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ナーサディア、シーヴァス

     

 哀愁漂う旋律と歌声が夜更けの酒場に満ちている。
重苦しいほどに下りてしまった夜の帳、泣き出しそうな紅い月、頼りなくよどんだ町の明かり。道を行く人の気配は途切れてしばらくたつ。
日が暮れて夜の闇とその中に蠢くものを恐れる人々は屋根のある場に集う。それは各々の家庭だったり、そこに家がない者は旅人の逗留宿だったり、酒場だったり。その中でもにぎやかなのはやはり酒場で、日が暮れたあとの酒場は品のない喧騒と人いきれでよどんだ独特の空気で満たされている。
それが酒場と言う場の持つ独特の空気なのだけれど、紅い月明かりが滴るその夜は少々様子が違っていた。
 その晩だけ、歌劇場のような空気が満たされていた。
物悲しく語るようなリュートの音色と、琥珀色に濁った頼りない酒場にはあまりにも不似合いな清かな少女の歌声、曲にあわせて踊るは琥珀色の長い髪が美しく波打ち舞い踊る妖艶な踊り子。リュートと歌姫が奏でるは流行の恋歌でも技巧を凝らした複雑な歌曲でもない、単純な三拍子の繰り返し、ひねりも何もない素直な歌詞の望郷の民謡なのだけれど、素直だから単純だから観客を選ばずその心に染みとおるよう。
聴く者の郷愁と涙を誘うリュートの旋律と清かな歌声と艶やかな踊りがひとつにとけて安酒場には不似合いすぎる演目となり人々の魂を抜くかのような戦慄を内包している。そうかと思えばその場にいる誰もがただ楽しんでいるだけでもある。
リュートを爪弾く中年男は音色に歌わせ、清かな歌声を満たし続ける金の髪の少女は清楚な容姿でありながら蟲惑的で妖艶ですらあり、極上の酒と同じに人々を酔わせる音楽に合わせ踊る妖艶な踊り子は歌姫と真逆で侵しがたい空気をまといながら軽快なステップを踏み続ける。
 たった三人の旅芸人の見世物に、小さな店すべてが飲み込まれてしまっている。
中年男は明らかに旅芸人。浅黒く焼けた肌と骨の形が浮き出ている手が爪弾いている使い込まれたリュートの音色は、ただ音を弾き出すだけでなくその音色で何かを語りかけてくる。
言葉なき音色で語る楽器を奏でるその姿は旅に、芸に疲れているようにも見え、なのに真逆にその身と命を削ってまで音楽を楽しんでいるようにも見えた。
 小柄な歌姫は飛び抜けて美しいがまだあどけない子どものよう。肩にかかるより少し長いくらいの金色の髪をふっつりとそろえているけれどその毛先はくるりと巻いていて、天使がいればこんな姿かたちを持っているのかもしれない、と見る者に思わせるほどに、あか抜けて、ただ美しい。
歌声はか細くすらあるのだけれど青空にまで抜けるような清々しさと強い芯が確かに存在していて、リュートの音色にとけそうでとけない存在感を持っていた。
 琥珀色の長い髪の踊り子は歌姫の対極にいるような妖艶な美女。艶かしく美しい線を持つ脚も腕も惜しげもなく酔っ払いどもに見せているが下品ではなく、豊満な肢体だけではなく美しい薄絹までも体の一部とし己のすべてをもって踊り続ける。
紅い唇は常に微笑を浮かべているけれど、単調で悲しげな三拍子の歌のせいだろうか、その眼差しはどこか悲しげですらある。
 奏者と歌姫と踊り子、どこにでもいる旅芸人の組み合わせのはずなのに、この三人が揃ってこの酒場に訪れたのは初めてだった。奏者と踊り子はそれぞれ別のものたちと、またはひとりで訪れたことはあるが、歌姫は誰も目にしたことがない新顔。
酒と同じ琥珀色の空間の中でも自ら光を放ち輝くような美しい少女が酒場なんかに訪れれば誰かが覚えているはずなのだけれど、誰も彼女のことを覚えてはいなかった。
 最初の観客は酔っ払いばかりだった。それは酒場の日常で、旅芸人の一団が来て歌おうと相手にもされないことがほとんどで、美しい踊り子がいようものなら下品な野次が飛び交い演目を披露するどころではなくなってしまう。
最初のうちは3人いる一団でも男は人数に入れてもらえぬほどの勢いで酔っ払いたちが美女と美少女に目の色を変え、表現することも憚られそうな言葉の数々を使い囃し立てた。
しかし酔っ払いばかりだった酒場すべてが少女の歌声に呑まれるのに時間は必要なくて、さらに追い討ちをかけるように踊り子の妖艶な舞が彼らの魂をその器から掴み引きずり出して抜き取った。歌と踊りの前では存在感薄そうに思われるリュートの音色も彼らをつかの間の夢うつつへと誘う役目を担っていて、大きすぎる存在感ゆえの自然さに、不自然なまでに誰も気づかない。
宵の口頃から、酔っ払いばかりで夜な夜な騒がしいだけの酒場の静けさを怪訝に思った者たちが店の扉を開け演目に魅入られいつしか店は満員になり、皆一様に舞台と呼べそうもないほど小さな舞台に釘付けになっている。
歌が流れている間は水を打ったような静けさで、終わると割れんばかりの拍手に満たされる。
それは小さな酒場のそれではない。まるで大きな歌劇場。一握りの選ばれた人間たちだけが楽しむことが出来る上等な歌劇がこの世界にも存在しているけれど、小さな酒場で演じられている演目がそれよりも明らかに上等な演目だと言うことに気づいている人間が、たった一人この場にいた。
 観客の中に、明らかに場違いな青年がいる。
あまりにも上質な演目を目にし楽しんでいる観客とは明らかに異質、引きずられ我を忘れた観客とは対極にいる涼やかさで店の最奥のテーブルにひとりで座っている彼はどう見ても貴族の出。すらりとした長身の体を夕焼け色の丈の短い上着で包み腰は無骨なベルトではなくサッシュで引き締め、繊細ですらある整った顔を女性のそれのように長く美しい金の髪が包んでいる。長い金の髪は無造作ではなくきっちりと襟足で結わえられ、涼しげな琥珀色の眼差しは真っ直ぐ遥か向こうの歌姫に注がれている。
彼はどうやら剣士のようで刀身の長い少しだけ装飾を施された剣を腰に下げていて、その切っ先は床に届き主と同じく長いその身を窮屈そうに傾けながらも主に逆らわず、身を傾けながら鞘に包まれ静かにそこにある。
彼は背筋を美しく伸ばし長い脚を組み、恵まれた容姿、すらりとした体を窮屈そうに丸め頬杖をつき、その眼差しを鮮やかな軌跡を描きながら舞う踊り子ではなく、美しい容姿ではあるが歌うことで精いっぱいの歌姫から一度もはずさなかった。
 彼の涼しげな眼差しに感情は見えない。美しすぎる歌姫を見つめ頬杖をつき、目の前には酒の入ったグラス、しかし酔った様子は微塵もない。
眺めている、見つめている視線に感情は見えない、いや酒場の照明があまりにも頼りなくて琥珀色の視線になにを隠しているのか読み取れないのだけれど、青年はため息と言う感情らしい感情の表現を初めて漏らしながら目を閉じた。
紅い月夜の宴はまだ終わりそうにない。



 きっかけは、本当に偶然としか言い様がなかった。

「なあナーサディア、今夜だけ手を貸してくれないか?」
 そう真昼の酒場で声をかけられたのが始まりだった。
「手を貸せ、って……踊り子がいないってこと?」
 真昼のパブのカウンターと美しい女と中年男。女は空席ばかりのカウンターの最奥のひとつ手前の席で頬杖なんてつきながらそう言うと、無意識の仕草で長い髪をかき上げた。彼女の隣の椅子にはわずかな荷物と何に使うのかしなやかな鞭、紫のビスチェに似た薄絹で胸と二の腕を隠し足首まで隠れる長い巻きスカートは慎ましやかどころか線の美しい脚があられもなく見えてしまうような艶かしいいでたちのはずなのだけど、不思議なことに下品には見えない。
細い腕輪と幅広の脚輪、腰に巻いたベルトは大きな金の輪をいくつもつなげた形のものと装飾品も負けず劣らずきらびやかなのだけれど、それらを身につけている彼女はそれに負けないほどに華やかだった。
「いないわけじゃないが、いつもの踊り子が昨夜性質の悪い酔っ払いに絡まれて足ひねっちまってな。
 どうにも今夜は踊れそうにないんだが、稼がないことには良い医者に見せてやることも出来なくてさ。」
 声をかけてきたのは中年男の方。彼は決して大柄とは言えない体を薄汚れた白っぽい服で包み頭にはつばの広い帽子をかぶり、ナーサディアと呼んだ美女とは対照的に大きな荷物を肩から下げていて、それだけで彼が旅人だと誰でもわかった。
昼間の酒場は酒を飲む場と言うより食事処で、カウンターで妖艶に微笑んでいたナーサディアも酒の類は口にしていない。彼女の前には女性にしては少々量が多めの献立があり、焼物のカップに入っているのは疲労回復効果のあるお茶だった。
周囲も似たようなもので、時間帯に似合う健康的な喧騒がふたりの会話も紛れ込ませて喧騒の一部に変えてしまうのだけれど、当然彼らの話は独自に進む。旅芸人の男は踊り子が不慮の事故で踊れなくて困っていると告げ、流しの踊り子ナーサディアに助力を求めてきた。
「もちろんあんたの取り分はきっちり払うよ。ただ、そんな事情で色はつけてやれないが……」
「それは災難ね。
 いいわ、あなたにはずいぶん世話になったことだし別に急ぐ旅でもないし、そういうことならお安い御用よ。」
 そして交渉は簡単に成立した。ナーサディアは困り顔の知己の様子とその事情に配慮し軽くうなずきはっきりと笑いかけ、男は日に焼けたしわが深い顔をくしゃりと崩し愛想あふれる安堵の表情を見せた。
「ただし、ひとつだけいい?」
 けれど、簡単に成立したに見えた交渉に、後出しの条件がナーサディアから提示される。
彼女は旅芸人の彼の愛想につられたみたいに片目をつぶりいたずらな少女のような表情を見せながら、細い指をピッと立てて見せた。上等な踊り子、いや舞姫と呼んでいいだろう彼女の後出しの条件が何なのか――――高い女は時に自分に似合いの高い要求を突きつけてくるもので、考えるよりも先にそれを察してしまった旅芸人の男は先ほどまでの愛想を吹き飛ばされた様子で鼻白んだ。
「歌い手は私が連れてくるわ。」
 しかし、飛び切りの舞姫の要求はささやかなものだった。
旅芸人の男がいつも連れている子どものような歌い手ではなく、彼女が選んだ歌い手の歌で踊りたいらしい。ナーサディアはにこやかな笑顔を見せながらも断れるような雰囲気は作らずに、しかしそんな空気を作ってまで提示した割にあまりにもささやかな条件だから男は却って戸惑ってしまう。
「そ、そのくらいならいいが……」
『そこまでして歌わせようとするなんて、とんでもなく下手とかじゃないだろうな?』
 濁した言葉には明らかに続きがあるのだけど、普通の大人ならば最後まで言おうはずもない。けれどいろんなことがあまりにも不自然だから疑ってしまう。
しかし彼に選択肢などなくて、それに結局ナーサディアが終わりを待たずに言葉尻にかぶせるように話を続けた。
「大丈夫、歌い手として生きてる子じゃないけどその歌声は私が保証するわ。見かけも相当な美人だから、ひょっとしたらひと晩で医者代稼げるかも、ね。」
 不安げに言葉を濁す旅芸人の男、正反対に自信満々なナーサディア。彼女は駄目押しとばかりに長く波打つ栗色の髪を首筋に跳ねる。
「夕方にはその子と一緒にここに来ておくわ。
 そうそう、難しい歌や流行歌なんかは無理だから、そのあたりだけお願いね?」
 いたずらな微笑で強引に話を進められ、旅芸人の男は苦笑いのような微妙な微笑で了承した。
夜の話をその日の昼に持ちかけたというのに、こんな美女が嫌な顔ひとつせずに、二つ返事で受けてくれたのだ。それに、同じ世界に生きている踊り子が歌声に太鼓判を押した素人にも少しだけ興味がわいたのは嘘ではないし隠せない。
「日が暮れる前に2、3曲ばかり合わせたいが、どうだい?」
「ええ。予定もないし、歌姫も人前で歌うのは初めてだと思うからちょうどいいわ。」
「――――じゃ、また夕方に。」
 まだ昼日中、酒場と踊り子の時間はまだまだ先になる。旅芸人の男は少しだけ肩からずり落ちた大きな荷物をかけ直し、ナーサディアの前から下がり声をかけた当初とはまるで違う軽い足取りでその場から姿を消した。
足どりがあまりにも軽やか過ぎて、まるで鼻歌でも歌っているかのようなその後姿にナーサディアが思わずくすりと笑いながら見送り、そして――――

「聞いていたわよね、シルマリル?」

 彼女は小さな声でおもむろに別の名を呼んだ。その呼びかけに答えるかのように、薄暗い最奥の席に他の気配が現れる。
肩にかかる長さのやわらかそうな金の髪と丸くあどけない青い瞳、早朝の薄紅の薔薇の色合いみたいな瑞々しい肌、小さな体を隙なく包んでいるごく淡い若緑の長い衣。夢か幻か、誰もいなかった薄暗い最奥の席に見目麗しい少女が現れた。
「聞いていましたが、それがなにか?」
 清楚な容姿そのままの清かな声と美しい言葉遣い、穏やかな声色。良家の子女と言えば確かにそう見えなくもないけれど、なぜだろう、人間離れしたなにかを感じさせる美しすぎる少女が、ナーサディアの隣、高い椅子に座っている。
ナーサディアとはまるで正反対の清楚な美少女で夜の酒場ならば大騒ぎになるところなのだろうけれど、昼間の人もまばらな酒場では騒ぎどころか気づく者すらいそうにない。
……そう、少女が突然現れたことにすら、誰も気づかないほどのんびりした空気しかここには存在していない。
ナーサディアはまるで妹にでも語り掛けるような気軽さと愛しさの混じった声色で突然現れた少女にことさら愛想良く笑いかけ、念を押すように言葉を続ける。
「お願いね?」
「なにをですか?」
「歌い手よ。」


 ナーサディアの笑顔とその台詞で、一瞬、空気が固まった。


     

09/10/03