其ノ肆








一度意識を飛ばして、しばしの時間が経って目覚めた時。
京一を包んでいたのは上質の敷布の柔らかさで、頬に優しく触れる手があった。

反射的に頬に触れる手を振り払って起き上がると、その手の主である男は、いつもの柔らかな笑みを浮かべていて。




「おはよう。と言っても、丑三つ時だけどね」




傷付いた様子も、憤る表情もなく、飄々とした顔でそう言った。
無言で京一が睨み付ければ、肩を竦めて見せるだけ。


火の入った火鉢を傍に寄せて暖を取る八剣。
格好は情事を始める前と同じ、薄紅色の着物に緋色の羽織りを着込んだ格好に戻っている。

対して京一は肌襦袢を着てはいたものの、情事前に纏っていた艶やかな着物は脱いだままだ。
行為の最中に裸身になったと思うのだが─────恐らく、この男が着せたのだろう。
躯を冷やせば体調を崩す原因になるから。



行灯の油は随分と減ったようだが、八剣はまだ帰る様子がない。

行灯の隣に立てた香の上で線香の燃え尽きた後が残っている。
新しい線香が立っていないのなら、八剣は此処で一夜を明かす算段なのだろう。




「次の客の事なら心配しなくていい。今晩は俺が独り占めさせて貰う事になったから」




杯を片手に上機嫌に言う八剣に、やっぱりな、と京一は息を吐く。



布団を出て八剣の隣に腰を下ろす。
盆に置かれていた徳利を手にし、八剣の杯に傾けてやった。


こう言った仕草や作法については、此処で生活するようになってから嫌と言う程叩き込まれた。
女のように傅く様や、歩き方一つにも随分と教わったし、男を誘う術も教えられた。

だが、京一はそれら教わった物事を殆ど守ろうとしない。
生来の気性の激しさと気の強さ、いざともなれば荒事にも躊躇わず、いっそ陰間としてではなく用心棒として生きていく方が似合うのではないかと楼主に揶揄された事もある程だ。
別にその道でも京一自身は構わなかったが、揶揄された頃には既に固定の上客がついていた為、選ぶ事は出来なかった。


客に酌をする時、返杯を貰う時。
京一は仕草こそ教わった事をなぞらえるが、表情は大抵憮然としているし、最後までその姿勢を守る事も少ない。
相手によっては酌さえせず、自分が飲む分も手酌で、胡坐をかいて過ごしている事も多かった。



八剣は京一の酌で注がれた酒を喉に通す。
それから、隣に座す京一の頬に手を滑らせ、顔を覗き込んだ。




「眠いのなら、寝ていていいよ」
「………」
「京ちゃんの寝顔も良い酒の肴になるからね」




おどけたような八剣の口調に、京一の眉間に皺が寄る。




「寝付けないなら子守唄でも唄おうか」
「おちょくってんのか、手前ェ」
「まさか。心配なんだよ。さっきもよく寝ていたし、疲れているようだから」




正面から京一の顔をじっと見詰め、八剣は子供に言い聞かせるような優しい口調で言う。
それが益々、京一の不興を買うのだと、この目聡い男は気付いているのか、いないのか。


頬を撫でる手を打ち払うと、八剣はひりひりと痛みの引く手を摩りながら、やはり微笑む。

殆どの客なら、此処で罵倒の一つや二つを吐いて来るのに。
八剣は京一の言動全てを寛容し、気遣うように躯に触れる。




「俺の事なら気にしなくて良い。勝手にやっているから」




言って、八剣は手の中の杯を見せる。

それに注ぐ酒の入った徳利は、京一が手にしているもの以外にも、数本が盆に並べられている。
転がっている一本の中身は空になっているらしく、恐らく、京一が寝ている間に空けたのだろう。


八剣の手が開いた状態で京一の前に差し出される。
何かと思って顔を見れば、「手酌でいいよ」
と告げられた。
酌もしなくていいから寝ていろ、と言うのである。




眠いのか眠くないのか。
問われれば、正直眠い。

此処にいるのは八剣と自分の二人だけだから、眠っても問題になる事はないだろう。
こう言った場面は既に何度も遭遇して来た事で、実際、京一が行為の後に意識を飛ばすと、八剣はそれ以上情交に持ち込もうとはしなかった。
気怠さに身を任せて、八剣に告げる前に眠っても、寝込みを襲われた事さえない。

だから今日も、このまま二度寝に更けこんでも、八剣は宣言通り手酌酒で一夜を明かし、いつものように揚げ代を置いて行くのだろう。


だが、八剣が許すからと言ってまた眠るのは、京一はなんだか嫌だった。
理由はない。
ただ目の前の苦手な男に、疲労も気分の浮き沈みも、全て見透かされているように思えるのが気に入らない。




「………もう一回」




八剣の緋色の羽織りに手を伸ばし、握って、京一は呟いた。
言葉の意味を汲み損ねた八剣は、いつもの笑みを浮かべて「うん?」と聞き返す。


京一は八剣の首に腕を絡め、予告なしに顔を引き寄せると、口付けた。




「………!?」




滅多にない事が突然起きたからだろう。
珍しく、八剣が瞠目して笑みを崩しているのが見えて、京一はしてやったりと気分が上向くのを感じた。


膝立ちになれば、上背のある八剣よりも京一の目線の方が高くなる。
いつも見上げる顔を珍しく見下ろしながら、京一は口付けを深いものへと変化させて行く。

最初は驚いていた八剣だったが、数秒もすれば現状を把握し、応えて来た。
切れ長の眦と近い距離で交わる、常に強気な光を灯す瞳は、少しずつ熱に侵食されて色を変える。
八剣の手が京一の項をなぞり、後頭部に添えられた。




「ん、んッ…っは……あむぅ…」




京一から客へと口付けをする事は、実に珍しい。
与えられれば受け入れるけれど、与えようとはしないのが京一だった。

誰かに義理立てしていると言う訳でもない。
口付けを京一自身が好きではないから、自ら進んでする気にならない、それだけの事だ。
八剣はそれを知っている─────だから、さっき表情が崩れる程に驚いたのだろう。



瞳が艶の暈に覆われた頃になって、京一はようやく、八剣を解放した。

仕掛けた京一は熱に浚われていたが、八剣の方は至って平静としている。
くたりと力を失って凭れ込む細い肢体を、八剣は下から掬い上げるように支えた。
京一は男の腕に支えられながら、その男の背に腕を回し、耳に顔を近付けて吐息がかかるように囁く。




「もう一回、しようぜ」
「……京ちゃん、」
「時間あるんだろ? だったらやろうぜ」




白い肌襦袢が滑り落ち、京一の肩が外気に晒される。
上半身を晒し、腰に着物を纏わりつかせて散らばらせる様は、淫靡で妖しげなものがある。

だが、八剣の手は京一を支えたまま、動こうとはしなかった。
眉根を顰めて、諌めるように京一を見詰めるだけだ。




「ンだよ、勃たねェか? じゃあその気にさせてやるよ」




言って八剣の下肢へと手を伸ばした京一の手を、掴む手。
無論、八剣の手であった。




「……京ちゃん」
「なんでェ。興が冷めるような事言うんじゃねェぞ」




眦を細めて言った京一に、八剣は口を噤んだ。
その顔を見て、京一は口元に笑みを透きながら、苛立つ自分を自覚する。


腹が立つ筈だ。
こんな言動を繰り返す人間を相手にしていたら、面倒だと思う筈だ。

だのに、この男は京一が何を言っても何をしても、決して怒りを見せる事はない。
いつもの笑みは今は形を潜めているけれど、腹を立てたと言う様子は欠片も感じさせなかった。
罵倒もなければ打つ事もなく。



何がしたいのだろう、この男は。
自分にどうあれと言いたいのだろう。




口を噤んだ八剣であったが、掴んだ京一の腕を離そうとはしない。
振り払おうと少し力を入れて腕を揺らしたが、八剣はそれを赦さなかった。




「離せよ」
「駄目だ」
「……ッ!」




近い距離で閃いた光に、京一は一瞬、息を飲んだ。

八剣は決して京一を貶める事をせず、この時もそれは同じだったが、瞳の奥には確かに物騒な色がちらついた。
肥え太った幕僚等よりも余程危険な気配を漂わせるそれに、京一は微かに戦慄した。


見据えた京一の瞳が揺らいだ直後、八剣はいつもの掴み所のない笑みをまた浮かべていた。




「無理は良くない。今日はもう寝ているといい」
「─────ん、ぅッ」




お前の言う事なんか聞きたくない。
そう言い掛けた京一の唇を、八剣は己のそれで塞いだ。

噛み付くような口付けの勢いに押されて、京一は背中から畳へと落ちた。
しかし打ち付ける痛みが来ることはなく、背に回された八剣の腕が京一の躯を寸での所で支える。
そのまま、口付けたままでゆっくりと、京一は畳へと横たえられた。




「ん、ふぅッ……んんぁ……」




舌を捉えられて絡められ、京一の喉奥から苦しげな吐息が漏れる。
貪るように繰り返される口付けを、京一はぼんやりと受け止めていた。


─────怒って、る?

口付けを受け入れながら、亡羊と間近にある男の顔を見上げながら、思った。
それから、何をどう怒らせたのか、理由を考えてみる────けれども、判らなくて直ぐに思考は放棄した。




「ふッんぅ……んく、ふはッ…ぅん…!」




激しい口付けの後にあるのは、やはり情交だろうと京一は思っていた。
侵入した舌が歯列をなぞりる感触に、快感を煽られながら、結局こいつも“男”で、自分は“雌”なのだと。
男を咥える為に作り変えられた躯が作る現状は、やはりこういう結果なのだと。

だったら判り易くて良い。
今後、八剣がどんな姿をして現れても、本性を此処で知る事が出来たから。


唇が解放された時には、頭の芯まで熱に塗れて溶かされていた。
薄い胸板を上下させて零れる呼吸は艶を含み、苦しさと僅かな快楽で肌は赤みを帯びている。
口付けの名残を追うように、舌がちろりと姿を見せ、離れた快楽を追うように揺れた。



もう直ぐ来る。
理性を剥ぎ取る本能が。

そう、思っていた──────なのに。




「ッあ……?」




ふわりと躯を浮遊感が襲い、京一は目を白黒させた。
熱の余韻を残した頭を持ち上げてみれば、八剣が自分を抱え上げているのが判った。


先程まで自分が寝ていた敷布の上に下ろされる。
畳の上は背が痛くなるから、それを考慮してのものだと思った。
態々ご苦労な事だ、と。

そのまま敷布の上に横になっていると、八剣の手が肌襦袢の袷に添えられる。
来たな、と京一は思った。



だが、その後に覆い被さってくるであろう重みが来る事はなく。
緩くなっていた袷はきちんと締められて、掛布が肩の高さまでかけられた。




「……おい……」
「うん?」




眉間に皺を寄せて不機嫌も露に声を漏らせば、あの笑顔が見下ろして来る。
妙な所で退こうとしない、あの笑顔が。




「夜明けまで、まだ一刻以上はあるだろう。眠るといい」
「じゃねェよッ、手前─────」




苛立ち露に起き上がろうとした京一の肩を、八剣の手が押して留める。
中途半端に身を起こしたそれ以上、京一の躯は動いてはくれなかった。
力任せに押し付けられている訳でもないのに。

ただ、見上げた先であの笑顔がじっと見詰めているだけなのに。


座敷内に沈黙が下りる。
あるのは絶える事のない香の匂いと、ゆらりと揺れる行灯の明かり。

沈黙時間は長いようで短いようで、京一にはよく判らなかった。
その間に何度か口を開閉させたが、何を言おうとしたのかは自分でもよく判らないままで、結局閉じる事となる。
八剣はその様子をただ笑みを透いて見下ろしているだけで、何も言わなければ、もう手を伸ばしても来なかった。




奇妙な客だ。
苦手な男だ。

優しい手付きも、気遣うような言葉も、京一には意図が読めなくて不可解だ。
眠っている間に痛めないようにとの配慮なのか、いつの間にか抜かれていた彼岸花の簪もそう────あんな値打ち物なら、女に渡せば良いだろうに。
どうして京一を喜ばせようと頭を悩まし、あんな高価なものに手を出すのか、京一には理解できない。


この男も、他の男と同じで、欲望の見返りを欲しいと言うのなら、判り易くてもう悩まなくて済んだ。
今夜のこの出来事で、遂にこの男の本性が見えると思ったのに、結局空振りだ。

また、苦手だと言う意識だけが根強くなる。




「大丈夫。何もしないから」




そう言って笑んだ言葉の通り、八剣はもう、京一に何かしてくる事はないだろう。
先刻、京一が促しても拒絶したのが何よりの証拠だった。



体の力を抜いて、京一は布団に横たわった。
それ以外、今自分が選べる選択肢はないようだったから。

寝転んだ京一に八剣は満足げに微笑み、くしゃりと頭を撫でる。
子供をあやすような手付きが気に入らなくて、京一は頭を振ってその手を払った後、ごろりと寝返りを打って背を向けた。
それでもまた伸びた手が頭を撫でたから、掛け布団を引っ張り上げて頭から被ってやった。


完全に拒絶の姿勢になった京一に、八剣はやはり、憤りは見せず。




「子守唄が要らないなら、寝物語でもしようか。何がいいかな───────」




行灯の光に照らされた男の影が、襖にくっきりと映り込んで、それは京一が向いた方向に形を作っていた。


八剣は杯に酒を注ぎながら、天井を仰ぎ、滔々とした口調で話し始めた。
京一がその話を聞いているか否かは、問わないまま。

そして京一も、聞いているのかいないのか自身でも判らぬまま、ただ早く意識を手放す事だけを望んだ。
























体を揺すられる感覚に、目が覚めた。
起き上がって目を開けると、丁度格子窓から室内へと注がれる光を受けて、網膜が痛む。
顔を顰めて微かな痛みを訴える目を擦り、京一は固くなった背筋を伸ばす。

其処で、注ぐ光を遮るように影を作り、一人の男が顔を見せる。




「おはよう、京ちゃん」




柔らかな笑みを浮かべた八剣に、京一は光とは関係なく顔を顰める。

朝一番に見たのがこの顔だったのは、良かったのか悪かったのか。
油の肥えた狸ではなかっただけマシか────と極端な対比を思い浮かべて気を取り直した。


八剣の手が、寝乱れた京一の髪を梳く。
手付きは優しいものであるけれど、京一はそれを甘受する気にはどうしてもなれなかった。
だから結局振り払って、八剣の指が梳いた場所を業と乱暴に掻き乱す。




「髪、痛むよ」
「知るか」




お前になんの関係がある。
京一の言には、音はなくともそんな意も含まれていた。

それを明確に汲み取って、八剣は勿体無いと思ってね、とだけ呟いた。




─────どういう理由か京一は知らないが、八剣は京一の髪を気に入っているらしい。


禿の雪路も、昨日ついたばかりの草汰も、他の陰間の者達も、髪の色は多少の差こそあれど皆総じて黒い。
しかし京一の髪は、色素が薄い所為で、茶色と言うにもまだ明るい色をしている。
どんなに手の込んだ直しを施しても、色が変わる事はなく、光に当たると赤茶色に見える事もあった。

黒い髪は、肌の白さを引き立たせるのに良い役割を担っている。
だが京一は肌こそ日焼けしていないものの、髪色は理想の形を大きく外れていた。


髪の色素が薄いと言う点では、八剣も同様だ。
彼の髪は京一よりも更に薄い色をしており、どういう経緯なのか、黄色に近い色をしている。

……だから京一の髪色に親近感を持って、気に入ったのかも知れない。




枕元に置いていた簪を拾って、京一はどうしたものかと、しばしそれを無言で眺めた。
挿しても良いが、どうせ八剣が帰ったら直ぐに外すだろうと思う。
だったら今から態々身に着けてやる必要はないだろうと。

思っていたのだが、眺めていた金色を、一回り大きな手が取り上げた事で思考は中断される。




「今だけでいいから、ね」




自分が帰るまでは。
そう言って、八剣は簪を京一の髪に挿した。


客が言うなら、そうする事にして、京一は取り付けられた簪をそのままに立ち上がる。




「雪路」




襖に向かって呼び付けると、一拍置いてから引き戸が開いた。
廊下に膝を着いて待機していた禿の少年は、八剣に一つ頭を下げてから京一に向き直った。




「お帰りだ。ジジィに言って来い」
「はい」
「あと─────」




京一は言葉を続けかけて、止めた。

不自然に閉口した太夫に、雪路はきょとりと首を傾げる。
何か? と問い掛ける瞳に対して、京一は前髪を掻き揚げて頭を振った。




「いや、後でいい。それよりジジィに」
「はい」




促されて、雪路は頭を下げると直ぐに立ち上がり、廊下を軽い足取りで駆けていった。

その後姿を何の気もなしに見送っていると、隣に人が立つ。
無論、八剣だ。


八剣は先程梳いた髪に、また指を通した。
何度やった所で京一は自分で掻き乱してしまうのだけれど、そんな事は気にした様子がない。
京一が何度振り払っても彼は繰り返し手を伸ばし、あの柔らかな手付きで触れるのだ。




「大きくなったねェ、彼も」
「………」




八剣が言うのは、雪路の事。
雪路が二年前に京一付きの禿となった時、八剣は既に上客とまでは行かずとも、顔馴染みとなり床入れも済ませていた。
今ほど頻繁ではなかったが、十日に一度は通っていたのではないだろうか。


その頃の雪路は、草汰ほどではなかったものの、今よりも幼い顔立ちをしていた。
綺麗と言うよりも可愛いと言う表現が似合う風で、御河童頭であった事も手伝って、女童にも見えたものである。

それが今はすっきりとした顔立ちに凛とした佇まいで、言い付けられた仕事を須らくこなしてみせる。
最初の時から気の利く子供であったから、仕事に関しては当然の結果とも言えよう。
しかし顔立ちについては、育ってみると鼻が低くて洟垂れ小僧に見えるなんて事も珍しくはなく、大抵は鼻筋を高くさせたり何かしらの矯正を行うことも少なくはないのだが─────雪路は見事な美丈夫に育っている。


京一もそう言った経験はないのだが、廓に随分長くいるから、そういう習慣があるのは知っている。
何にしても先ずは第一印象、顔の器量の良さが大事なのだと。




「今年で十一かな」
「直に十二だ」




予想を立てた八剣に、京一は修正する。
八剣の顔も見ないまま、相手からも見えないように明後日の方向を向いて。




「そう。─────じゃあ、もう直か」




零れた八剣の呟きに、京一は無言のまま。
自分がどんな顔をしているのかも、その時の京一には判らず、判らないままで良いと思う。


髪を梳いていた八剣の手が、京一の頭を撫でた。

振り返らずに掌だけでそれを打つが、八剣は手を退こうとはしない。
所か、肩を抱き寄せられて、京一は八剣の腕に囲われる。




「辛いね」
「………あァ?」
「仕方の────ない事、だけど」
「…………」




耳元で囁かれる言の葉の真意が、京一には判らない。


腕に囲われたままで無言を貫く京一の額に、八剣の唇が寄せられた。

子供をあやすように触れるそれが気に入らなくて、京一は眉間に皺を寄せて八剣の肩を、一つ強く殴りつけた。
それでも八剣は怒ることなく、羽根のような軽い口付けを繰り返す。
仕方なく甘受することにして、京一はされるがままになる。




「辛い、ねェ。まぁそうだろうな。痛ェし気持ち悪ィしよ」
「そうだね。でも、俺が言っているのは其処じゃあないんだけど」




眉尻を下げて笑う八剣に、京一は顔を上げた。
だったらどう言う意味だ、と。




「体の痛みもそうだし、彼自身が嫌な思いをするのも気にはなるよ。彼の事は、二年見てきたからね。短いようで長い。でも、彼を見てきたのは俺だけじゃなくて─────京ちゃんもそうだろう?」




寧ろ、京一の方が雪路の事をよく見ている筈だ。

彼が自分付きの禿となってから二年の間、彼は先輩禿に教えられながら京一の身の回りの世話をした。
京一は太夫としてそれを受けながら、時に下らない雑談を交えた事もある。
客と太夫付きの禿としてしか会う機会のない八剣より、京一の方が断然雪路に詳しい。


それはつまり、雪路と言う存在への愛着も京一の方が深い筈だと、八剣は言うのだ。
此処で生きていく手段の一つであるとしても、彼は確かに京一を慕っていたから、そんな子供が傍を離れて─────深淵へと身を沈めねばならないのは、やはり心苦しい事ではないかと。



しかし、京一は無言だった。
否定はしないが肯定もしない。
答えを考えあぐねている訳でもない。

無関心─────とも取れる表情しか、浮かべなかった。




「……京ちゃん、」




京一の頬に、八剣の手が添えられる。

僅かに上向けられて、二人の瞳が近い距離で交じり合った。
……けれど、直ぐに京一の視線が逸らされる。




「……ん、………」




ゆっくりと唇が重なって、京一の舌に八剣のそれが絡まる。
座敷の襖の敷居に立ちっ放しになっている事や、雪路がいつ戻るかなど考えなかった。
考えても意味がない。



ちゅく、と濡れた音がして、息苦しさからか、京一の頬に朱色が上る。
時間が時間だから、もう情交に及ぶ事はないだろうけれど、貪る口付けの熱さはその瞬間のものと変わらない。


茫洋としていく京一の瞳を間近で見詰めながら、八剣は京一の腰を抱いた。
誰も割り込む隙間がない程に密着し合う躯に、京一は微かに身を捩って逃げを打つ。
だが腰に回された八剣の腕は離れる事はなかった。

次第に瞳に熱が孕まれるようになった頃、八剣の背に細い腕が回される。
けれど其処に意味はなく、ただ形式のように添えられただけのもの。




「んッ……は…ぁ……」




唇が解放されると、京一から艶の含んだ吐息が零れる。

一晩は眠れたとは言え、昨日の内に昼間から躯を酷使されたのが響いてのものだろうか。
京一の躯は口付けだけで力を失い、八剣に支えられて漸う立っていると言う有様だった。


八剣は京一を座敷の中へと運び、布団の上に座らせる。




「見送りはいいよ」
「………」
「それより、無理しないようね」




また子供をあやすような口調で言う。
それが癪に障ったが、熱に攫われた今は睨む気力もなく、無言で見詰める整った面を見返すだけになった。


敷布に座した京一に、八剣の手が伸ばされる。
触れたのは頭で、色素の薄い髪で、其処に差し込まれた緋色の紋様入りの簪だった。
愛でる様に慈しむ様に触れる柔らかな指先に、京一は眉根を寄せる。

それを見て苦笑するように眉尻を下げて見せてから、八剣は立ち上がり、座敷を出て行った。



丁度その時、雪路の影が座敷の障子戸にくっきりと現れる。
本来なら伎楼の玄関口までは最低限見送りする筈の京一が見えない事に、雪路は少々戸惑ったようだった。
お部屋に? と問い掛ける雪路に、疲れているようだからと八剣は言う。
それから、寝ているからゆっくりさせてやって欲しいと、律儀に。

客が言うのならそれで良いのだろうと、雪路は思うことにしたらしい。
迷わぬ足取りで座敷を後にする八剣の背中に、雪路が頭を下げる影が、障子窓に綺麗に映し出されていた。


その後、雪路が座敷の障子戸を開けて中を覗いた時、京一は敷布に横たわって布に顔を埋めていた。

敷布に顔を埋める京一の姿は、およそ太夫らしくはなかった。
しかし雪路は八剣に言われた事もあってだろう、そっと戸を閉めてから何処かへ行った。
多分、草汰の所だ。





敷布に皺が寄る。
無意識の内に、京一の手は薄い布地をぐちゃぐちゃに握り締めていた。




─────何がしたいのか、何をしようとしているのか。
何をさせたいのか、何が目的なのか。

………判らない。


一度目に目覚めた時に微かに戦慄を覚えたものの、それ以上は何もない。
直ぐにあの飄々とした顔に挿げ替えられてしまった。

繭綿で首を絞められているようだ。
でなければ、繭綿に包まれた針を目の前に突きつけられている様な。
柔らかさの奥にあるものが見えなくて、京一は落ち着かない。




右手を敷布から離した。
暫く所在を捜して彷徨ったそれは、やがて頭部へと辿り着いた。
其処でも少しの間右往左往とした後で、指先に硬い物が引っ掛かり────ああ簪だと気付く。

八剣は去ったのだから、もうこれを挿している必要はなくなった。
無造作に髪の隙間から引き抜いて、京一は顔の前へと持って行き、手を離す。


布団の上に落ちたそれは、金属特有の金切り声も上げなかった。




(────…彼岸花)




金色に映える緋色の紋様が目に付いた。




(死人花)

(毒の花)




この花が持つ謂れを知っている。
かと言って、別段、それを丸々鵜呑みにしている訳ではない。

だが、この花の持つ緋色は確かに、人が流した血の色によく似ている。



……花言葉。
あの男は、気が向いたら調べてみろと言ったが、あの男がそれを言う限り、京一に調べる気は起こらないだろう。


死人花だの、幽霊花だの、持って帰ったら火事になるだの、血を吸って生きているだの。
いや、血を吸って生きているのは桜だったか。
とにかく、そんな花が持つ花言葉なんて、きっと碌なものがない。

京一は花言葉に興味はないが、そうとしか思えなかった。







ぱたり、と。
腕を投げ出して、敷布に落としていた簪の切っ先を手首が掠めた。
見逃すほどの微かな痛みが、血の集まる箇所で鳴る。

つ、と。
その場所から膨らんだ緋色は、白粉で人形のように色を失った手によく映えた。




緋色を目にした一瞬─────やはり自分は毒花なのだと、金色に映える紋様を眺めて、思った。

その言葉を彼の男が酷く嫌っていた事は、既に記憶に残っていない。












毎度ながら、思った以上に長くなるなぁ…

本当にうちの八剣は、肝心な所で言葉が足りないと思います(そうさせてるのは私だ(爆))。
そして京一は何処まで行ったら八剣を信用するんだろう……しないんじゃないかな、ずっと…