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ナーサディア、シーヴァス

     

 今まで自分がいた喧騒に背を向け琥珀色の喧騒から一歩足を踏み出すと、夜更けの町は闇の中にある静寂の世界だった。
欠け始めた月は頭上高くにあり長身の青年の足元に短い影を落としていて、夜更け独特の静寂は耳が痛くなりそうなほどに静か。
月明かりと夜風でゆらゆら揺れそうな夜はまるで水の中の世界のよう、その只中にいきなり放り出されたみたいな奇妙な疎外感を感じながらもどうにもできるはずもなく、シーヴァスは深いため息をひとつ吐いて、月明かりに溶けない強さを持つ長い金の前髪をわざと強くかき上げた。
シーヴァスの上着は染まり始めの夕焼けの色、そよ風にすら泳ぐほど軽い金の髪は月明かりも星明かりも弾いて闇に解けない強さを持っている。それはまるで暗い海を泳ぐ熱帯魚のよう、月明かりに透けない、溶けない長い金の髪と同じように闇に解けない夕焼け色がはっきりと、浮かび上がるような鮮やかさで存在している。
 人いきれに酔った頬に、少し冷たい夜風が心地よい。
耳鳴りのような痛みに似た感覚に気持ちを向け集中すると、それが三拍子のリュートの戦慄と月の光に似た清かな少女の歌声だと言うことに気がついた。その感覚は酔ってしまった時と似ている気もしたけれど、酒場で酒を飲んでいないのに酔っ払ったとはこれいかに、といった具合だから認めきれず、否定も出来ず。
自分と同じに飲んでないのに酔っ払った同類がたくさんいたから仕方がないと思うしかない。
 この場に、周囲に、誰もいなくてよかったと心底思う。つまらぬ自尊心に過ぎないけれど、みっともない姿を誰かに見られたくない。
旅人や市民が集う小さな酒場に舞姫と歌う天使が舞い降り狭すぎる空間は興奮の坩堝と化して、シーヴァスも渦に飲まれておぼれそうになった。演目が終わったあとも興奮冷めやらず、人々は素直に感動を表に出し続け縁者たちに声援と喝采を送り続けていたけれど――――シーヴァスはその渦の中に巻かれなかった。
おぼれることが出来なかった。
舞台とも呼べない、少しだけ高い場所で歌っていたにもかかわらずようやく顔が見えたぐらいに小柄な歌姫の顔に覚えがあって歌声で魂抜かれその姿に目を奪われて、渦に巻かれておぼれるきっかけすら奪われてしまった。
 あの舞台よりずっと広い場で。ずっと荘厳な舞台を何度も観たはず。
なのにたった三人で演じていた舞台はそのどれよりも強く強く胸に突き刺さってきた。
シーヴァスは誰もいないのをいいことに、静かに立ち止まり詰襟の留め金を音を立てずに外した。たちまち流れ込んできた冷えた夜風がわずかに汗ばんでいた喉元に心地よい。
しんと静まり返る静か過ぎる夜は音を立てることさえはばかられそうで息を殺しかけたけれど、聞いている人間、いや行き交う人間すらいないひとりきりの通りで息など殺しても仕方ないとすぐに気づいて、わずかに止めた分の息を一度に吸い込むと、今度は鼻と胸の奥が縮こまりそうな寒さを感じた。
……酒場を後にしても残る熱と眩暈、間違いなく体が火照っている。自分ではあまり気づいていなかったけれど、夜風に体ごと冷やされるとどうしても気づかされてしまう。それにあの場にいたひとりは間違おうはずもなく顔見知りで、まさかあんな特技を秘めていたなんて予想だにしなかった。
だから余計に引きずられたのかもしれない。
 か細い、けれどよく通る透き通った歌声の主は人間ではない。純白の翼持つ幼い天使。
巡り繰り返すばかりの運命を科された箱庭世界インフォスの歪みを正すためにと、翼持つ乙女は重責を負わされ天から遣わされた。人間よりも上におわす存在でありながら他人を傷つける類の力を持たないたおやかな乙女のかわりに、13人もの人間たちが彼女の剣として日々を駆け抜けている。
 そんな麗しい乙女の姿持つ天使様が、何を思ったのか人間のふりをして、酔っ払いしかいないような安酒場の歌姫ごっこに興じていた。歌そのものはごっこの域など軽く超越していたけれどあどけなくすれていない清らかな乙女の姿は酔っ払いにとって酒の肴、餌にしかならないことをシーヴァスは知っている。
幸い天使様はその場にいた人間たちの魂を抜き取るかのような魔性隠した歌声で無意識に己が身を守っていたけれど、人間を疑うことを意識して行わないお人よしの天使様が何度も同じ遊びに興じては、彼女の勇者は心労がかさむと言うもの。
シーヴァスはそんな彼女の剣として、天使の勇者という肩書きを負わされて卓抜した剣技を武器に、天使と共に日々を駆け抜ける。
天使という上位の存在でありながら自らの未熟さを理由にし大きな態度に出られずにいる不思議な存在、貴族の家柄の、しかも嫡男と言う立場に縛り上げられて戯れに逃げていた自分に役目らしい役目をもたらしたあどけない天使様は嫌いではないから、シーヴァスは自分たちの関係について「一応良好」だと考えている。
つまり、「嫌いじゃない」。しかし、それを態度に出したこともその覚えもないし、最初の突き放した態度を今さら変えるのもおかしな気がするから、今夜みたいに心配は小言に姿を変えてばかり。
シーヴァスの天使はたおやかで麗しい見かけを裏切るみたいに中身は意外に元気で無鉄砲で、判断に困ると好奇心に選択を委ねることも多々ある。
おそらく酒場の歌姫として立っていたのには相応の理由めいたものがあるとは思う。思う、けれど――――
 目の届かないところで無茶をするのもほどほどにして欲しい。知らなかった分、目の当たりにした時の心労はふくれ上がってシーヴァスを襲う。そして心配は小言に姿を変える。
言い返せないことを言われると彼女は後悔しきりの表情を見せてうなだれてしまう。
……今さら嫌われたくはない、しかし目の届かないところで無理も無茶もさせたくない。
剣の技がいくら鋭かろうと、天使が戦う力を微塵も持たなかろうと。矮小なる人間風情が天使相手に「させたくない」など言えようはずもない。
シーヴァスは体に残る熱といつまでも耳の奥に残る三拍子に激しい頭痛を覚えながら、また大きなため息を吐き涼しげな切れ長の眼を伏せた。

「シーヴァス……追いつけてよかった。」

 耳の奥でか細く、しつこく繰り返されていた声が不意に大きくなり別の言葉でシーヴァスの耳に飛び込んできた。驚くあまり、シーヴァスが間抜けな顔のまま振り向いたその視線の先には、つい先ほどまで酒場で美しくさえずっていたカナリヤのような天使様がいて、彼が振り向いたのを見て曖昧だった笑顔をぱあっと輝かせた。シーヴァスと同じ金の髪を持つ乙女の姿の天使シルマリル、月明かりに溶けず光を弾き返す彼の髪と同じ色なのだけれど彼女の髪は彼のそれよりもっと短く頼りなく美しく、その笑顔は女に慣れている男の目だろうと遠慮も容赦もなく己に向けさせ服従させる魔性を持っている。
 彼女自身に傲慢さは微塵もない、けれど存在が傲慢そのもの。男を魅入っておきながら、自身は微塵も興味を持たない。
そんな彼女に苛立ちを覚えることも増えてきたシーヴァスは、「女性に向けての礼儀」と嘯いている笑顔すら忘れたまま、仏頂面で小さな彼女を見つめるばかり。
「あの、あのですねっ」
 鳥ならカナリヤかすずめか、動物ならリス。小動物と同じ愛くるしさを持つ天使様はご自分の器量と気立てのよさをまったくご存じないから男は振り回されてばかりいる。今だってそうで、おろおろする様子は「可愛い」としか表現できないのに、その言葉を彼女に向けて言えようはずもないから――――
「……ひとりで追いかけてくるなんて。
 追いかけるなら追いかけるで、姿を消してからにすればいいものを。」
「え?」
「それに、酔っ払いだらけの酒場に彼女をひとりにしてきたのか?」
――――シーヴァスの心配はまた小言にすりかわった。しかし彼の指摘はいつもと同じに的確すぎて、至極もっともなことを言われて天使様の笑顔はたちまち曇り、何度も覚えがあることをまたしでかしてしまった彼女は反省通り越し後悔の表情でうなだれる。
「まあ、彼女も君の勇者だから大事には至らないとは思うが、先約があちらなら約束すらない私を追って放り出すような真似をするものではないな。」
「……そうですね。」
「で、彼女を放り出してまで追いかけてきた御用はなんだ?
 君がいくらそそっかしくても、用もなく私を追ってくるとは思えないが。」
 別に小言を言いたかったわけではないはず。なのに顔を見ると振る舞いを目の当たりにすると危なっかしくて仕方がなくてシーヴァスはちくちくと小さな棘が刺さって抜けないような痛みに似た感覚を己の体の内側に溜め込み続けてそれが小言に姿を変えて……自分の感情の堂々巡りが不快でため息ひとつ、それは自分に向けられたのかと解釈してしまった天使様が小さくびくんと身じろいだ様子を見、シーヴァスはため息ひとつ自由にならない己を心底恨めしく思った。
 頭に手をやろうとしたその時、シーヴァスが何かに気づいてハッとする。あの恨めしいほどの火照りはそのままなのに、耳の中にずっと響き続けていた三拍子はすっかり消えていた。
「……別に怒っているわけではないから、そんな顔をしないでくれないか。」
 耳鳴りにも似た音楽が聞こえなくなった理由は一体なんだろう? わかるはずもないけれど、シーヴァスの気持ちの糸は気持ちの糸は少しだけ緩み、口元にわずかな笑みがにじみ出る。
「それにしても、君はずいぶんと歌がうまかったんだな。」
「え?」
「あの店にいた人間全員が酔っ払っていたわけじゃなかっただろう? 君の歌声に誘われて酒場に入った人間は多いぞ、きっと。」
「そ、そんな……私――――あっ」
 シーヴァスの体に残る熱を西風の乙女が察したのだろうか、冷たい夜風が刃に姿を開けふたりしかいない通りを鋭く吹き抜けた。砂埃とわずかな落ち葉を巻き上げ駆け抜ける乙女の使いは別の女の気配を感じ、気配の主にやきもちを焼き襲い掛かったけれど――――いたずらが過ぎる西風を、シーヴァスは自らの純白のマントで遮った。
他の女の意図など無視しても天使様を守る姿は天使の勇者にふさわしい。しかしシーヴァスは天使を天使と割り切れていない。
今もそう、少し離れた所にいた天使に向かい一歩踏み込みながらマントを広げたその腕で翼隠した天使様の小さな体を包み込んだ。
砂埃と落ち葉で純白のマントが色褪せることなどすでに頭にない。
「風が強いな。ナーサディアはまだ酒場か?」
「え?……はい、たぶん……。」
「酒場に君を送り届けたくはないが……仕方がない、彼女が酒場から出るまで君を預かるとするか。」
「え?」
「さっきから『え?』ばかりだな君は。」
「あ、ご、ごめんなさい」
「別に謝ることでもないだろう、気になっただけだ。
 宿に戻るとまた出なければならなくなるし、このまま少し歩かないか?」
 気取った紳士らしく己のマントで女性を守った男、だけど彼は風が治まるとすぐにマントを翻し彼女を解放した。まだ名残のこる弱い風が少しだけ汚れたマントの裾をはためかせるのだけれど、彼は特に気にした様子はなくて、その一連の行動にいつもの気障さは微塵もないから最上級の扱いを受けた小娘は自分の扱いが粗雑だと思い込み続けている。
それにすねるほど天使とは子どもではない、しかし己の至らなさを理由にし、それで落ちこむことはある。
シーヴァスが、騎士と貴族の義務を叩き込まれた男が己の剣を捧げるという意味には気づかないままでいる。
――――身に過ぎた責務を負わされ日々身を粉にし奔走する彼女が至らないはずなどないのに。
「……それにしても」
「はい?」
「素晴らしい歌声だ。どんなに豪華な歌劇でも君ほどの歌い手はいなかったな。
 あの旅芸人に名乗ったのか?」
「え? いいえ、ナーサディアが話を進めましたから……」
「正解だ。名乗ったが最後、たちまち噂になって諸国の宮廷楽団やら規模の大きな歌劇団が目の色変えて君を獲得したがるだろうな。」
「そ、それは困ります!」
「だから軽率なことをするな、と言ったんだ。戒律が厳しいみたいだし、君の本来の責務に影響を及ぼすだろう?」
「……そうですね。歌っていて気持ちはよかったのですが……」
「聴かせたいなら私がいくらでも聴いてやるから、次はないようにしてくれ。
 いきなり君の声が聞こえて来た時はさすがに血の気が引いたぞ。」
「……ごめんなさい。」
 誉められたことはうれしい、しかし軽率な行動の理由を指摘されたことは反省しなければ。
照れ笑いが出そうなのにぐっと気持ちを押さえ込んだから表情がおかしな具合にこわばって、言葉にするまでもなく心の声を顔に出しているシルマリルの複雑な様子は乙女の姿持つ子どもならではで、天使と言うには存在感が生々しい。

「今度歌劇にでもつきあわないか?
 今まではレイヴを引きずって行ったりしていたが、君は芸術への造詣も深そうだからお互い楽しめそうだ。」
 そして、シーヴァスは無意識に、自然に笑う。
それは女性に向けた礼儀ではなく、己の感情がにじみ出たもの。作り物ではない彼自身のかけら。
己の思い描く己の虚像に従い自分自身を構築してきた男の素顔。
「今夜のあれでも感じたけれど、君は素直に状況を楽しむ性格のようだから誘ったこっちも素直に楽しめるんだ。ナーサディアも気持ちよさそうに踊っていたが、あれだけの歌の中で踊れるのなら踊り子冥利に尽きるのだろう。」
 ひねくれることで複雑な立ち位置を守り続ける男の本音を、天使様は意識することなく引き出せる。

「ナーサディア、気持ちよさそうでしたか?」
「ああ。彼女がいくら否定しようとも信じられないほどに、な。」
「よかった、いつもずいぶん無理を聞いてもらってるし、そのくせ私にできることは限られていますから。」
「それで、歌はどこで覚えたんだ?」
「勇者の中に吟遊詩人の少年がいるんです。彼の歌を聴いたり、ナーサディアの仕事について行ったりしているうちに覚えました。」
「それでは、歌ってみせたわけではないのか。」
「はい。あなたとナーサディアが初めてです。
 そうですか、私、上手でしたか。」
「本職が形無しなほどだよ。とても耳で覚えただけとは思えない。」
 「初めて」、その言葉を聞いただけで小さなことが許せてしまう。シーヴァスは笑顔を消さないままでまた歩き出し、散歩に誘われた天使様も彼に後を追って歩き出す。
「それで、私からは何を学んでいるのやら……知りたいような知りたくないような、複雑な気分だな。」
「人生の楽しみ方を学んでいます。」
「……そんなもの倣わないでくれ。私は男で君は女性だし、……まあいいか。」
 好奇心旺盛でおとなしい割に無茶も無鉄砲もやらかす天使様、だけど嫌いではない。
むしろ気づかないうちに素顔を見せていることをシーヴァスは気づいているのだろうか? 歩き出したふたりの姿は強い月明かりで闇にまぎれてかき消されずに鮮やかなまま小さくなり、程なく通りを曲がり路地に入ってようやく姿を消す。

 慌しかった夜も、もうすぐ終わる。




     

09/10/20

「シーヴァスは芸術鑑賞が好き」な公式設定と踊り子ナーサディアと言う好きなものふたつを盛り込んでみました。
ロクスとシーヴァスと言うフェバの中で似たポジションにいるキャラを書いているとどうしてもかぶってしまいそうになるのが悩みの種でございます。
口調以外での書きわけって難しい…。