■□ 楽 園 □■
×ロクス  ロクスED後
 

 今年も、俺の手のひらに花びらが飛び込んだ。
風に吹かれて舞い上がってそれが見事に踊る様は毎年変わりはないけれど、環境、世界は刻一刻と変化する。
 世界は劇的に変化した。遊びが過ぎてとうとう勘当食らったろくでなしの俺も、天使に拾われたことがきっかけで、始祖エリアスの再来、なんて耳がかゆくなるような賞賛を得ることになった。
今の俺は僧侶で教皇候補、災厄を打ち払いし始祖エリアスの再来、そしてそう遠くない未来に『候補』が取れて『教皇』になる。
ロクス=ラス=フロレスって名前に、いくつも肩書きが乗っかっている。
 去年の今頃、あんなに先が見えないだなんだと泣き言ばかり並べるほど追い詰められてたのに、まさか俺が、俺と幼い天使のふたりが、千年前にこの世界を揺るがした伝説の中に語られた災厄、天竜と悪魔を打ち払うことになるとは思ってもみなかった。追い詰められてたけど、それは得体の知れない何かに追いかけられている焦りで、白状すれば自分が世界ごとなくなる、死んぢまうなんてあたりは実感がなかった。
 千年前に同じようなことが起こった時、立ち向かったのは三人の勇者と一柱の天使だ。
剣士ヴァスティール、聖女ディアナ、そして俺が生まれ育ったエクレシア教国を建国した初代教皇エリアス。冒険の終盤でようやく知ったのだけれど、勇者たちを導いたのは聖典に名を記されているあの大天使ラファエルだったらしい。
すべてが伝説として、千年たっても語り継がれてる。さすがに俺の認識が物語るように今では色褪せちまってるけれど、それでも教国の聖職者として在籍してる俺にとって、初代教皇エリアスの名は大きい。
 けど、千年後に繰り返された伝説の貧弱なことと言ったら――――当事者なんだけど、卑下するわけじゃなくずいぶん規模が小さくなったもんだと思う。三人もいた勇者だけど、候補は確かに俺も入れて七人いて全員が勇者として活躍したけど、結局彼女に選ばれた同行者は俺ひとりだったし、その天使様だって大天使じゃなく幼い少女の姿の天使様だ。
天使が頼りない分、勇者の頭数を増やして帳尻合わせた感が拭えない。
天使シルマリルは大天使ガブリエルみたいにいずれ聖典に記されたのかもしれないけど、それにしてもおっとりしてて気は弱いほどで、いくら慈愛の天使と言ってもこっちが不安になれるほど頼りないことこの上なかった。
後の方ではその分は俺が何とかするもんだ、なんて、開き直ったと言うか惚れた女を守りたいなんて一端に腹をくくった俺がいたけど、今考えれば本当に無謀と言うかなんと言うか、いい方に転んで本当によかった、運がいいってつくづく思う。
 ……伝説は大円団の結末を迎えたけど、俺個人の話としてはみっともないとしか言いようがない。
確かに勇者として決着をつけたってご立派な男っぷりだったけれど、裏側では、いい年の大人なのに、カッコつけなのに、みっともないことに俺は好きになった小娘に当り散らして、挙句の果てに本気じゃないふりして押し倒すなんて大それた真似までしでかした。
もちろん未遂だ。天使様を押し倒して何かするなんてそんなこと、いくら俺がろくでなしでもできやしない。あの時の彼女は少女の顔した天使だって思い知らされただけで、自分がひどく惨めに思えて、その場では追い払う口ぶりで遠ざけて、それ以上みっともない姿を見せないようにって、それが精いっぱいの虚勢だった。
こんな俺だけど、遊びで何度も女と夜を過ごした俺だけど、未遂ですんだにもかかわらず、女を押し倒したことをあれほど後悔したことはなかった。……そして、これからはそんな思いをすることはない。
そんな思いをする羽目に陥るわけにはいかない。
 今年の花吹雪は、風が冷たい。俺の上着も厚手の毛織物で、それがなかなか手放せない。
まるで天竜が暴れた爪痕がこの世界に残ってるみたいに春はなかなか来る気配がなくて、それでもすべての命は確かに去年の春より活気づいてる気がする。
俺の気のせいに過ぎないかもしれないけど、今年の薄紅色は去年より濃い、そう見えてならない。

 そして薄紅色の真ん中に、去年と、その前と同じに小さな背中が見えた。
少しくすんだ金色の髪、春直前の日差しの色の髪。その背中に、純白の翼はない。

 それを見つけたとたん、俺は足音を殺して、ゆっくりと、悟られないよう、気づかれないようにと近寄る。今日は風が強くて杏の枝が揺れてざわめいていて、金の髪は振り返らない。
「シルマリル。」
 小さな声で名を呼ぶのと細い肩に手を置くのはほぼ同時。ガキみたいに後ろから驚かせて反応を見たいなんて名うての女たらしのやるこっちゃない、けど――――案の定、いやそれ以上の驚きようで、俺の天使様の小さな体がはねた。それから先は考えるより先に笑い声が出て、俺は小さな体を軽く持ち上げながら、彼女が腰を下ろしていた、椅子にするのにちょうどいい木箱に腰を下ろした。
そう、ガキがいちゃつくみたい、彼女を股の間に座らせたまま背中から抱くみたいに。
でも抱きつかないのが一応のプライド。腕の中にシルマリルの存在を確かめながら目を上げると、薄紅色はもっと鮮やかになった。
上着の上で散る細い髪が、彼女を手に入れたなんてつまらない満足感を俺にもたらす。……俺もかなり末期的というか、本当シルマリルにベタ惚れだ。
時々、いやしょっちゅう恥ずかしくなるくらいにひどい。
「今日は寒いな。君のほっぺたも杏の花どころか桃の花並みに赤くなってるし。」
「いきなりあなたからこんなことされたからです。
 誰かに見られたらどうするんですか」
「見られたからって叱られるもんじゃないだろ。僕と君は別に隠すような仲じゃない。」
「そういう問題じゃありません。まったくもう……」
「ははは、お小言いいなのは人間になっても相変わらずだ。」
 俺はとうとう堪えきれなくなって、シルマリルを背中から抱きしめた。……いいにおい、花のにおいとオレンジと……オレンジは多分精油だろう、シルマリルは花や草花、植物がものすごく好きで、よくその精油を扱っているからそのにおいだ。
そういえば昨夜、オレンジとクローブの虫除けをもらったってはしゃいでたっけか……抱いて寝てたら今と同じにおいがした。
「……人間になって、不便はないか?」
「ん、もう……毎日同じこと言ってますよ、ロクス。
 不便どころか、毎日楽しく過ごしています。何の芸もない小娘に、皆さん本当に優しくしてくれて」
「芸がないって思ってるのは君だけだ。君の薬草とハーブの知識は下手な医者顔負けだって評判だよ。
 僕の手のひらはこのとおりふたつしかないけど、あの騒動の後だ、病人も怪我人もひっきりなしで……君がいなかったら待ってる間に大事になる患者もいただろうな。」
 言いながらじゃれつきながら、俺はもう一度、確かめるかわりに少し強く抱きしめた。
今じゃシルマリルは俺の片腕、いや体の一部みたいなものだ。以前は俺が彼女の手先だったけれど、大それたことに天使に恋をした男の願いを、瓶にたまる雨水が最後の一滴であふれるのと同じに堪えきれなくなって思ってたことをぶちまけた俺の恋心に、……天使様はこたえてくれた。
千年前にも聖女ディアナが天使様に恋をしたらしいけれど、シルマリルの上役、この世界に彼女を遣わした存在が大天使ラファエルだと言う現実が、その結末を物語っていると思う。
けど、ラファエルと同じように知識ある天使シルマリルの物語は同じじゃなかった。天使シルマリルの名は、聖典に出てこない。
シルマリルの名は聖女シルマリルとして教皇庁の歴史書に記されることになった。
「癒しの手」――――触れるだけで病人や怪我を癒すことのできる俺の両手、教皇になるためのただひとつの条件、神が俺に与えた奇跡。以前は俺にとってそれは奇跡じゃなく呪いでしかなかったけれど、今では確かに神の祝福だと思える。
この両手があったから俺は教皇候補に選ばれて、そしてシルマリルに見出された。
 しかしすべての病人に、すべての怪我人に俺が触れるは無理な話だ。
傷ついた世界と同じで傷ついた人々があふれかえる今、俺のこの手と教皇庁の慈悲と知識で救える人間には限りがあって、割を食うのはいつも「持たない者」。
救いの御手を祈る間に力尽きるのはいつも持たない者たちだ。特権階級が割を食わされることはない。
強欲に白い服を着せた連中が、もっともらしい理由をつけて自分の得につながる連中を優先して俺に引き合わせるだろうことは火を見るより明らか、だ。かつての俺はそれに逆らえないガキで、けどそういう現実だけは理解しちまったから反抗期ついでにぐれちまって元に戻れずにいた。
 けれど、今の俺の隣にはシルマリルが、草木を愛する慈愛の天使がいる。
彼女の植物に対する知識は高い水準を誇る教皇庁の教え以上、学者並み、いや天使だからそれ以上だ。俺の救いを待っている人々の間を彼女は歩き、薬草の知識で治せる者を診ては助けてくれている。
症状によっては俺の手よりずっと効き目があることだって少なくない。
ただ祈るばかりじゃ救われない、今じゃ彼女は医者と同じ待遇だ。
 教皇になる男が好きな女のために信仰を捨てようと思っても、「癒しの手」がある限り捨てられるものじゃない。教皇と言う肩書きは俺が死ぬまでつきまとう。
そのことに気づいて、それが一部の坊主どもに利用されているのが嫌で嫌でぐれた俺だけど、まさかその「最悪の教皇候補」が「初代教皇の再来」に化けるだなんて誰が思うだろう?
そして俺は最悪の肩書きのまま、最後の恋と決めた女を片腕に、金十字の杖を携えて教皇になる。
 天使だったシルマリルは、翼を天に返して人間になり俺の元へと再び舞い降りた。
もう、天に舞い戻ることはない。文字通り俺の天使、今じゃお互いただの男と女。
……だからまあ、当然と言うか、そういう関係、だ。
「……シルマリル。」
 俺は彼女の小さな体を背中から抱いたまま、左手で細い髪をそっと掻き分けて精いっぱいの口説き調子で名を呼び囁いた。その瞬間左手の銀に弾かれた日差しが俺の目を刺す。
それを見るたび、俺は縛られている自分を思い出しては思わずにやけてしまう。
俺は自ら望んで、左の薬指に束縛の証をはめた。多分くすぐったいんだろう、小さな耳をくすぐっている俺の指に触れたシルマリルの左手薬指にも、大きさが違う同じ指輪がある。
盛大なお披露目なんかはしていない、できないけど、お互いに対して死ぬまで一緒にいよう、って誓いを交わした。
……それが俺への、天使の勇者としてこの大地を救った教皇候補ロクスへのご褒美。
天使様ご自身がご褒美だなんて、この上なんてない贅沢だ。
「はい?」
「寒くないか?」
 俺の問いかけへの返事は、いかにも恥ずかしそうな笑顔だけだった。俺もそれをわかってて訊いた。
覗き込んでいる俺を見上げる彼女は、座ってても目の高さが違うほどの身長差、体格差があって、くだらないことかもしれないけど結構そそられる。考えるよりも先に手が勝手に動く、上を向いてるシルマリルの細い首からあごにかける線を右手で包んで視線を合わせて、強い風の冷たさを感じないほどに顔を寄せて――――後は何も言わなくていい。
09/04/07
画像クリックで絵のページへ
何度もそうしたのと同じに、シルマリルにキスをする。
天使だった彼女に一回、彼女の目を盗んで一回、唇の関係はそれだけ。もちろんそれ以上の関係なんて、天使相手にあるはずない。女好きの俺が限界まで堪えた反動は、彼女が人間になった後に爆発して、俺は幾度となくシルマリルと唇を合わせた。そして今またこうしてキスを求めて、彼女はそれに応えてくれた。
さすがに純真無垢な彼女もようやく慣れてきたらしくて、背中から抱かれたまま、抵抗せずに受けてくれた。
今はこうしておとなしい、けれど彼女の我の強さを俺は知ってる。
こう見えてシルマリルは強い。ひねくれた男ひとり救えるほどの強さを持ってる。
 やっと心の底から「幸せだ」って思えるようになった。俺はキスしたままシルマリルの小さな体をそっと抱きしめる。
腕の中の天使様は人肌のぬくもりを持っていて、俺は大嫌いだった汚れた世界に楽園を見出した。
俺はシルマリルと、男を選んで翼を捨てた天使様とこの汚れた楽園でゆっくり生きてゆく。
この手で掴み掬い取った傷だらけの世界を治しながら生きてゆく。
あと何度この花吹雪を見るかわからないけれど、一度でも多く彼女と一緒に見たいから、俺は喜んで束縛の約束を交わした。
……離れられずにいるのは俺の方だ。

 一緒に生きていこう、シルマリル。
でも、悪いけど俺はその時が来たら、一瞬一秒でも先に死なせてもらう。
情けないけど、俺は君のいない世界を一人で生きていけそうにない。

 


2009/04/07  完結

リハビリと言うことで気分一新、ほとんど書かないロクス視点で書いてみました。