「ところでジョミー、いつまでも屋根になんていたら危ないよ。おいで」
そう手を差し出すと、片手にノートと教科書と問題集を抱えたジョミーはその手を見て、ブルーの顔を見て、それからまたブルーの掌に視線を落とした。困惑が強く伝わってきたけれど、どうにもジョミーを捕まえたい衝動には抗えない。
「キースに宿題を教わりに来たんだったね。よければ僕が教えてあげるよ」
「えっと……でも……キースのお客さんにそんなことさせられないし……」
「僕は客じゃない。キースの従兄で、今日からここでお世話になるんだ。だから客だなんて気兼ねしなくていい」
微笑みながらそう言って、ふと気づいたように僅かに手を引く。
「っと……すまない、少し強引過ぎたかな。いきなり初対面でそんなことを言われても困るだろうね」
「え……」
「少しでも早くここの生活に慣れたいんだ。ジョミーが仲良くしてくれると嬉しい」
ジョミーはもう一度差し出された手とブルーの顔を見比べた。その最初の困惑は薄れている。
「……キースの従兄で……今日から、ここに住むんだよね?」
「そう、僕は今日から君の隣人。けれど友人になれたらと思っている」
どうかなと首を傾げて見せると、ジョミーは苦笑を僅かに滲ませて差し出されていたブルーの手を取った。
「じゃあ、お願いしようかな。えっと……」
「ああごめん、まだ名乗ってなかった。僕はブルー。これからよろしく、ジョミー」
「うん、よろしくね、ブルー」
困惑を振り切ってしまうと、快活に笑うジョミーは眩しいくらいに可愛い。
まるで太陽を直視したときのように、くらくらと眩暈さえ覚えそうだ。
ぎゅっと強く握手した手を離すと、ジョミーは課題を片手に窓枠に手を掛ける。
後ろに下がってジョミーが入れるように場所を空けたブルーは、その慣れた様子に思わず笑ってしまった。
「ひょっとして毎回そこから入ってくるのかい?」
「うん。キースにはちゃんと玄関に回れって怒られるけど、最短距離の道があるのに面倒だし。屋根を歩いて汚れた足で上がるなって言うから、屋根専用のサンダルも置いてる」
怒られているというくせに悪びれもせずに、むしろキースの要望にも応えていると言わんばかりの返答に笑いを噛み殺していたブルーは、窓枠を軽々と乗り越えて床に足を着けたジョミーに言葉を失った。
Tシャツに短パンという、いかにも自宅でリラックスしている格好。惜しげもなく晒された、すらりと伸びた健康的な足に目が釘付けになりそうで、慌てて横を向く。
気恥ずかしいような、笑みの形に歪みそうな、そんな複雑な心境で口元を押さえて横を向いたブルーに気づいた様子もなく、ジョミーは慣れた様子でローテーブルに向かった。
「……いつもここには、そういう服装で?」
「服?」
教科書とノートをテーブルに置いたジョミーは自分の格好を見下ろす。
「どこか変?お昼に食べたミートソースが跳ねてるわけでもないよね」
「ああ、いや、そういうことではなくて……」
屋根を伝ってということは、家の周辺のどこからでもジョミーの素足が見えてしまうということだ。まして目的地はキースの部屋。キースと二人きりの部屋にああいう格好で……。
「何を考えているんだ、僕は」
ジョミーは男の子じゃないか。同性の幼馴染の部屋にリラックスした部屋着で訪ねることのどこに不思議があるだろう。
小さく呟いて頭を振ったブルーは、気を取り直してローテーブルに歩み寄る。
「いや、気にしないでくれ。それで、今日は何の教科を教わりにくるつもりだったんだい?」
「数学と物理。計算とかがちょっと苦手なんだ」
「ああ……キースは数字に強そうだね」
「キースは何でも出来るよ。ぼくの弟も勉強も運動も得意だし、トォニィはまだ小さいけど、大きくなったらあいつもできる男になりそうで、今からぼくは憂鬱だよ。ぼくの周りって、どうしてこうすごい奴ばっかりなのかなあ……」
カーペットに座ったジョミーは、軽く溜息をついて教科書を捲り始める。
「そう卑下したものでもないと思うけどね」
ジョミーの横に腰を降ろしながらそう言うと、じろりと胡乱な視線を向けられる。
「新しい隣人も、格好いいし勉強も出来そうな人なんだけど」
「自分のことはよく見えないものだよ、ジョミー。良くも悪くもね。学業における君を知るのはこれからだけど、容姿の話なら僕は君を一目見たとき呼吸も忘れるほど目を奪われた」
「は………」
ぽかんと口を開けて目を瞬くジョミーに、熱っぽい瞳を向けて手を伸ばす。
「柔らかそうな金の髪が太陽の光を透かして、まるで黄金の穂波のようだった」
触れた髪は思ったとおりの手触りで、ブルーの指を抵抗なく通して揺れる。
「澄んだ湖底を思わせる瞳は翡翠の輝きよりも美しい」
そのまま手を滑らせてこめかみを撫でると、ジョミーが僅かに目を眇めた。美しいと誉めた瞳が少し隠されてしまって、触れた手を頬へと降ろす。
「柔らかな肌は手に馴染むように滑らかで、その赤い唇は……」
「ブルー、お待たせしました」
半分開けたままだった扉が開いて、盆を抱えて入ってきたフィシスは、部屋に一歩踏み込んだところで足を止めた。


「あら……」
頬を赤らめて言葉をなくしていたジョミーは、フィシスの声に大きく肩を跳ねて背筋を伸ばす。
触れていたジョミーが遠のいたことを残念に思いながらジョミーと同じく扉に目を向けると、フィシスは軽く目を瞬きすぐに微笑みを浮かべて部屋に入り、手にした盆をローテーブルの端に置いた。
「いらっしゃいジョミー」
「え、あ……う、うん。お邪魔してます」
フィシスは微笑みながら頷いて、今度はブルーに目を向ける。
「キースはどこへ?あなたを置いて」
「携帯電話に着信があって、応対に出ているよ。廊下にいなかったかい?」
「そう、それならベランダに出ているのね」
納得したように頷いて、フィシスはテーブルに氷を浮かべたアイスティーのグラスを三つ置いて、盆を手に再び廊下へ向かう。
「すぐにあなたの飲み物も持ってくるから、ゆっくりしてねジョミー」
ブルーは軽やかな足取りで部屋を出て行くフィシスを見送ると、呆然とした様子で同じくフィシスを見送っていたジョミーに目を向けた。
あのままフィシスがこなければ……何をやっていたのだろう。
自分の直前までの行動の理由も、その先もわからなくて軽く首を振って気を取り直す。
「じゃあ始めようか」
「え……!な、何を!?」
「何って、勉強だろう?」
きょとんと目を瞬いて教科書に視線を落とせば、ジョミーは頬を真っ赤に染めて筆記用具を出して物理の問題集に飛びついた。
「そ、そうだった!勉強!え、えっと」
慌しく問題集とノートを捲って行くジョミーに、傍らの教科書を取ってぱらぱらと捲くる。
二年前に習った内容を軽く頭の中で整理して復習していると、ようやく目当てのページを見つけたのかしっかりと問題集を開いたジョミーの手許を覗き込んだ。
「熱力学が苦手なのかい?」
「と、いうか物理は全体的に……あの、ブルー」
「うん?何かな」
ブルーが教科書から顔を上げるのとほぼ同時に、再び扉が開いた。
「すまないブルー、待たせ…………何をやっているんだ」
ドアノブに手を掛けたまま、フィシスと同様に入り口で足を止めたキースは盛大に顔をしかめて眉間に深い皺を刻む。
「おかえりキース。何って見てわかるだろう勉強だよ」
「わからないから聞いている」
キースの眉がぴくりと跳ねて、ブルーの手のうちにあったジョミーの肩が竦められる。
「それのどこが勉強を教える態勢だ!」
鋭く指を差されても、ブルーは首を傾げるだけだ。ジョミーの隣に座り、一緒に教科書を覗き込んでいた。どこに不審な点があるだろう。
わかっていない様子のブルーに、キースは我慢ならないとでも言いた気な足取りでローテーブルまで近づいてくる。
「勉強を教えるのに、なぜ肩を抱き寄せる必要があるんだ!」
鋭く指を差されて、ブルーはジョミーを抱き寄せた手に目をやった。ジョミーを見ると、赤くなって困惑している様子は見受けられるが、嫌悪や拒絶の意思は見えない。
「別に良いじゃないか。僕のスタイルで、ジョミーが嫌でないのなら」
「お前はいつも人にものを教えるとき、そんな風に相手を抱き寄せるのか!?」
「まさか。ジョミーだからだよ」
「え、それってどういう……」
戸惑いながらすぐ傍のブルーを見上げたジョミーの声は、再び激しく開いた扉にかき消された。
「ジョミーが来てるの!?いらっしゃいっ」
跳ねるような勢いで飛び込んできた赤い塊は、勢い余ってキースの背中を突き飛ばして駆けつけたテーブルに両手をついた。
そこでトォニィも固まる。
これにはブルーも驚いた。トォニィは昔からあまり子供らしからぬというのか、ブルーの前ではしゃいで見せたことがない。
逆の言い方をすればそんなにあからさまな態度を示すことこそ子供らしいとも言えるかもしれないが、とにかくブルーと話すときとは1オクターブは違うのではないかという高い声で喜色満面だったトォニィは、今や眉を吊り上げさらながら般若のようのな表情でブルーを睨み付けている。
「……ジョミーに何してるの?」
「勉強を教えようと……」
「嘘つき!初めて会ったくせにジョミーに触るなんて図々しい奴っ!」
テーブルに乗り上げてジョミーの肩を抱いていたブルーの手を跳ね除けて、トォニィはそのままジョミーの胸に飛び込む。
「うわっ、トォニィ!」
いくら子供とはいえ、ジョミーも体格がいいほうではないし飛びつかれてはたまらない。
飛び込んできたトォニィに押し倒される形で床に転がり、後頭部を床に強かに打ちつける。
「いったぁ!」
「ジョミー!」
苦痛の悲鳴を上げたジョミーに、ブルーは慌てて上に乗り上げたトォニィの襟首を掴んで引きずり下ろすと、ジョミーの首の後ろと腰の下に手を差し入れて抱き起こした。
「大丈夫かい、ジョミー?」
「う、うん。でも、あの、あんな掴み方したらトォニィが可哀想だよ」
「ああ……君はなんて優しいのだろう、トォニィのせいで頭を打ったというのに……」
「ジョミーに触るなっ!」
後ろから背中を蹴り飛ばされた。
「ごめんねジョミー!ボク、そんなつもりじゃなかったんだ」
ブルーとジョミーの間に無理やり横から割り込んだトォニィは、隙間の狭さが原因だとばかりにしっかりとジョミーに抱きつくようにして、その胸に頬を擦りつける。
ジョミーとの間の異物にブルーは不快に眉を潜めたが、ジョミーは優しい笑顔でトォニィを抱き締めた。
「わかってる。大丈夫だよトォニィ。飛びつくのは危ないから駄目だけど、わかってくれるならもう怒らないよ」
「ジョミー……ごめんね……」
「なるほど、さすがだねジョミー。子供には叱るのではなく諭すことが大事だということなのか」
床に膝をついてジョミーの頬にキスを贈ろうとしていたトォニィは、後ろから脇に手を入れたブルーに抱き寄せられて、ジョミーの膝からブルーの膝へと移動させられる。
「な……こら、なにするんだよ!ボクはジョミーに」
「ジョミーは勉強に来たのだから邪魔をしてはいけない。どうしてもこの部屋にいたければ、僕の膝で我慢したまえ。いい子にしてね」
にこにこと笑顔で見下ろすブルーに、トォニィは目に見えて青褪めた。
恐怖でではなく、あまりの怒りで。
ギリギリと睨みつけるトォニィと、それを涼しい顔で受け流すブルーと。
膝の上に抱き寄せたりして、仲がいいように見えるのに、どこか殺伐とした二人にジョミーが戸惑っていると、家の呼び鈴が鳴った。
「叔母さんが帰ってきたかな」
じたばたと暴れるトォニィを抱き潰すほどに力を込めて腕の中に閉じ込めていたブルーが廊下に目を向けると、いつの間に部屋を出て行ったのか、濡れタオルを手にキースが戻ってきた。
「ジョミー、床に打ったところを冷やして置け」
「ああ……ありがとうキース。……まだ勉強も始めてないのになんだか疲れ……」
「すみません!ジョミーがお邪魔してませんか!?」
開けたままの扉から、一階の声が流れてくる。
キースから濡れタオルを受け取ったところでジョミーが動きを止めた。
「シロエ?」
その呟きが聞こえたわけでもないはずだが、激しい足音が階段を駆け上り、開けたままの扉が更にわざわざ蹴り開けられた。
「ジョミー!兄さん!ぼくの部屋で破壊活動しないでって何回言えばわかるってくれるのさ!?」
飛び込んできたのは、黒い髪と瞳の少年だった。ジョミーを兄と呼ぶということは、素直に考えれば弟らしい。
勢いよく飛び込んできた少年の後ろでは、蹴り開けられて壁に激突してゆっくりと戻って行く扉と、僅かにへこんだ壁をじっと見ているキースの姿がある。
「人聞きが悪いな、破壊活動ってなんだよ。ちょっと辞書を借りには行ったけどさ」
「ぼくの部屋にある改造中の機器は衝撃に弱い電子部品も多いって何度も言ってるのに!辞書を取るとき机から落としたでしょう!学校に置き勉するのは止めて持って帰って来なよ!」
「だって辞書は重いしさ……」
唇を尖らせて、けれども壊したという話に心当たりがあるのか小さく呟くジョミーに、ブルーの膝の上でトォニィが嘆きの声を上げる。
「可哀想にジョミー!心の狭い弟に叱られて……」
「これまで何度も許してきているんだから、ぼくは心が広いくらいだ!」
「シロエ」
ここにきて、ようやく思うところがあったのか取っ手の跡が僅かについた壁を一撫でしたキースが声を掛けると、シロエと呼ばれた少年が勢いよく振り返る。
「あなたは黙っててください!これはぼくとジョミーと、あとぼくとトォニィの問題です!」
「黙るも何も、ここは僕の部屋で……」
「場所がなんだっていうんですか!問題は話題の内容でしょう!?あなたはすぐに物事を形にこだわって判断するから四角四面で面白味がないって言われるんです!」
さっきまでジョミーに詰め寄っていたはずのシロエは、いまやキースの胸に指先を突きつけてそちらを壁際まで追い詰めている。
髪の色のせいか、あちらと兄弟だといった方がしっくりとくるくらいに見えた。
横で疲れたように溜息をつくジョミーに、まだブルーの腕から逃れようと暴れながらトォニィが手を伸ばした。
「可哀想に、ジョミー」
だがその手がジョミーに触れる前に、ブルーはトォニィを密かにジョミーから更に遠ざけるように身体の向きを斜めにして、ジョミーの隣にゆっくりと腰を落ち着ける。
「あの子は、君の弟?」
「そう……ぼくの二つ下でシロエって言うんだ。ああなったら長いから、後で紹介するよ」
「元気があって結構だ。あのキースにあれだけ食って掛かれるなんて、将来有望だな」
「……ものは言いようだよね」
キースに渡された濡れタオルを後頭部に当てながら弟と幼馴染の様子にジョミーが苦笑する。
「あの通り、キースとはよく喧嘩する。けど、本当は仲がいいんだよ」
「わかるよ。親しい相手だからこその気安さがあるのだろうね」
そう同意を示すと、ジョミーは何故か驚いたように目を丸めた。
「ジョミー?」
「え、あ、ううん。最初にあの様子のシロエを見て、キースと仲がいいって言って、頷いてくれる人がいるとは思ってなくて」
二、三度瞬きをすると、ジョミーは花が綻ぶように笑みを零した。
「ちょっと、嬉しいな」
本当に弟と幼馴染が大事ならしいその笑顔に、肩を抱き寄せたい衝動に駆られる。だが残念ながら今片手を外すと腕の中の暴君を押さえられないので我慢するしかない。
代わりに、その肩に額をことんと乗せる。
「ブ、ブルー?」
「家族と友達を大切にできる。そんなジョミーは眩しくてとても素敵だね」
応えはないが、上から伝わる沈黙に嫌な気配はない。ただ照れているのだろうと頬を緩めたブルーは、確かに少し気が緩んでいたのだろう。
「ジョミーにやらしいことするなっ!」
ブルーの腕の中から目一杯に背伸びして、できるだけ耳に顔を近づけて肺の底から根こそぎ息を使い切るように叫んだトォニィに、耳鳴りがするほど鼓膜を叩かれた。
「……っ」
思わず耳を押さえてトォニィに逃げ出されてしまったが、今度はジョミー本人が抱きつこうとしたトォニィの頭に手を置いて距離を取って呆れた顔をする。
「やらしいって……トォニィ……変なこと言うな……」
その頬は少し赤い。
再び首根っこを掴んで引きずり戻そうか、けれどそれはまたジョミーに叱られると耳を押さえながら顔を上げたブルーは、騒々しい部屋でくすくすと涼やかな笑い声を拾って戻ってきていたフィシスと目が合った。その手には、オレンジ色の飲み物とアイスティーが二つ載った盆がある。
「賑やかで、みんな楽しそうね」
キースに詰め寄るシロエと、ジョミーに抱きつこうとして押し返されているトォニィを見てのフィシスの感想は呑気なものだったが、ひどくブルーを納得させた。
「確かに。これを楽しいと言うのだろうね」
思わず笑みを零して、トォニィを押さえていたジョミーと目が合う。
その頬は、ぽっと火が灯るように赤く染まった。
ああ本当に……これからが楽しみだ。






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実はキースの部屋に屋根伝いで出入りするジョミーを書きたくてできた話。
あくまで二人は幼馴染で、ブルーとジョミーがお互い一目惚れ(両者無自覚)
積極性の違いは、恋に対する無意識のうちの姿勢の違いかと。