シャングリラは雲の中に隠れている。
それは常にではあるが、必ずその全体を覆えるほどの雲が存在するとは限らない。そういうときはサイオンを使って不可視の状態を作り出すのだが、船内にいるミュウたちからは外が見える。だが雲の中にいるときは、当然ながら外の景色など見えない。
今は完全に雲の中だ。
「雲の中のときは、窓の外が真っ白っていうか、灰色っていうか……とにかくあんまり面白くないんだよね」
外を見ることのできる窓に手をつけて、つまらなさそうに呟くジョミーに後ろでリオが苦笑している。
「景色って言っても雲の上じゃそう変わり映えするものでもないけど、天気がいいと気持ちいいのに。おまけに今日の雲はどんより暗い」
『雪雲のようです』
「雪雲?」
『ええ。船の周囲をよく見てください』
言われるままに目を細めてじっくり凝らして見ると、船から少し離れた先でときどきキラキラと何かが消えるよう瞬間だけ煌く様子が見えた。雨雲のときの水滴とはまた少し違う。
「なに、あれ?」
『雪の結晶ですよ。ただあれはシャングリラの移動で起こる風圧の影響で上手く結晶化しきれずに消えている分です』
「へえ……空の上にも雪が降るんだ……」
『降る、というよりは降る前の姿が見えるということでしょうか。ある程度の結晶化が進むと地表へと落ちてしまうので、地上で言う「雪」の形態は見えません。あれは落ちていきながら、さらに結晶同士が繋がって目に映る形になりますから』
「ふぅん……」
窓に手をつけて小さく唸るような声を上げていたジョミーは、くたりと首を真後ろに倒すようにしてリオを返り見た。
驚いたのは逆さから見上げられたリオだ。
「ぼく、アタラクシアでも雪って見たことがないんだ。ライブラリーで映像は見たけど」
『え、ええ、アタラクシアは雪が降りませんね』
「リオは見たことある?」
『シャングリラはあちこちの都市上を通過しますから……あの、ジョミー。首が痛くありませんか?』
喉を目一杯反らしたようなジョミーに気遣わしげな思念の声をかけたが、当のジョミーは悪戯を思いついたような顔で笑うと、反動をつけて反らしていた身体を戻して窓の外を見る。
「ちょっと見てくる」
『見てくるって……ジョミー!』
言葉の意味を理解したときには、すでにその姿はない。
一瞬で掻き消えた元気一杯の少年に、リオは額を押さえて溜息をつく。
『……濡れて風邪を引かないでくださいよ?』
ハーレイなどからは「そうではないだろう」と言われそうな思念を零しながら、リオは濡れて帰ってくるだろう少年の着替えを用意するべく、主不在のソルジャー候補生の部屋へと向かった。


船の外に出ると強風に煽られるのはいつものことだ。
雲に囲まれる上空なのだから気圧も気温も、健康体と言われるジョミーでもサイオンを使って周囲の空気を遮蔽しなければものの数分も耐えられないだろう。それはミュウも人間も関係なく耐え切れない空間なのだから当然だ。
見たこともない雪という存在に誘われて意気揚々と船体表面までテレポートでジャンプしてきたものの、ジョミーはそこではたと困った。
「本当に……結晶化する前なんだもんな」
それらしいものが存在するのは、サイオンで塞いだ空気がいつもの雲の中よりもしっとりと重いことでわかる。わかるのだが、それを肌で感じることができない。遮蔽しているのだから当然だろう。
おまけにリオが説明したとおり、雲の中の雪はまだ結晶化が進んでおらず、雪になりそうなものでもシャングリラの推進圧に押されて弾けてしまう。これでは雪が見られるはずもない。
「少しなら耐えられるよね……?」
風圧で飛ばされないように、船体に添うように低く姿勢をとってサイオンによる空間の遮蔽を解いてみた。
途端に叩きつける冷気で身体中が一気に総毛立つ。
「――――っ」
悲鳴を上げたくても声にならない。すぐにまた空気を遮断する。
「寒いっ!だめ、無理!」
そのまま船内に戻ろうかとも思ったが、これでは濡れただけで雪を見ることもできていない。なんだか癪だ。
「……結晶になりかけの欠片をサイオンで捕らえたらどうだろう?でも周囲と遮断しちゃったら気温が下がらなくて結晶化してくれないか……」
ただの水蒸気を捉えるだけでは意味がない。ジョミーが見たいのは、触りたいのは雪だ。
船体に座り込み両腕を組んで、唸りながら首を捻って雪を見る方法を考える。
確かに、考え込んではいた。
こんな高速度で移動する上空の船体に、自分以外に生身で出てくることができるものなどいるはずがないではないか。多少は無防備にだってなる。
それなのに、後ろからふわりと温かいものに包まれた。
「だめじゃないか、ジョミー。濡れたままこんなところで」
「は……?」
振り返ると赤い瞳の麗人の顔が肩越しのすぐ傍に。
「いくら君が健康だからって、風邪を引いてしまうよ」
サイオンで張ったはずのシールドを、いとも簡単に、しかも本人に気づかせずに内部に侵入して、一緒に解け合わせてジョミーを後ろからマントで包み込んでいる。
「ソ……ソルジャー!?どうしてここに!?」
薄い藤色のマントに中で後ろから抱き締められる格好になったジョミーは声を裏返して驚いた。
「し、しか、しかも実体で!思念体でもだめだけど!」
力を使わないでと思念を送りながら、ブルーをそっくり自分のサイオンシールドの中に包み込んでしまう。それを受けてブルーは自分の作ったシールドを解いた。ただジョミーを抱き締めた手は解かない。
「ぼくは濡れてるんだから、くっついたらソルジャーも濡れちゃうよ!」
「ソルジャー、ソルジャーと……君もソルジャーなんだよ、ジョミー」
優美で繊細そうな外見に反して、あくまで自分のペースで話を運ぶブルーは、人の話をまるで聞いちゃいない。今は濡れるから離れろという話をしているのに、なぜ呼び方の返事が返ってくるのだろう。
眉間にしわを寄せたジョミーの言いたいことを読んだように、ブルーはくすりと笑って一度ジョミーを抱き締めていた手を解いた。
「それにもう遅い。僕もすっかり濡れたからね」
そう言って両手を広げたブルーの服も確かに濡れている。濡れてはいるが、ミュウの服は耐水性にも耐熱性にも優れていて衝撃にも強い。
「今すぐだったら表面を拭うだけでいいじゃないか。早く船内に戻って……」
解放されたのを機に、振り返ってブルーの肩に手を置いた。その瞬間、今度は正面から抱き締められる。
「ソルジャー!」
「だから君もソルジャーなのに」
「ぼくがソルジャーと呼ぶのはあなたしかいないんだから、どっちもでいいじゃないか!」
「じゃあ僕もこれからはジョミーをソルジャーと呼ぼう」
「一体何の話だよ!?」
ブルーが何を拗ねているのかさっぱりわからない。とにかくまずは船内に戻ってブルーに濡れた服を着替えさせなくてはと、抱き締められた状態から抜け出そうと肩に置いた手に力を入れて身体を離そうとした。
「いいから話は後で……」
「さて、ソルジャー・シンは雪が見たいんだったね」
「なんでそれを!?リオが言っちゃったの?」
「リオは何も。船内から飛び出す瞬間に君の想いが零れたのだよ。自覚してなかったね?」
「う……」
ジョミーはいまだに思念を操るのが苦手だ。人に思いを伝えるのも、自分の思考を遮蔽するのもまだ完全ではない。相手から伝えられることも、うっかりすると雑音を一緒に拾ってしまうことまでままある。雪が見たいとはしゃいだそのとき、うっかり少し遮蔽が外れてしまったのだろう。
「それでぼくを連れ戻しに来たの?だったら思念で呼ぶだけでいいじゃないか!なにも実体でこなくても」
思念体を飛ばすより、生身の身体でサイオンによるシールドを作りながら出てくるより、ただ呼びかけるだけのほうが疲れない。それで十分だったはずだ。
ブルーはにっこりと微笑んで、片手でジョミーを抱き締めたまま片手をすいと目の前まで引き戻す。
「これが雪」
ブルーの左手の上、サッカーボール大の球体で出来た空間の中で白い結晶がいくつも踊っている。
「これが?」
ジョミーは目を丸めて瞬きをする。白い結晶は丸いようで、けれど球と言うには少し歪で、軽やかな動きで空間の中を漂っている。
……空間の中を?
「またサイオンを使って!」
「だって君が雪を見たいと言うから。ほら、触ってみるかい?」
ブルーが力を解くと、白い結晶ははらりはらりと重力に従うように舞い落ちて、下から掬い上げたジョミーの掌に乗るとすぐに解けてただの水に戻ってしまった。
「……もったいない」
掌にスポイトで垂らしたような一粒の水滴だけが残って、ジョミーは小さく呟く。
「雪は脆いよ。ひとつの結晶ではあっという間に結合が取れてしまう。人肌に触れなくても、何かに触れるだけで……何も残さない」
ブルーの声色が少し変わったような気がして顔を上げたけれど、いつもの微笑を浮かべたままだった。気のせいだろうかと首を傾げたジョミーに、ブルーはその笑みの質を変える。
にっこりと、楽しそうに、何かを企んでいるように。
「……ソルジャー?」
「けれど今は残してくれる。君にサイオンの微調整という足跡を」
「え……?」
ブルーはジョミーを抱き締めていた手を離して肩に置き、くるりと身体を反転させるとまた後ろから包み込むようにして抱き締める。
「さあ、ソルジャー・シン。君も結晶を捕まえて、雪を作ってみようじゃないか」
「ええ!?」
「大丈夫、何も難しいことはない。まず結晶の元となるものを捉えてごらん」
「でも、空間の中に捕らえたら外と空気を遮断してしまう。十分に気温が下がらないと結晶は固まらないでしょう?」
「そう。だからその空間はシャングリラの起こす風だけを塞ぐんだ。けれど今僕たちを包んでいるサイオンのことも忘れてはいけないよ。こちらは風も気圧も気温もすべて隔絶しないとね」
「待って待って待って!」
二種類のサイオンを、それも近似した距離で使い分けろと言われてジョミーは混乱する。
「それのどこが簡単なの!?」
「大丈夫、君ならできる」
「……そう言えば済むと思ってないよね……?」
ジョミーは呆れたような声で、後ろから抱き締めるブルーの手を掴む。
「とにかく先に、あなたを船内に戻すよ。雪の結晶化の訓練はちゃんとするから、ソルジャーは部屋で寝てて」
「だめだ。僕が傍にいないと、癇癪を起こしたら君は一旦自分のシールドを疎かにして雪を作るかもしれない。僕が傍にいたらシールドを外すわけにも弱めるわけにもいかないから、細かな操作を覚えるだろう」
「そんなズルはしないよ!」
「……だったら、君が作った雪を見たい」
「だったらってなにさ!?雪を作ったらあなたの元へ持っていくよ。それでいいでしょう?」
「いやだ」
後ろから抱き締める手に力を込められて、ジョミーは自由になる足で船体を叩くように蹴って怒鳴る。
「子供みたいなこと言わないでよ!」
「いやだ。僕はここで君の雪を見る。僕を船に戻したいなら、頑張って雪を作ってくれたまえ、ソルジャー・シン」
人の肩に顎を乗せて、頑として譲らないと言い張る人に、ジョミーは唖然としてその近すぎてよく見えない顔を横目で見下ろした。
この人、三百歳を超えているんじゃなかったっけ?
呆れた思念を隠しもせずに伝えたのに、当の我侭な人は涼しい顔でまるで堪えていない様子だった。
「さあ、僕に君の雪を見せてくれ」






お話TOP NEXT



たまには元気なブルーを。
(元気っていうか子供……)