■□ 楽 園 □■
×ロクス  1年目の春ごろ
 

 ……頭が、痛い。
激しい頭痛と肌寒さで目が覚める朝が清々しい訳がない。それでも朝ってヤツは毎度毎度容赦なくまぶしくて、俺は仕方なしに重い体を起こした。
 頭が痛い。吐き気もする。口の中が気持ち悪い。
視界に入る波打つ灰色の髪、自分の髪さえ訳もなく気に触る、それが二日酔いの朝。
今まで何度も繰り返した、ある意味いつもの俺の朝だ。
頭が痛いだけじゃない、肌寒かったのが起きたことで一気に寒くなって、俺は堪えきれない欠伸を我慢せずにしながら、ベッドのそばの椅子の背にかけていた普段着に手を伸ばす。
「………………ん?」
 指先に、冷たい木の感触。左右に動かしても布の感触はまったくない。椅子を見たら、白い布がきれいに折りたたまれて席の上に置いてあった。
 そしてやっと思い出した、俺はひとりじゃなかったこと。思い出したら余計に頭が痛くなった。
白い布は白い法衣、俺の普段着。そう、俺は僧侶。……もっとも、敬虔なって言葉とは縁のない生臭坊主。
二日酔いとして次の朝まで残るほど飲んでるってこの状況が、祭礼なんかで口にするような量の酒じゃないことをわかりやすく物語っていると思う。
それだけじゃない、椅子の背じゃない、座席の上にきちんとたたまれた白い法衣が俺の破戒ぶりを何よりも語っている。
 記憶があいまいな酔っ払いがそんな几帳面な真似する訳ない。ひとりじゃない俺の連れ、すなわち女が、俺が寝た後にでもやったんだろう。……あの女ならやるに違いない。
 そんな俺なのに、どこでどう間違えられたのか、神のみ使い、天使様が舞い降りてしばらくたつ。
普段の俺なら天使様のご降臨とか言われても眉に唾でもつけるところだけれど、見た瞬間、どういうことかこれっぽっちも、毛の先ほども疑わず信じちまった。
あの年明けの寒い朝、俺の目の前に舞い降りた女の姿の天使様は、人間の女とはまるで次元が違ってた。
 そういえば、天使様のお姿が見えない。
俺みたいなだらしない坊主と違って、天使様は背負わされたお役目の大きさに見合う生真面目さんで、生真面目に羽根がついて飛んでるみたいなもんだからそりゃ朝だって早いだろうけど、にしても……。
「こんな田舎町でどこに行くってんだか……」
 俺はまた欠伸をしながら寝巻きを脱ぎ、きれいにたたんであった法衣を広げて腕を袖に通した。
そして冷たいそれの感触にふるえながらズボンをはいて、歩きながらホックを留める。
きれいに入ったたたみ跡が、顔ばかりの生臭坊主をいっぱしに見せていることを承知の上で、今日も俺は「教皇候補」として放蕩交じりの振る舞いに興じる。
表はきっともっと寒いだろう、俺はもう一着の普段着の、紫色の上着を羽織って宿の部屋を後にした。



 いくら俺の朝が遅いって言っても昼にかかりそうなまで寝てられるほど神経は図太くない。小さな村の活気から察するに昼まで3時間、いや2時間と半分ぐらいだろう、季節は春も半ばにさしかかろうってのに、空気には冬の冷たさが残っていた。

「このあたりでご婦人が行きそうと言いますか、喜びそうな場所はありませんか?」

 寝ぼけ面を切り替え女向けの笑顔をいつものように見せながら宿の女将に聞いてみたら、意外な答えが返ってきた。
のどかな山間の村の中を、俺は村はずれに向かって歩いてる。村の向こうに見える山裾は白く、いや薄紅色に霞んでいた。
それが何かを聞かされて、俺は表向き微笑みながら内心では呆れ返っていた。

「村はずれの果物畑ですかねえ、今の時期は杏の花がそれはもう見事なんですよ、司祭様。
 私が娘の頃もよく出かけたもので。」

 台詞の最後なんて覚えちゃいない以前、聞いてもいない。
あまりにもお決まりの行き先に、俺は頭の中であきれちまってた。
「女ってヤツは」
 ……それは今まで何度も思ったけど、ほとんど口に出したことのない決まり文句みたいなもの。天使様って言う人間とは明らかに違う種族のはずなのに、中身はやっぱり女だってことなんだろう。
女ってヤツはことあるごとに特別の証みたいに花をせがむけれど、あいにく俺はそれに乗っかった記憶はない。つまりは、女遊びは派手でも本気にはならない女の敵。
女に囲まれることが多いから男にもにらまれてる。
そのことを別に悪いとは思ってないけど、開き直っているつもりもない。そういう駆け引きだけ楽しみたい、って人種は確かにいるし、俺は多分それに当てはまるんだと思う。
……というか、本気で誰かに惚れた記憶がないんだからどうにも理解できそうにない。
こんな俺を善意の塊の天使様に理解できるとも思ってないから、特に彼女に媚びへつらいもしなければ、理解を求めて説明もしていない。
 そう、彼女は人間の女の姿をしてるけど人間の女じゃないんだ。どんなに美人でも意識したところで無駄でしかない。
なにより彼女は「女の姿をしている」と言っても、一人前には程遠い少女の姿の天使様だ。中身は確かに天使らしいというか達観してるところはあるけれど、見かけがどうにも綺麗なだけのお子様で、俺が意識できそうな年齢には達してない。
……まあ、2〜3年後はどうかわからないけれど、天使が人間と同じ速さで年を取るとは思えないし、根本的な話、この大陸にはそんなに残り時間がないらしい。だから彼女が遣わされて俺たちを通してこの世界とやらに干渉することになったらしいけど、天使も万能じゃないらしく、俺たちはとりあえず目立った災厄とやらを場当たり的に潰して行くしかないらしい。
都会育ちの俺が辺鄙な山奥にいる事情もその辺だったりする。
 不思議なことに、都会の喧騒や華やかな女たちが恋しいと言うことはなかった。
元からそうだ、俺は女遊びも博打も酒もそれは派手なんだけど、なけりゃなくても平気でいられる。
右も左もわからなかったガキの頃に神学を学べと言われれば勉強して相応に身につけたし、今度だって化け物と戦うこともあるから腕を磨いとけと言われたからと死なない程度の護身術を身につけることもできた。
 要するに、俺は器用貧乏ってヤツだ。頭もそこそこ、腕も弱くない程度。最高の教育を信者の布施で施されたから、平民出のくせに礼儀作法も年の割には一人前。
その中でも一番目立つのは、恵まれた背格好とこの顔だっただけの話。
……正直な話、俺自身、自分がどうしたいのかと言うものを捨てちまってあきらめちまって以降、無力な自分って境遇も実際に何もできない俺の存在の小ささも嫌いになっちまった。
 そんな俺に何ができるって踏んで、あいつは声をかけてきたんだろう?
あいつも他の連中と同じ、「教皇候補」の肩書きだけで俺を選んだんだろう……そう思えば多少わからないことだろうと都合よく片付くから、俺はいつもと同じに自分の中で片付けることにした。

 薄紅色の雪が舞う。
いや、いつの間にか春の陽気であたためられた弱い南風に、杏の花びらが舞い踊っていた。

 その真ん中に小さな木箱、それに腰掛けている翼のある小さな背中。花びらが舞うぐらい、俺の前髪が揺れるぐらいで肌には感じないくらい弱い風しか吹いてないのに、上等な蜂蜜の色に似た淡い黄金色、いや日差しが透ける時みたいな淡く少しくすんだ金髪はふわふわ揺れている。多分肌寒い朝からいたんだろうけどやわらかそうな風合いの若草色した衣は細い腕を包んでいなくて、彼女が人間じゃないことを俺に不意に思い出させた。
こんな完成されちまった、非の打ち所のない人間の女がいたら、単純な話、怖い。
 これが俺の天使。戦う力を持たないたおやかな乙女の姿の天使様。
シルマリルと言う名は聖典に記されていない。
「これは天使様……素晴らしい花吹雪ですね。」
 俺は人の次元にいない美しい彼女にふさわしい声色で呼びかけた。言い終わるより先に振り向いたその表情はまさしく美貌と称するにふさわしくて、杏の花吹雪と同じ薄紅の肌に蒼い瞳、少し濃い目の紅色の唇と、付け入る隙が見当たらない。
「そうそう、昨夜僕が脱ぎ捨てていた法衣をたたんでくださったのは天使様でしょう?
 人間風情の服を丁寧にたたんでくださるなんて」
「余計なお世話かもしれないとは思いましたが、皺のない服を着ると気持ちがいいですから。」
 寝過ごしたからという理由だけで、失礼にも挨拶も口にせず皮肉交じりの俺の台詞を素直に受け取る、まるですれてない天使様。天使だから人間できてる……ってったら言葉もたとえもおかしいんだけど、俺は時々この気性を「気立てのよさ」と間違えそうになる。
残念ながら、俺はこんなに気立てがいい女に縁はない。
振り向いた笑顔だって俺の作り笑いとは明らかに違う。薄紅色の花吹雪にふさわしい笑顔だ。
「起こさないでいてくださったのですか?」
「帰りが遅かったようですから。それに、あなたが依頼を素早く対応してくれたことで時間の余裕もできましたし、なにより被害が大きくならずにすみました。」
「ご褒美、と言うことなのですね。」
「言葉は悪いですけれど、休息は必要ですから。」
 ごまかす代わりに舌でも出しそうなその言葉に、俺は思わず口元を緩めていたらしい。シルマリルは一瞬間を置いて、今度はにっこりとまぶしく笑った。
シルマリルと言う天使は体は細いんだけど雰囲気がやわらかいと言うか全体的に丸みがかっててふっくらしてて愛嬌も申し分なくて――――本当、薄紅色の花吹雪にふさわしい笑顔だ。
 彼女は生真面目だけど、口うるさいところはあるけれど、懐が深いというか意外に寛容だったりする。俺の放蕩だって出会ってまもなくに、酒場に誘っていつもと同じに女はべらせてその現場を見せつけてと先手打って牽制してみたけど、嫌な素振りは見せたけど強く干渉はしてこなかった。
自分の勇者に選んだ男が半裸に近い女たちを、法衣のまま両腕で抱えて下品な酒を飲んでた姿を見ても嫌な顔だけですませた天使様らしく、遅くまで飲んで次の朝二日酔い、ぐらいでは動じるタマじゃないらしい。
単に世間知らずなのか大物なのか、見かけによらず肝の据わった片鱗も何度か見せられた。
……この鷹揚なお嬢様の人格は嫌いじゃない。
「しかし僕としたことが……天使様をおひとりですごさせ退屈させたなんて。」
「退屈などしていませんから気にしないでください。あなたこそゆっくり眠れましたか?」
「いえ、そのようにお気遣いいただかなくても」
「気を遣っているわけではありません、ほら、見てください。」
 俺のおべっかに、彼女はそう答えながら木箱から腰を上げ立ち上がってひらりと小さな手を翻すと、その仕草に応えたみたいに吹いたひときわ強い風が薄紅色の花吹雪が巻き上がった。
それは天使の奇跡と言うにはささやか過ぎるし目に見えて役には立たないんだけど……
「こんなすごい花吹雪は天界では見られませんし、綺麗なだけじゃなくてとてもいい香りがしますし。
 丸一日眺めてても多分飽きないと思います。」
 地に足つけて立ったシルマリルの小さなことと言ったら、俺は彼女と出会って数ヶ月、同じ大地に立って並んだことがなくて存在感の大きさにばかり目が行ってて……だけど彼女は本当に小さくて…………。
「ロクス?」
 小首をかしげた仕草は少女そのもののくせに、俺の名を呼ぶ声の優しさや響きのよさは天使のそれで。
卑怯にも天使様は男の弱みにつけ込んで跪かせるのか?
それともシルマリルと言う女が生まれつき持ってる魔性ってヤツなのか?
女の魔性に取り込まれない惑わされないのが俺の強みだと信じていたのに……!
「どうかしましたか?」
「あ……いえ、思いのほか……天使様は小さかったから…………ッ」
 最後の方は、無様な自分に気づいた、自分自身への舌打ちだった。けど天使様には聞こえなかったかそれとも聞こえないことにしたのか、彼女は困ったみたいに笑うばかり。
薄紅色の花吹雪の中の困った笑顔が、俺の目に鮮やか過ぎて――――目が痛い。
「私は幼い天使ですから。私こそ最初のうちは驚きました、あなたもそうですが、人間の男性は背が高くて、見上げるのがつらそうだからとついいつも飛んでばかりいて。」
「天使様も成長するのですか?」
「生まれたときは赤ん坊の姿ですよ。今の私は……人間の女性で言えば少女期でしょうか。
 あなたから見たらとても頼りなく見えているのでしょうね。」
「守るのは男の役目です。天使だから強くあらねばならぬ、などとは聖典にも書いてはありません。」
 ……そこまで言って、俺はあわてて口をふさいだ。何やってるんだ、いくら女に対しての礼儀と言うよりもはや挨拶同然とはいえ、天使を口説くなんて……こんな小娘を口説くなんて!!
案の定シルマリルは毛の先ほども喜んでない、多分、いやきっと口説かれたとも思っちゃいないだろう。
こいつはそういう女、鈍いと言うかなんと言うか、男の思惑なんて都合よく無視してくれる。
下手に自分に自信なんてのがあったりしたら、間違いなく赤っ恥かかされる。……くそっ、なんてやりにくい女だ…………!!

「……ありがとうございます。」

 その言葉も、もう俺の耳には入らない。手管が通じないことをわかってるのに、まるで惚れちまったみたいに無意識のうちに口説いてたのがどうにも悔しくて悔しくて仕方なくて……こんな小娘に、この俺が振り回されるなんて、そんなの考えたこともない。
花吹雪の中で天使様を口説くなんて、ありきたりな三文小説じゃあるまいし!!


 ……思えば、この時俺はすでに深みにはまっていたんだろう。
逆らえない威圧感持つ天使様じゃない分、シルマリルと言う幼い天使は別の存在意義で人間を魅入り従える。
俺は俗っぽかったからこそ囚われちまったに過ぎなかった。
 


2009/04/03