猫と少年 3





京子が助けた少年の名は、日比野亮太。
私立中学に通う、二年生だった。

亮太の家は代々中華料理屋を営んでおり、現在は母が切り盛りしている。
小さな店ではあるが、客には多くの常連客がおり、毎日繁盛していると言う。
亮太も学校から帰ると手伝いをし、近所への出前によく走らされるらしい。


塚川高校の最寄のバス停からバスに乗り、約十分。
一端バスを降りると、別のバスの乗り継いでまた十分。
約二十分の道程を、京子、あんず、亮太はお互いの自己紹介をして過ごした。





「剣道部の主将だったんですか……どうりで、あんなに強いんですね」
「別に。そーいうだけでもねェけどな」





横向きに座るタイプのバスの中で、京子とあんずは並んで座り、向かい側に亮太が座っている。


最初は三人並んで座っていたのだが、亮太がカチンコチンに固まってしまい、まともな会話が出来なくなっていた。
向かい合って座る形となって、ようやく落ち着いたのである。

しかし、未だに亮太の視線は右往左往しており、一向に京子の方を見ようとしない。
それも無理はない、京子は極端にスカートを短くしているにも関わらず、足を組んで座っているのだ。
あんずのようにスカートの皺を嫌うこともしない為、短いスカートは当然捲れており、その下が覘くか覘かないかと言う状態。
いけないと分かっていつつも、ついつい視線が落ちてしまいそうになるので、亮太は京子と正面から向かい合う事が出来ずにいた。


落ち着いたようで、いつまでも落ち着けない亮太に気付いたのは、あんずだった。
ちらりと隣に座る京子を見て、彼女がいつも通りに振舞っている事に、小さく息を吐く。





「京子ー、足、足」
「あ?」
「スカート捲れてる」
「捲れてねーよ」
「捲れてるよ。とにかく、足組むの止めた方がいいよ」
「ンだよ、いつもそんなの言わねえじゃねえか」
「今日はあたしだけじゃないもん。りょーた君がいるんだから」





そんなの別に気にしない、と言い掛けて。
京子も、確かに亮太の仕草が未だ落ち着かないと言う事に、遅蒔きながら気が付いた。
足を組むのを止めれば落ち着く、などと言う理屈は、京子にとってよく分からないが、こういう時のあんずは譲らない。
渋々汲んでいた足を下ろした。





「それよか、まだ着かねェのか? ケツ痛ェ」
「あ、あ、…ご、ごめんなさい……」
「謝れなんて言ってねェだろ。まだ着かねーのかっつってんの」





掴まる為のポールに寄りかかって言う京子に、良太が俯いて謝る。

暇を持て余した京子の表情は、ぱっと見れば不機嫌になったように見える。
しかし、本人は決してそんなつもりはないのだ。





「またそんな言い方してる。りょーた君が落ち込んでるよ」
「そんなってどんなだよ」
「もー……ごめんね、りょーた君。次の駅で降りれば良いんだっけ?」
「は、はい」





あんずの問いに、亮太はやはりどもりながらも、なんとか答える事が出来た。


車内アナウンスが流れて、亮太が下車ボタンを押す。
一つ角を曲がってからバスが停止し、亮太を先頭にして三人はバスを降りた。

道案内として亮太が歩き出し、京子とあんずはその一歩後ろをついて歩く。
亮太は時々肩越しに後ろを振り返り、二人がついて来ているのかを度々確認しているようだった。
その背中が酷く小さく、縮こまっているように見える。





「チビだな」





思った事をそのまま口に出した京子に、あんずが溜息を吐く。





「聞こえるよ」
「事実だろ」
「男の子ってそういうの気にするんだよ。羽山君だってそういうこと言われたら……」
「あいつの神経がそこまで細いと思うか」





羽山龍弥は、いつでもマイペースだ。
にこにこ、ふわふわと笑みを浮かべていて、大人しいと言えば大人しいが、それより“掴み所がない”と言うのが正しい。
そんな彼の人となりを最もよく理解しているのは、幼馴染の京子である。

そうでなくとも、京子の“幼馴染”で、今も一等仲の良い人物だ。
オブラートを忘れたような京子の物言いに耐えるか、受け流せなければ、彼女との付き合いは続かない。

例えに出した人物が悪かった、とあんずは思った。





「ってゆーか……京子にしてみたら、男の子もほとんどチビになっちゃうんだろうねー」





京子の身長は170cmを越えている。
日本人の平均身長が男女共に伸びつつあるとは言え、それでも誰も彼もが平均身長に達している訳ではない。
女性の平均身長が160cm前とあするなら、京子は十二分にそれを上回っている。

お陰で、身長も身体つきも小柄なあんずは、見上げなければ京子の顔が見えない。
子供の頃から背の小ささがコンプレックスなあんずにとっては、羨ましいやら、妬ましいやら。


しかし、京子はそれをどうとは思っていない。
寧ろ、自分の身長が高い方に部類するとすら、思っていなかった。





「そんなモンでもねェだろ。親父も無駄にでかいし、右京にゃいつも見下されるし」
「あの人は京子のこと、見下してはいないと思う……」
「龍弥の身長もオレと同じぐらいだろ」
「うん、だからそれがね、……もういいや」





龍弥の身長は、決して低くない。
京子と並ぶのだから、彼も170cm以上はある筈だ。

しかし、それ以上に、京子の周囲には背の高い人物が多い。
あんずも何度か逢った事があるのだが、京子の父は本当に大きい。
初めて逢った時、熊か何かだと思った程である。


京子は、自分以上に背の高い人間に囲まれる事が多かった所為で、自分も背が高いとは思わなくなってしまったのである。





「ってかな、あんず。オレがチビだっつったのは、身長の話じゃねェよ。確かに身長もチビだけど」





京子のあの呟きは、縮こまった亮太の背中を見て抱いた感想だ。
この時、京子は亮太の身長のことなど、全く気にしていなかった。


亮太は中学二年生だ。
遅い者はこの頃から身長が伸びるようになり、気がついたら180cm越え、なんて事もザラだ。
京子もそのタイプであったから、其処については気にしていない。

気になったのは、普通に背を伸ばしていても小さいであろう体を、隠すように庇うように丸くなっている事だ。
ただ通りを歩いているだけの今でさえ、何かに怯えて隠れようとしているように見える。





「蹴りてェな」
「なんで!? 駄目だよ!?」





呟かれた物騒な言葉に、あんずが声を大にして止める。





「やらねェよ。やらねェけど、蹴りてェ」
「駄目だからね。そー言って京子、ついって感じでやっちゃうんだから。駄目だからねッ。塚川の子じゃないんだから」
「だから分かってるって」

「……あ、あの、……」





止めるあんずと、聴いているのかいないのかと言う風の京子。
そんな二人に、前を歩いていた亮太が振り返って声をかけた。





「ここ、です。僕の家……」





言って指差した建物を見上げれば、赤と黄色のコントラストの看板。
営業中の看板を掲げた引き戸も、中華系のカラーが使われていた。


カラカラと引き戸を開けた亮太が、ただいま、と蚊の鳴くような声で帰宅の挨拶。
店の中には既に客が入っており、三十席ほどのテーブルは殆ど埋まっていた。
めいめい何某かの話題で盛り上がっている店内に、亮太の小さな声は殆ど消されて届かなかった。

それでも、扉が開いて外気が滑り込んだ所為か、入り口傍の席に座っていた客が亮太の存在に気付く。





「女将さーん、亮太君が帰ったぞー」
「ああ、はいはい。はい亮太、お帰り。さっさと鞄置いて、こっち手伝っとくれ」





カウンター向こうの厨房から顔を出したのは、亮太とは正反対の、恰幅の良い女性だった。
ふくよかな体型をしており、紺色のエプロンに三角巾を身につけて、服の袖は肘上まで捲っている。
帰宅した息子に手短な挨拶をすると、また直ぐにラーメン作りに戻った。

がやがやと賑わっている店内に亮太が入り、京子とあんずも続く。
それを見た客の一人が、おお、と目を丸くして声を上げた。





「亮太君がガールフレンド連れてきたぞー!!」
「は??」
「い、いや、違、違います、あ、あ、」





一人の客の大きな声に、店内がざわめき、三人に視線が集中する。
突然の事に京子とあんずは呆気に取られ、亮太は慌てて首を横に振るが、周囲は全く聞いていない。





「おお、しかも二人!」
「亮太君も隅に置けんなぁ」
「女将さーん、こりゃ大事件だぞ!」





本人達を置き去りにして、客のテンションは一気に盛り上がっていく。
亮太が違う違うと言ってはいるが、彼の声は小さなもので、野太い男達の歓声に完全に掻き消されていた。
彼の母である筈の女将はと言うと、あれまぁ、と目を丸くして京子とあんずを眺めるばかり。

京子とあんずは何がなんだか分からず、ぽかんとして入り口横で立ち尽くすしかないのだった。







































「―――――なんだ、そういう事だったのかい」





ヒートアップした客が一通り落ち着いて、亮太は着替えてくると言って店の二階に上がって。
京子とあんずが空いていたカウンター席に座った所で、ようやくあんずが事情説明をした後。
残念なような、予想通りのような、眉尻を下げた複雑な表情で、亮太の母・香苗が言った。





「それじゃあ、今日はサービスしないとね。なんでも好きなもの頼んで頂戴」
「あのー…あたしはくっついて来ただけなんで、」
「いや、構わないさ。亮太の面倒見てくれた子のお友達だろ? さ、どんどん注文しておくれ」





遠慮しようとするあんずに、香苗はからからと笑う。
それならお言葉に甘えようと、あんずも京子と同じように壁にかけられたメニューを見渡す。


ラーメン、餃子、チャーハン、小龍包など、他にも中華の定番料理がずらりと並んでいる。
ラーメンのトッピングも豊富で、あんずはどうしようかなぁ、と目写りしてしまう。

その隣で、京子は早々に注文を決めた。





「チャーシューメンと餃子、あと小龍包二個。ラーメン大盛りで」
「あいよ」
「京子、太るよ。あたしはラーメンと、ハーフチャーハンお願いします」
「動いてるから問題ねェ」





備えられているラー油のビンを弄びながら、京子はあんずの忠告にけろりと返す。


香苗は早速調理に取り掛かりながら、書いたばかりの注文票をしげしげと眺め、





「よく食べるんだねェ。亮太にも見習わせてやりたいよ」
「あんまり食べないんですか? 亮太君」
「そりゃそうだろ。あんなちっせー声でボソボソ喋るなんざ、腹に力入ってねェ証拠だ」





やはり此処でもオブラートを忘れる京子に、あんずが焦った表情で京子と香苗を交互に見る。
何も親の前で言わなくても、と。

だが香苗の方は気を悪くした様子もなく、寧ろ京子の言う事に同調していた。
本当だよねェ、と呟いて、二階にいる息子の顔を思い出す。
目元を隠す程に前髪を伸ばして、縮こまってばかりの息子を。





「昔はもうちょっと元気な子だったんだけどねェ」





―――――あれが?

京子とあんずの頭に、共通の言葉が浮かんだ。
無理もない、二人が見たのは縮こまっている亮太だけなのだから。


顔を見合わせる二人に、香苗は背を向けたまま、調理を続けながら質問する。





「お嬢ちゃん達は、西成の生徒じゃあないねえ」
「せいせい……」
「私立中学の名前だよ。亮太君の制服の所」





聞き慣れない名前に目を点にする京子に、あんずが説明する。
そんな名前だったのか、と京子は呟いたが、どうせ覚えないだろうと言う自覚はあった。





「あたし達、塚川高校なんです」
「ありゃ、高校生だったのかい。それにしても、塚川ねえ……隣町だったよね?」
「はい」
「亮太にしちゃあ随分冒険したんだねえ」





たかが隣町、されど隣町。
京子にとっては大した距離ではないし、あんずにとってもそうだが、どうやら亮太にとっては違うらしい。
バスを一つ乗り換えて、片道約二十分の距離と言うのは――――用事がなければ行かない距離、かも知れない。


店奥の従業員用のドアが開いて、エプロンを巻いた亮太が入ってきた。
彼はきょろきょろと店内を見渡して、カウンターに座る京子とあんずに目が留まる。

視線に気付いた京子が振り返れば、確りと、二人の視線が正面からぶつかった。
亮太の肩がビクッと跳ね上がり、直ぐに視線が逸らされる。
いそいそと言う擬音が似合う所作で、亮太はカウンター奥の厨房に入った。





「遅いよ、亮太。洗い物しといておくれ」
「うん」
「はいよ、お嬢ちゃん。チャーシューメンとラーメンお待ち!」





京子とあんずの前に注文の品が置かれる。





「美味そうだな」
「いただきまーす!」





二人揃って両手を合わせてから、箸を取る。


京子は熱い麺を少し冷まして、一気に啜る。
空腹に耐え切れない時などは、火傷するのも構わずに掻き込むこともあった。
男顔負けに豪快に食べる事も珍しくない。

その隣で、あんずはちゅるちゅると少しずつ。
対照的な食べ方をする二人の少女を、香苗は面白そうに眺めていた。





「良かったらまた食べにおいで。亮太の恩人だ。隣町はちょっと遠いかも知れないけど、サービスするからさ」
「ん」
「もー、ちゃんと返事しようよ……」





京子の返事は、完全に生返事だ。
彼女の意識は、現在、食べる事のみにベクトルを傾けている。
おざなりな返事にあんずは注意するが、香苗はやはり豪快に笑い飛ばすだけだ。


――――――と、京子が箸を止める。
スカートのポケットに手を突っ込んで、取り出したのは赤い光沢のあるシンプルな携帯電話だった。
汚れたパンダのストラップがついている。





「羽山君?」
「いや………」





折り畳みの携帯電話を開いて、通話ボタンを押す。
そんんあ彼女の表情は、ラーメンを食べていた時とは違い、渋面一色となっていた。





「なんだよ、今飯食ってる……は?」





電話向こうの相手に嫌そうに言った京子だったが、一転、きょとんと瞬き一つ。
隣で様子を見ていたあんずが京子の顔を覗き込む。
尖っていた目尻が丸くなると、彼女のまとっていた険が一気に消えて、少し幼くなって見えた。

京子が勢いよく振り返る。
椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、店内をきょろきょろと見渡した。


そして、京子と同じように携帯を耳に当てていた一人の男に目が留まる。





「――――――なんでお前がいんだよ!!!」





賑やかだった店内の声が一気に沈静化するほどの大声で、京子は叫んだ。



京子の声が反響した数秒間、客は皆静まり返っていた。
しかし、直ぐにまた各々の会話に戻り、賑やかになる。

そんな中で、一人の男が席を立ち、京子とあんずの下へと歩み寄ってきた。





「や、京ちゃん」
「や、じゃねーよ!」





片手を上げて京子に挨拶をしたのは、ウェーブのかかった黒髪の男。
モデル雑誌か何かに載っていそうな高身長に、無駄な肉のない引き締まった体躯。
腕の服裾からシルバーリングが見え隠れしていた。

京子は八重歯の牙を覘かせながら、近付いてくる男を睨む。
その隣で、あんずはこんにちは、と平静と変わらない挨拶をした。





「右京さん、偶然だー」
「偶然じゃねー! ハメだ! 罠だ! ぜってーそうだ!!」
「はは、相変わらず酷いねェ」





酷いと言いながら、男の表情は笑顔。
特に傷付いた様子もなく、空いていた京子の隣の席に腰を下ろす。

出来上がったハーフチャーハンをあんずに差し出して、香苗が男に目を向けて、





「なんだい、お兄ちゃん、知り合いだったのかい?」
「ええ、まぁ。昔からのね」





笑みを湛えて香苗にそう答える男の名は、鳴宮右京。
京子にとっては兄のような―――言えば彼女は全力で否定するが―――存在であった。





「なんでお前はオレの行くトコ行くトコ沸いて来るんだよ!」
「運命かな?」
「止めるな、あんず! こいつぶっ殺す!」





箸を握って、今にも突き立てんばかりに噛み付く京子に、あんずが必死で止めようとしている。
裏表のない京子だから、やると言ったら本当にやるのだ。
それは右京と言う男もよく知っていた。

しかし右京は笑みを崩さず、その場から逃げる様子もない。
椅子に座ったままでのんびりと京子を眺め、今日も元気だねえ、などとのたまっている。


あんずに止められながら右京を睨みつけていた京子だったが、完全に暖簾に腕押し。
あんずを相手にしている時のように制止がかかる訳でも、亮太のように怖がって逃げ腰になる事もない。

京子はぎりぎりと歯を鳴らした後、右京に背中を向けて椅子に座った。
回転するタイプの椅子なので、ちょっと体を捻れば、見たくないものから目を逸らせる。
代わりにあんずの目の前には、不機嫌全開の仏頂面の京子の顔があった。


食事の再開をした京子に代わり、あんずがもう一度右京に挨拶をする。





「こんにちは、右京さん」
「ああ。驚いたね、二人がこの店に来るなんて」
「ちょっと色々あって……ね、京子」
「フン」





機嫌を損ねた京子は、会話をする気が失せたらしい。
黙々とラーメンを啜り、出来上がった餃子にも箸をつける。





「右京さんはこのお店、よく来るんですか?」
「週一ペースかな。うちの事務所が近いんだよ」
「へー、この辺だったんだ。京子、知らなかったの?」
「知らねェ」





最低限答えると、京子はまた口を噤む。
右京の方はちらりとも見ようとしない。
しかし右京の方はじっと京子を眺めており、その視線を感じるのか、京子は若干居心地が悪そうだ。


眉間に皺を寄せてスープを啜る京子に、右京が手を伸ばす。
くしゃりと茶色の髪を撫ぜられる感覚に、京子は猫のように頭を振ってそれを振り払う。





「触んなッ!」
「ごめんごめん」





振り返って睨む京子に、右京はくすくすと楽しそうに笑って詫びる。
京子は目尻を尖らせて右京を睨んだが、やはりまた暖簾に腕押し。
空になったラーメンドンブリを置いて、小龍包に箸を伸ばした。

不愉快、と極太マジックで書いたような顔をしていた京子だったが、小龍包を口に含むと、僅かにそれも引っ込んだ。
それを見る右京の目は、誰の目からみても、優しげな色を浮かべている。


―――――ガチャン、と派手な金属音がしたのは、その時だ。





「何やってんだい、亮太!」





音と香苗の声とで、客の視線が厨房へと向く。
流し台に立っていた亮太が、手を滑らせて皿か何かを割ったのだと、周知するまで然程時間はかからなかった。





「ご、ごめんなさい…」
「全くもう……ああ、ごめんなさいね。皆さん、お気にせず」
「亮太君、大丈夫かぁ?」
「は、はい……すいません…」





誰が見ても分かるほどに縮こまってしまう亮太に、客の方から「大丈夫、大丈夫」と宥める声が飛ぶ。
縮こまったまま、焦りながら流し台を片付けようとする亮太は、どう見ても危なっかしく映る。



それを横目で見ながら、京子は呆れるしかない。


外にいる時だけでも蹴飛ばしてやりたいくらいに縮こまっていた背中は、安心できる筈の家に帰ってもこうなのか。
一体何に怯えているのか、何を気にして萎縮しているのか。

そう言えば、京子とあんずが店に来てからも、何人か客は入れ替わっているというのに、「いらっしゃいませ」と言う声すら聞いていない。
洗い物を任されてから淡々とそれをこなす姿は、よくよく思い出せば―――朧にしか記憶に残ってはいなかったが―――真面目と言うより、自分の存在を出来るだけアピールすまいとしているように見受けられた。


母に言いつけられて、割れた食器と一緒にゴミを捨てに行く亮太。
その丸まった背中を見て、やっぱり蹴飛ばしてェな、と京子は思った。





「大丈夫かな、りょーた君。指切ったりしてないかな?」
「したって大した怪我じゃねェだろ」
「はは。京ちゃんにしてみれば、骨折だって大した怪我にはならないからねェ」
「お前は一々口出すな」
「おっと。悲しいねェ」





言いながら、右京はいつまでも笑顔である。
京子はもう睨む事もせず、二個目小龍包に口をつけていた。





「―――――さてと。京ちゃんに構って貰えそうにないし、俺はお暇するかな」
「早く失せろ」
「はいはい。じゃ、明日は迎えに行けるからね」
「来るな!!」





寂しいねえ、あはは。
言って右京は席を立ち、伝票を持ってレジのあるカウンター端へ向かう。

あんずはなんとなく、支払いを済ませる右京を目で追っていた。
すると店を出る直前、右京がひらひらと此方に向かって手を振るのを見つける。
恐らく京子に向けての挨拶なのだろうが、京子は彼をちらりとも見ない。
代わりにあんずが手を振った。


さよならの挨拶くらいすればいいのに。
そう言ったあんずに、京子が返した言葉は、「図に乗るから断る」というものだった。







































亮太を助けたお礼。
とは言え、タダで飲み食いして堂々と帰るのは、京子とて若干気が引けた。
一番安い小龍包の代金くらい、と言ったものの、香苗は受け取らない。





「それより、また食べに来て頂戴な。もうタダでって訳には出来ないけど、サービスするから」
「……んー……じゃ、そうする」
「ああ、宜しくね。しかし亮太の奴はまだ戻って来ないねェ、何処で油売ってんだか」




亮太はゴミ出しから戻った後、出前の注文を受けて配達に行った。
何処に行ったのか京子とあんずは知らないが、香苗の口振りからして、そう遠くはないのだろう。
店の方は香苗一人でも回せる状態だが、やはり人手はあるに越した事はないのである。

帰り道で見かけたら小突いておいて、と言う香苗に、あんずは「本気でやっちゃダメだからね」と京子に釘を刺す。


ご馳走様でした、と挨拶をして、京子とあんずは店を出る。
出た所で、二人は足を止めた。





「―――――あ、」
「帰って来てんじゃねーか」





丁度、店の前で配達の岡持ちを乗せた自転車から降りた亮太がいた。





「美味かったぜ、ご馳走さん」
「あ、は、はい。ありがとうございます」
「また来るね」
「は、はい」





感想と挨拶を手短に述べて、京子は直ぐに踵を返した。
蓋の壊れた鞄を肩に担いで歩く彼女は、もう振り返るつもりはないだろう。

あんずもそれに続こうとして、





「あ、あの、城野さん」





呼ばれてあんずが振り向くと、亮太が俯いていた。
ちらりと京子を見遣ると、店の横にあった煙草屋に設置されている自動販売機の前で立ち止まっている。

あんずが亮太の下に戻ると、もじもじと手を組んでいる。





「どうかした?」
「あの…あの、さっきの……」
「さっき?」
「…あの…格好いい人……」





さっきの格好いい人。
誰のことだろうと数秒考えてから、鳴宮右京の顔が浮かんだ。





「右京さんがどうかした? って言うか…右京さんの事なら、あたしより京子の方がいいよ」





右京は京子の知り合いであって、あんずは京子を間に挟んで会話をする位しか接点がない。
京子といつも一緒にいるので、逢う頻度は高いけれど、あんず自身は彼のことは何も知らないのだ。

京子を呼んで来ようか、と言い掛けて、あんずは気付く。
店の赤い看板に照らされた亮太の頬が、看板の光沢とは違った赤みを帯びている事に。
あれ? とその差異に心の中で首を傾げた所で、




「あの人、……汪嶺寺さんの、……………ですか」





聞き取れなかった一部分が何であるのか、あんずには少なからず予想できた。
多分、それで間違っていないだろう事も。










違うよ、と言った瞬間、心なしか、亮太の表情が明るくなった。

でも、だからと言って――――――彼の想いが彼女に届くかと聞かれたら、あんずは答えられなかった。