■□ 楽 園 □■
×ロクス 2年目の春
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俺の手のひらに花びらが飛び込んだ。
時間は過ぎ季節は巡って俺はひとつ年を取った。去年の今頃、いやもう少し早くに俺の幼い天使様から聞かされたとおり、この世界には時間は残されていなかった。暢気に花を眺めていた去年の今頃からは想像もつかないほどに情勢は動いて世界はどんどんきな臭い方向に向かっていって、俺も例外なく巻き込まれて、あれだけ疎ましかったはずの聖都から追い出された。
それでも世界は劇的に変わることなんてなくてある意味冷たいくらいいつもどおりで、俺の天使もひと時同情しただけで、すぐにもとの関係に戻った。
……それでいいんだ。本当に近い周囲が変わらなかったことだけで、俺はすぐに気を取り直して次の行動に移ることができたから、それでよかったんだって今は思える。
彼女はその辺以外にさっぱりしてるみたいで、カッコ悪い当たりをいつまでも覚えられてても困る俺としては、同情してる口ぶりで細かいことをねちねちつつかない彼女の鷹揚さは助かることが多い。
シルマリルがいなかった、以前の俺だったら、多分もう教皇庁に戻らないぐらいの気持ちで転がり落ちたことだろう。俺しか教皇になれないにしても、教皇庁そのものが揺らいで崩壊しそうだってのに、むざむざ戻るなんて選択は多分しない。
礼儀作法も教養も権力って後ろ盾があってこそ物を言う。何もないヤツにそれが備わっていてもどうしようもないことを、俺は教皇庁の中にいたことで思い知らされていた。
何が変わろうと変わるまいと、俺にとって清貧なんて奇麗事でしかないってのには変わりがなくて、教義という名の理想と現実が明らかに食い違っている教皇庁に、いつまでも夢なんて見てられない。
それでも、追い出されても何とかしなきゃって思うのは、もはや俺のプライドの話。
博打は好きなだけで弱いとは自覚してたけれど、ああ効果的かつ派手に負かされシルマリルの見てる前で赤っ恥かかされた挙句に大事なもんを盗まれてそれを全部俺のせいにされて、唯一弁護しようとしたシルマリルは天使様で、彼女に弁護してもらうとしたらそれはまた別の意味で卑怯極まりなくて、なにより俺のプライドがこれ以上恥かくのを許せないしで――――とにかく、俺から始まったことは、俺がけりをつけたい。
天使様との関係も第三の男の出現でずいぶん均衡が揺らいだと言うか、……重ね重ねバカなことに、俺はどうやら、惚れてもどうしようもない相手に初恋なんてこれまた笑い話にもならない状況に立たされちまってる。
あの片目の男が俺の天使にかまかける様子が許せなくて、我に返ったら足元をすくわれちまった気持ち悪い脂汗がたれるみたいな自己嫌悪に陥っていた。それだけじゃなくて、あの男は下心があって俺に近づいたらしくて、教皇庁の秘宝を盗み出して俺の立場ぶち壊しただけじゃ飽き足らず、シルマリルを、疑うことをしない彼女を、ただ優しいだけの穏やかな少女の善意をごみでも蹴るみたいに踏みにじって傷つけて悪びれる様子ひとつない。
盗品が戻ることはほとんどないからそっちはおいおい考えるしかないにしても、シルマリルに関しては絶対に許さない。
彼女が拒もうとあのへらへらしたツラ地べたに摺りつけさせて彼女が拒むまで謝らせる。
……まあ、確かに俺の天使は本当に可愛いと思う。毒蛇を気取るあいつに限らず、男なら揺らいじまってもおかしい話じゃない。
見掛けの話じゃなくてシルマリルは天使の割にどこか人間くさくて身近に感じられて、それに中身が可愛くて、天使様だからどうだと言うことじゃなくて、もっと単純な話で彼女の気立てがよかっただけだって思い知るのが遅かった。
気立てのいい美人が目の前にいたら男がどうなるかなんて語るまでもない。
月並みだけど遅すぎた初恋、俺はシルマリルの前では他の女相手と同じに振る舞えない。
あれだけ、それこそ掃いて捨てるほど口にした陳腐な台詞だけが口から出なくなっちまった。
花を美しいと思っても枝を折る必要もない、ただ手を開いてそっと伸ばせば鮮やかなそれが飛び込んでくる、と、去年の今頃シルマリルに教えられたとおりに手を伸ばしたら、薄紅色の花びらは期待にもならない俺の望みどおりに飛び込んできた。
俺はついそれを乗せたまま手を握ろうとしたけれど、ふるっとふるえたみたいなそれに思いとどまった。
花びらがふるえたんじゃない、風が吹いて揺れただけ。そんなことわかってる。わかってる、けど――――
「あら、今朝はロクスの方が早かったんですね。」
背中から聞こえた明るい声が、俺の体を突き通すみたい。花びらより先に俺がびくんとふるえたから、一瞬浮き上がったんだろう、薄紅色のそれは風にさらわれた。
さくさくと枯れ草を踏みしめる音とともにやってきた声の主、可愛い天使様は偶然かそれとも狙ってやったのか、すぐそばまで来て並んで止まると、俺の手のひらから飛んで逃げた花びらを指先で捕まえた。
緩く弧を描く金髪とくるくるした蒼い瞳、薄紅色の肌に若草色の衣。小柄な天使様は確かに背中に翼を背負っているけど、天使と言うより花の妖精、と言った風情でもある。
彼女は本当に小さくて、頭のてっぺんが俺の顎の辺りにようやく届いているくらい。それだけじゃなくて彼女は全体の線が丸くてきれいで、か細い体だけど存在感は大きくて、少女の容姿に淑女の礼儀を持ち合わせているずるい女だ。
「杏の花って、本当に散り際が美しいですね。」
……美しいのはその笑顔の方だ。弱い風にさえ揺れるほど細くて頼りない髪を指先でまとめて耳にかける仕草と伏目がちな笑顔がたまらない。
そんな顔見せられて笑い返さない男なんていないとさえ思う。
お互い身構えていた去年と違って、シルマリルはずいぶん素の彼女を見せてくれるようになったと思う。俺を頼りにしてくれてるけど頼りっきりじゃなくて、文字通り俺を支えてくれてる。
……いつからか、俺はそれを独占したいと思うようになっていた。
居心地いい彼女の隣を自分だけの場所にしたいなんて思ってた。
したいこと、望みは増えて限がないのに、反面言葉はどんどん少なくなる。
彼女は人間の女じゃないから、俺がどう足掻こうと普通の色恋沙汰なんて無理どころか話にもならない。……俺は、今の関係が壊れるのさえ怖くて仕方がないんだ。
よくある「恋人になれないなら友達のままでいい」なんて優柔不断な男の言い訳だとばかり思ってたけど、実際その境遇に追いやられて思い知らされた。
こんな浅いつながりでもあるだけ救われる。今さらなかった頃にはもう戻れない。
「頼りない私だけど、天使でよかったって思うのが、天界からアルカヤに降りる時なんです。
この世界は確かに揺れているのに、大地は美しいんですよね……。」
元が聡明な彼女らしく、俺なんかより状況に余裕がないことを感じているんだろう。
あどけなかった去年の笑顔に、翳りがさして深みを増した気がする。
シルマリルは天使だからというだけじゃなくて元の性格から優しい女だから、現状には相当胸を痛めてるだろう。俺は何度も横顔を盗み見るけど、慰めひとつ口にできない。
慰めが慰めにもならない現状が重くてどうしようもないから、口先だけの気休めじゃ気分ばかりがよけいに重くなるってわかってるから何も言えない。
気休めを慰めにするぐらいなら、俺のこの手で彼女の荷物を肩代わりしたい。
天使に課された責務を人間が肩代わりしたら背負わされた瞬間に押しつぶされるだろうことも簡単に想像がつくんだけれど、それでも、彼女の助けになれるんだったらかまわないなんて思うようになった俺がいた。
「あ、ごめんなさい、暗いこと言ってしまったりして。
ロクスが真面目にがんばってくださっているのに、当の私がこんなに後ろ向きではいけませんね。」
「……無理もないさ。」
俺は小さく、慰めにもならない言葉を口に出すので精いっぱいだった。
誰が味方で誰が敵対してるのかまったくわからないこの状況。天使の彼女がわからないんだから、俺が彼女と俺のお仲間――――天使の勇者以外まったく信用できなくなったのもある意味仕方がないんだろう。
多分シルマリルは意識して明るくしているんだろう。……彼女は本当に健気で心配になるほど前向きで、戦う力を持たない自分ってヤツをものすごく恥じていて憎んですらいるみたいで、時にそれが悔しくて陰で泣いているみたいだ。
もちろんそんな姿を俺に見せたりはしないんだけど、緩く弧を描いてる前髪で目を隠すことがずいぶん増えた。笑っているはずの声が揺れていたことも多い。
そんな時俺はひどく無力な自分を思い知らされる。人間風情は憧れることしか許されてなくて、天使シルマリルがいくら身近に舞い降りていても彼女はいつか天界に還る存在で、……俺の気持ちがかなえられる可能性は、ないに等しい…………。
そのことを思うだけで俺は言葉と言う言葉をなくしてしまう。絶望しかないこの世界と、成就することのない俺の気持ちと――――それをひっくり返せる可能性を探し続けるけれど、光なんて見えやしない。
俺にあるのはシルマリルの光だけ。
俺はそれを手放したくないだけなのかもしれない。
……くそっ、俺のどこが天使の勇者なんだ。
目先のことしか目に入ってなくて何もできずにいるこの俺のどこが…………。
「けど、去年もそうでしたけど、杏の花吹雪を見てるとがんばろうって思えるんです。
去年ロクスといたことで偶然ここを見つけましたけど、昨日までをがんばったから今日こうして見ていられるって思ったら」
俺の耳に入ったのは、そこまでだった。去年から昨日までをがんばって今日一緒にいられるって彼女は言うけど、それって暗に「来年もまた」って言ってるんだろうか?
彼女が人間だったら、たとえどっかの国の姫君だったとしても掻っ攫ってものにしちまえるだろうけど、天使と人間じゃそれすらできっこないってわかっていても、俺は際限なく夢ばかり見続ける。
妄想でしか彼女に触れていられないから妄想するしかないんだけれど、そうすればするほどどうにもならない現実が重くのしかかる。
困らせるだけなのに「愛してる」なんてどの面下げて言えるってんだ。
「――――ですから、今日一日はここでゆっくり花を眺めて、明日からまたがんばりましょう、ロクス。」
「え?」
上の空だった俺の答えに、シルマリルがくすっと苦笑いなんて見せる。
残された時間はない、けどこの距離が、今の関係がずっと続けばいいなんて願ってる俺の本心を知ったら彼女はどんな顔をするんだろう?
来年どころか明日があるかどうかさえ怪しいのに、ずっと――――永遠なんて願うバカな俺を、シルマリルはどう思うだろう?
多分シルマリルは薄紅色の花吹雪を楽しんでいるんだろうけど、俺はとてもそんな気にはなれない。
花より目の前のシルマリルが気になって仕方がない。
いたずらに女の気ばかりひいてはもてあそび続けたしっぺ返しがシルマリルと言う存在なら、俺の罪は相当に深いんだろう。
……そんなものさしでしか自分の罪を理解できない俺も相当バカだと思う。
でも。望みがかなうものなら、できるものならシルマリルを引き止めたい。
すべてが片付いた後に彼女の隣に立っているのは俺だって信じていたい。
それは他愛もない夢でしかないことは、今の気持ちを表に出せない俺が一番わかってる。
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2009/04/04