、彼女の可能性をすべて奪っているのは村であり、国であり、王であり……ブルーだ。 歌うジョミーの後姿に、彼女をこの手に掻き抱きたい激しい欲望に駆られる。 今度は衝動などではなく、ブルー自身の意思で。 今、わかった。 昼間浮かんだ数々の無礼な想像は、すべてブルーがしたかったことだ。 抱き締めた身体は、まるで少年のもののように細く、力を入れてしまえば折れるのではないかという心配さえ浮かんだ。 そんないたいけな少女を、この手に抱いて。 ジョミーをベッドに組み伏せ、細い足を割り開いてその奥まで汚したい。小さな身体を膝に乗せ、隅々までを知り尽くして味わいたい。 あれはすべて、ブルーの願望。 髪に隠された白い項や、ストールに覆われた肢体のラインを、強い風が時折、垣間見せた。 視線ですらジョミーを汚してしまいそうで、ブルーは目を伏せて拳を握り締める。 それでも。 「……君を………愛している…ジョミー……」 汚してしまいそうで後ろめたくて、その後姿すらまともに見ることもできなくて、何が愛だ。 だができることなら今すぐに、彼女を連れてこの牢獄を飛び出してしまいたい。 歌姫の制度が、ひどく歪なものだと知ったのは最近のことだった。 今このとき、歌姫の制度が、胸を焦がすほどに憎い。 |
王様、やっと自覚しました。 |