■□ Malchut □■
ロクス 「聖都侵攻」中
序
中
終
「…よし。やっぱりこっちは手薄だ。今のうちに逃げるぞ、シルマリル。」
ロクスの言葉が、少し荒い言葉遣いがこんなにも頼もしく心地よく聞こえる日が来るとは思ってなかった。
「心地よい」と言う言葉は今の状況にふさわしい言葉ではないと言うことはわかっているのだけれど、私の中には他に今の自分の感情を適切に表現できる言葉がない。言葉だけが頼もしいのではなくて、しっかりとつかんだまま離そうとしない細いけれど男性の手、そして肩を包む紫の法衣…すべてが、とても頼もしい。
私は彼に手を引かれるままに、ずっと駆け続けている。私は駆けることで疲れはしないけれどロクスは違うだろうに、彼はおそらく彼の知る抜け道の記憶を辿りながら私の手を引いて聖都の中を逃げているに違いない。
不摂生で堕落していると見せかけて影で相応の努力をする男性。口は悪いけど、配慮の裏返し。不器用で試すことでしか相手を計れない。
…私はそんな彼にいつしか惹かれてしまっていた。時々見せてくれる優しげな笑顔が嬉しかった。
そして今、私のことをただただ心配してくれているこの状況を嬉しく感じていることが…胸が痛む。
彼にとっては育った街が焼け落ちると言う災禍の中心なのに、私は守られている現実しか見ずに幸せだなどと感じている。…愚かしいことに。
「あ!?」
「シルマリル!」
つま先が石畳に引っかかり、体ががくんと前にのめる。確かに私は肉体的な運動などで疲労を感じないけれど、今は人に近い状態に受肉していて、当然肉体的な疲労はある。しかし感覚はない。
そのまま石畳に転ぶことも叩きつけられることもなく、ロクスも疲れているはずなのに立ち止まり私を支えると同時に名を呼んでくれた。
「…急ぎたいところだが少しなら時間がありそうだ、少し休もう。
僕は何とかなるが、君は女性の足だからな。」
「ロクス…ごめんなさい」
「気にするな、転んだりしちゃその美しい脚に傷が入るだろう?
…僕を守るためにそんな格好までした君に少しは報いないと。」
逃げる最中、私は自分の衣の裾をひざの辺りで大きく結び動きやすいようにまとめた。他の天使たちは軽装なのだけれど、私は丈の短い服はどうにも落ち着かなくて裾の長いそれを身につけることがほとんどで、しかしロクスはそういう私の姿を見て「天使らしい」と言ってくれた。
明らかに足手まといとなった今も、責めるような言葉を一切口にしない。
薄絹の女性に囲まれて笑う彼が、私のことを…ずっと幼い容貌の私のことを気に入ってくれたことが嬉しかった。美しいとはばかりもなく褒められて少しずつ嬉しくなっていった。
足手まといになっているとわかりきっているこの場面でも…目の毒だからなんて言いながら隠すようにと暗に言ってくれているみたいで……。
それだけではない、私のことを「花盛りの水仙のよう」と言ってくれて…どれだけ嬉しかったか、おそらく彼は知らない。
私は天使で人に対しそのような感情を抱いてはならぬと戒められているから、言えるはずがなかった。いやその感情を抱くことすら許されない。
それにロクスは私のような幼い女性は相手にしてくれない。…それでも優しくしてくれる。
彼の「3年後出直せ」の言葉に、人と同じに歳を取れたら、なんて思ってしまったなんて…嗚呼、父よ。
お許しください。でもシルマリルにはどうにも出来ないのです。
彼のためならば散ることすら厭わぬ自分の本心を、この災禍の中心で見出してしまいました。
父はもちろんラファエル様にも、目の前のロクスにも迷惑極まりない感情だとわかっているはずなのに…。
「顔色が悪いぞ。」
突然私の髪に、頬に触れたロクスの指の感触に、ハッと我に返る。
「あ、すまない。驚かせてしまったな。
ゆっくり休めと言いたいところだが、もう少しがんばってくれ。…なに、君の事は僕が守るから心配は要らない。
戦えないはずの君のあの勇姿を見たからな、男ならもう少しがんばらないとみっともない。」
「私なら大丈夫です。」
「…膝のふるえている君にそういう台詞を言わせてしまうあたり、僕もかなりカッコ悪いな…。
おぶってやりたいが、敵が現れた時のことを考えると危険だ。…行こうか。」
「はい。」
私の虚勢を見抜く男性。それを自分のせいとする。…口は悪くても優しい男性だと気づいてしまった。
初対面であれほどの悪印象、ずれがあったにも拘らず、彼が私の助力者、勇者として選ばれた理由を、今私は痛感している。彼は教皇の座に上る資格を持っている。
その力だけでない、清濁併せ呑む度量、そして責任感。自らを「汚れた」と形容する彼だけど、その奥はおそらく裸の子どものようにどこか純粋で弱々しく、しかし計算高い。
彼には幼子の頃に心にも衣服を纏わせてくれる優しい手がないままに育ち、自らを守るために自らの手で心に衣を着たのだろう。…その衣の質を選ぶことなどできないままに。
そんな彼を誰も、もちろん私も責めることなどできない。彼は身を守るためにそうして今ここにいるのだから、誰が責めても彼にとって届く言葉ではないことは明らか。器用で強かそうに見せているけど、不器用でとても弱い男性…なのに、その身を擲ってまで私を守ってくれている。
私はあなたに報いたい。あなたが何よりも大切になってしまった。あなたを愛している。
けれど私にその感情は許されていない。ならば、この身すべてを賭してでもあなたをここから逃がすことを考えよう。そう決めたけれど…
「シルマリル、この塔の途中まで上がれば、外に通じる隠し通路がある。
少々危険だが、入口はごくわずかな関係者しか知らない抜け道だ。帝国のゴキブリ連中には多分入口さえ見つけることはできないだろう。――――あと10分、耐えてくれ。」
あなたに守られ逃げ延びるこの状況を幸せだと思ってしまう私の罪はいかほどに重いのだろう?
父に問いたくてもおそろしくて問えるはずがない。
シルマリルが言葉少なになってからずいぶん経つ。
当たり前だろう、俺ですら限界超えてそれでも身を守るためにと踏ん張っている中でも聖都の空気はいつもと違って重々しくてそこらじゅうから煙と死臭が立ち昇っていて倒れそうだと言うのに、清浄なる乙女、天使という身分の彼女には束縛の鎖、手枷足枷をかけられたようなものに違いない。
それでも宙を舞い俺を導き、俺の限界を感じると力ずくで俺の体だけでも休ませるためにと意識を奪い、…代わりに俺の杖を手に、人間の姿をした獣どもに天罰を下す。
見慣れた丸い指先が透き通ってゆくあの姿、忘れろと言われても忘れることなどできない。だから今こうして手をつかんで離せずに彼女の足にあわせて逃げている。
…怖いんだ。自分が死ぬかもしれないこともそうだけど、シルマリルが消えることが怖くて仕方がない。
空から大きな蓋をされたみたいな聖都の空のどこに逃げ道があるかわからなくて、今では彼女が空に逃げる姿すら想像できない。行き場を失った天使はどうなる? 人間の男に貪りつくされるかそれともヒト以外のものに喰らい尽くされるか…俺はどっちも許せない。
俺の美しい天使を汚そうとするヤツはひとり残らず殺してやる。俺にはその力が与えられている。
シルマリルは俺がこの手で守る。
「…よし。まだいける。」
「え?」
「いや、ひとり言。」
この際怒りが気力を持たせているだけに過ぎなくても構わない。俺が倒れなければまだ望みはある。
彼女を抱えてでも逃げ延びてみせる。
この場から逃げおおせたら…俺は彼女に言いたいことがある。いや言いたいことなら山ほどあった、けれど俺はこんなだし彼女は天使だしなんだか気恥ずかしいしで言えないまま今のこの状況。
…嘘ならいくらでも吐けた台詞なのに、本気になったとたん言えなくなるなんて皮肉だな。
好きなんだ。君の笑顔を守りたくて、いいかげんな俺なのにこうして足掻けている。
この場を無事逃げおおせたら言えるかもなんて思うけど、多分きっと俺はまた言えなくなる。俺はそんな男だ、追い詰められてようやく本心を知ることができても、性根が曲がっちまってよけいなことを考えてはひねくれる。それに君は天使だから、役目だから俺にそんなこと言われても困るだけだろうから…今までももしかしたら、って何度か思ったけど、そのことを思うと、自分のことなのにいつもうやむやに終らせていた。
けれどとりあえずはっきりしたのは、俺はなんだろうと自分のためにしか行動できない人間だ。
教皇庁のため、国のため、世界のため…どれを考えても行動を起こせるだけの説得力を感じられないけど、俺の身のため、そして好きな女の子のためならば今のこの状況だけで火を見るよりも明らか。
俺は好きな女の子のためなら何でもできる。そして今シルマリルのためなら何でもやれる。
明日また笑ってくれるなら、俺は今日今この時必死で足掻いてみせられる。
「シルマリル、走れ! 入口は確かこの上の階だ!!」
「はい!!」
焦げ臭い空気が熱風に煽られてここまで上がって来るけれど、もうすぐだと思うとそれさえも我慢できる。シルマリル、一緒に逃げよう! 君が天使でも構わない、俺は君に言いたいことがたくさんあるんだ!!
「――――――!」
階段を上がり切った所で吹きつけてきた熱風に思わず風上を見ると――――……
「聖なる都……」
燃え堕ちる聖都。赤い業火が聖なる都を飲み込みすべてが揺れて…いや揺るいでいる……。
「教国の象徴が……」
崩れる大聖堂。
「燃えている………。」
俺の育った街が………。
「ロクス……。」
シルマリルの呼びかけは、燃えさかる街が発する轟音と吹き上げる熱風にかき消されてロクスの耳には届かなかった。
「僕は…………。」
自分の放蕩の末の崩壊劇。それは己の国、宗教、教国の根幹を揺るがした。僧籍に身を置く者としての自覚だけは保っていた彼にその罪がいかほどのものか、それを思うだけでシルマリルの胸は心臓までつぶれそうなほどに苦しくなる。
他者の痛みを己のものとする天使の慈悲は、時に彼女を追いつめるほど。今もそうで、目の前で呆然と焼け落ちる風景を眺めるばかりの男を魅入った罪な慈愛を内包しつつシルマリルは泣き出しそうに瞳を揺らしている。
「ロクス!通路の入口はどこですか、教えてください!!」
それでも。シルマリルも強くなった。ここで呆然と焼け落ちる聖都を眺めたところでどうにもならない、できないのならば自分たちのやれることをやるために、まずはこの場を離れなければ。ロクスの受けたショックのほどはわかるからとシルマリルは涙をこらえて自ら動き出す、そして彼女のその声にロクスも歯を食いしばり、炎が生む灼熱の向こうの闇の中に視線を向けた。
「どけ、仕掛けがあると聞いたことがあるから………くそ!
ゴキブリども、開けられないからと無茶してくれてる…!!」
炎に照らされて夜の闇の中でもロクスには隠蔽の痕跡が見えたらしく、隠し通路の入口はすぐに見つかった。しかし彼の言葉の通りにあちこちが崩れてしまっていて、おそらく剣の切っ先あたりをねじ込んだのだろう、指先をかけて動かせそうに見えるくぼみも役に立ちそうにない。
万策尽きたのか――――――シルマリルが焦りを隠せずロクスの横顔を見た瞬間、彼は数歩下がっておもむろに足を上げて勢いをつけ、さらに全体重を足の裏に乗せてそれを蹴り飛ばした。
一瞬時間が止まり、反応のないそれを見てロクスはさらに自棄気味に二度三度と蹴りつけて…
「……………あ!」
「…っし、さすがはゴキブリ、見つけたことは褒めてやるが虫並の知恵しかないと見える。
さ、行くぞシルマリル。これで街から出られる。」
「はい!」
彼は自棄を起こしたわけでもなんでもなかった。剣で壊そうとした形跡があったのとは逆、おそらく蝶番がある側を蹴飛ばしてそれを壊した様子で、向こうにはぽっかりと深い闇が見えている。
吸い込まれそうな闇ではなく外からの清浄なる空気、大地のにおいがする風が吹き込んできたあたりから察するに彼の言葉に間違いはないだろう。
長い夜が明ける前に、命がけの逃走劇は終焉を迎えそうだった。
帝国の目的は、聖都陥落。教国の掌握。そして教皇自身の命。
最後の目的は遂げられなかったけれど、…聖都が、神に守られし地が落ちた。
シルマリルは彼女の勇者、命を狙われた教皇候補と共に川向の町へと逃げ延びたけれど、一夜明けて川向から風に乗ってきた空気に、それにふらふらと誘われながら駆け込んだ宿から表に出ると、眼前に開けた光景に愕然とした。
焼け出された難民。
川原で荼毘にふされている山積している屍たち。
そして廃墟と化した聖都の残骸。
人間の業をまざまざと見せつけられた幼い天使は、己とその勇者、いや愛した男の無事を無邪気には喜べなくなった。彼女の慈愛は彼女自身を追いつめる。
それでも教会、神の降りし座するための建物は静かに佇んでいる。シルマリルは罪を背負いし身であることを忘れて質素な教会にふらふらと足を踏み入れて、降り注ぐ朝の光の中誰もいないそこで十字の前に跪いた。
「父よ…………。」
もう祈れない。今は祈れない。何から祈ればいいかすらわからない。
「これが人間の業なのですか…」
祈ろうと祈ろうと己のそれは弱々しく無力だと気づいてしまった。
「ロクスの罪はそれほどまでに深いのですか……」
己の祈りで守れたのは、己の勇者ただひとりだった。
それも天使の祈りの力ではなくて彼を守りたいと言う気持ちだけで、天使の博愛の精神を捨て去ってのもので――――
「ならばなぜ私を遣わせたのですか…!
戦う力すら与えられていない私を……!!」
燃えさかる聖都でさえ泣き崩れることはなかったシルマリルが泣き崩れる。
戦う力が欲しかった。ミカエルやラツィエルのような力でなくても構わない、ささやかでもいいから己の手で運命を変えるだけの力があれば、もっと違う結果をもたらせたかもしれない。
シルマリルは今己に与えられた役目に、そして父の御心に疑いを抱いてしまった。まるで人間の少女のように泣き崩れて、そんな彼女の上にステンドグラスから差し込む朝の光が落ちて、皮肉にもどんな宗教画よりも美しかった。
ロクスは今泥のように眠っている。彼女の嘆きを知る由もない。
「…誰かいるのか?」
年老いた呼びかけに、シルマリルがハッと我に返り顔を上げる。
「娘御よ、ここにもじき帝国軍が来る。我らも今から町をあとにするところだ、お主も共に来るが――――…っ!!」
人影はゆっくりと入口から呼びかけながら入って来た。しかしシルマリルの姿を見るなり言葉を失い、初老の人物は一瞬放心して直後まだ立ち上がれずにいる彼女に跪いた。
「おお…天使よ……お許しを……!
我らの信仰をこの手で守り仰せなんだ…父の御心を守れぬ罪、如何様にもお受けしましょうぞ…!!」
そう言われて、唐突な頂礼を受けてシルマリルは思わず己の背を振り返る。無意識とは言え大きく広げた翼はいつもより力強く、…これが父の答えなのだろうか?
その力を一瞬だろうと疑い意図を責めた娘に、父は寛大な御心を示しているのだろうか?
自分はどう言えばいい? この老人の罪ではないことは明白に知っている自分は、なにを…。
シルマリルは己に頂礼を捧げられる資格などないとしか思えなくて、老人の皺だらけの疲れた手に己の手をそっと重ねた。
「…顔をお上げください、司祭。」
彼の姿は神に仕える男のそれで、シルマリルは穏やかにそう語りかける。己には崇め奉られる資格などない、何も救えなかった、すがられる側でありながら何もできなかったから…頭を下げられては困る。
シルマリルの声に応えてようやく顔を見せた男の顔に、彼女の青い瞳が驚きに丸くなる。
「おお…なんと美しい…幼き天使よ、父はお怒りなのでありましょう。
人界の些事で父への信仰を揺るがすなど、我らの力と祈りがあまりにも脆弱だったのです…。」
副教皇。ロクスの後見人。
「それは」
「罰はすべてこの老いぼれがお受けします、どうか…どうか教国と父を信ずるすべての民にお慈悲を…」
「…司祭、父はすべてをご存知の上でお許しになられます。
どうかお立ちください。祈りはこのような幼い私ではなく、父に捧げてください。」
彼らの前ではそんなに幼かろうとシルマリルは神の御使い。嘆いている姿を、弱々しい姿を見せてはならない。彼女は老人の手を取り自ら神の御使いとして立ち上がる。
彼はすべての罪を自ら天使の前で背負おうとしている。それは半端な覚悟でも、まして口先だけの詭弁ではなくて、シルマリルを見て救いを求めながらも引き換えにと己の身を差し出すつもりなのだろう。
…おそらく、ロクスの罪も。
「心優しい天使よ、神の怒りに打たれることを躊躇はしませぬが、このような老いぼれにも心残りがあります。
どうか、どうか…幼くも美しい天使よ、ロクスを…次なる教国の象徴を…彼の無事だけがこの老いぼれの心残り、あの者がどこにいるか、無事でいるかを知りとうございます。」
彼は言いながら涙を流していた。
ロクスの心情を思えば沈黙が答え、しかしこの老人の姿を見ればそれが正しい行動ともまた思えない。
愛する男の心情か、それとも天使としての振る舞いか――――シルマリルはまた選ばなければならない。
彼女は咄嗟に選びきれなくて、無意識に昨夜預けられた彼の小さな十字にそっと触れた。
…まるで彼に問うかのように。
「……天使よ!あれは天使と共にあるのですか!!」
そして、老人も彼女の触れた十字を見ていた。
人間の信仰するものを肌に触れさせることを許されぬ天使だから、シルマリルはロクスから預けられた十字架を己の腰に巻いている金鎖に厳重に巻き込んで下げていた。それが揺れてきらめいた様子に、天使の指が触れた様に、副教皇は安堵の笑顔を見せながらも泣き崩れる。
「司祭、あなた方の若き象徴は無事に聖都から逃げ出しました。ですからもう嘆かないでください。
父はあなた方の祈りが足りぬなどとは思うてもおられません。」
シルマリルの疑念も罪も許し翼に力を与えた全能なる父が、彼の罪を許さないはずなどない。彼女はそう確信していて、疑わない者の言葉は常に聞く者に力強く響く。
穏やかに語りかけながら、シルマリルが突然聞こえた激しい足音にハッと顔を上げた。
「司祭、私は相応の力持つ者にしか見えません。あなたはそちらに隠れて!」
幼くても神の御使い、ここにも帝国軍が来るかもと逃げ延びようとする彼らの言葉を忘れていないシルマリルが凛とした声で座席の下を指して、副教皇もその導きに従い言われるままに身を隠す。
「――――良かった…いなくなったかと思った。」
しかし姿を現したのは、同じく彼女にすがるロクスで、足音が派手だったのはその焦燥のため。
捜し求めていた当人の姿を見るなり安堵の微笑をこらえきれずに見せながら、ロクスは佇む己の天使に足早に歩み寄る。目の前まで来て立ち止まった彼の表情は疲れきっていて、昨日の厳しい逃亡劇の名残、彼の端整な表情、優しげな目の下にははっきりとくまが浮いている。
「申し訳ありません、起きる前に戻るつもりだったのですが…」
「こういう時だ、離れないでいてくれると嬉しいが…いや、気にするな。
僕のわがままだ……。」
「ここはまだ彼らの気配がなかったので、少し油断はあったと思います。ごめんなさいロクス。」
「そうか…君は感じられるものな。
てっきり僕を置いていったかなどと思ってしまった…。」
「置いて行くなど、そんなことはしません。
さ…もう少し眠ってください。あなたのご自慢の花の顔が台無しですよ?」
「この際そんなのどうでもいいよ。僕の顔など君の前には形無しだ。
それに、暢気なことは言えなくなった。帝国軍は僕のことをあきらめていないらしい。
今なら追っ手もかかっていないし逃げるのも容易いから。」
「わかりました。宿は」
「引き払ってきた。ちゃんと勘定も払ってるから心配いらない。」
「そうですか。それでは行きましょう。」
シルマリルは言い終わると純白の翼を広げて2、3度羽ばたきつま先がふわりと宙に浮いた。そして落ち着いた足音を立てて歩き出したロクスについてゆく。
「…この町の人」
「ん?」
「一度全員町を離れた方がよさそうですね。
無人の町を襲うほど彼らも暇ではないでしょうから。」
その言葉は、さっき隠れた副教皇に当ててのもの。しかし語りかけられたロクスには当然ピンと来ない。
「それはそうだが…その辺のヤツに声をかけても無駄だぞ、僕の悪評はアララスだけに止まってない。
僕が何を言おうと説得力はないだろうな。君の名を出して天使様のお言葉だとか言っても笑われる。
…こんな日が来るのならもう少し真面目にしておけば良かったよ。」
「大丈夫ですよ。そんな気がします。」
「そうか? 君がそう言うのならばそうなんだろう。…考えるのも疲れた、今はゆっくり眠りたい。」
ロクスの言葉は、おそらくこの戦渦に巻き込まれた者すべての率直な感情。
様々な思惑が交錯した末に聖都は落ちた。しかし教国の象徴は今こうしてここにいる。
そして実質的な現在の頂点は図らずも天使の恩恵を耳にしてその地位を確固たるものとする。
神の王国はここに落ちた。落としたのは罪深き人間ども。
楔を失った人界は更なる混乱に向かい、すべてが激しく動き出す。
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2008/05/11
長かったですが、「Malchut」、終了です。
マルクトとはカバラの「知恵の樹」の10のセフィラのひとつで、「王国」の意味を持ちます。
フェイバリットディアはクリスチャンカバラをモチーフにしたと思われるものがそこかしこにあり、わかりやすいあたりではロクスのレベル3必殺技の「アイン・ソフ・オウル」――――「無限光」があります。
それに基づいてのものか、教皇庁の組織なども正教に則っている節を多々見受けるため、一応そのあたりを参考に話を書いています。
素人創作ではありますが、まるっきりのでたらめではないと言うか、辻褄ぐらい何とか合うようにと四苦八苦している結果がこれもので。
しかし素人だけあってもうなにがなんだかです。汗。
初めて女天使視点で話を書いてみました。
ロクス視点と女天使視点、そして通常の文章と忙しい構成になりました。
もう少し余力がある時にリベンジしたいような気もしますが、多分書き終わったら「昔の文章焼き直すより今書ける物を書きたい」なんて思うんだろうなぁ…。
ゲームのストーリーに沿った話を書ける方は、それだけで尊敬します。
私にはムリムリの無理だと言うことを見事に露呈したように思えてなりません。
ロクスは書けば書くほど難しいなぁと思う次第です。
基本的に優しい男だとは思うのですが、それを表に出してもわかりにくいと言うか、わかりやすかったらそれはそれでわざとらしい。
ただ、柔和そうな見かけにそぐわない激しさとか荒っぽさなどの男性らしさを備えているなと言うのはプレイしていて思いました。
無印&円環のディアンとどこか似た立ち位置にありながら、もっとこじれている。笑。
端的に表したら「気難しい」が一番しっくり来るみたいです。