其ノ拾








草鞋を結んでいると、不意に視界が翳った。
暗くなって見辛くなって手元について不満を述べようとした訳ではなかったが、何故翳ったかの理由だけを確認しようと、頭を上げる。

と、其処には緋色の上掛を羽織った、色素の薄い髪色の年若い男が立っていた。




「失礼」




龍麻の手元を翳らせた事に気付いたか、端的な詫びが述べられる。
龍麻は小さく首を横に振り、また草鞋の紐を結ぶ為に視線を足元へと落とした。



番頭の下男がへこへこと腰を下げながら、男の下へと近付いて行く。




「こりゃあどうも」
「ああ。楼主殿はおられるかな?」
「へいへい、少々お待ちを」




胡麻を擦るように手を揉み合わせながら、下男はいそいそと伎楼の奥へと下がって行く。
男はそれを見送ることはせず、土間横にある腰掛台に座して、腰紐から煙管を抜いた。

煙管に火種を落とし、吹かす様は、よく絵になっていると言って良い。
龍麻に絵のことはよくよく判らないが、ぱっと見て良い風景だと思う程度には、絵と言うものに理解があった。
煙管を吹かす男の姿は正にそれで、粋か洒落た風に受け取れた。


龍麻が煙管に似合うには、まだ二十年ほど早いらしい。
悔しい話だと思いつつ、確かに、十年では足りないだろうと自分に自覚もあった。



草鞋の紐を結び終えて立ち上がった所で、楼主がにこにこと愛想の良い顔をして店先へと現れた。




「これはこれは。今日は、えー……すみませんが、」
「ああ。構わない」




言い澱む楼主の言葉を先に遮って、男は煙管の灰を囲炉裏に落とし、




「身請けを考えているんだが、どうかと思ってね」
「は……」




男の言葉に、楼主の声が僅かに引っくり返った。
それに何故か引っかかりを覚えて、龍麻は暖簾を潜ろうとした足を止める。




「あれを、身請け…ですか?」
「他に俺が買った子がいたかな? あの子以外、俺は貰う気はないよ」
「は、然様で御座いました。あー…しかし、少々、そのー……」




ちらりと龍麻が見遣ってみれば、男はよくよく読めない表情を浮かべていた。
前髪で片目が隠れていると言うのもあるのだろうが、それ以上に、口元に梳いた笑みが全てを眩ませる。

そんな男に見据えられた楼主は、まるで蛇に睨まれた蛙のように萎縮している。




「他に先約でも?」
「いや、そのような事は。ただ、あー…」
「……あの子を身請けするような人間がいると思っていなかった、と。そういう事かな?」





揶揄の空気を含んで告げられた言葉は、正に言い当てたものだったのだろう。
恐縮そうに楼主が身を屈めている。


その有様をじっと見詰める龍麻の視線に気付いたか───そうでなくとも、暖簾の下で延々と立ち尽くす客に不審を覚えたか。
煙管を傾けて煙を吐き出すと、前髪に隠れた男の眼が微かに覘いて、龍麻へと向けられた。

それぞれの双眸が交わった瞬間、龍麻は無意識に拳を握り締めていた。
何某かがあった訳でもなかったが、それでも、“何か”を感じ取ったのは確かだ。



数秒、そうして硬直していた。
ついと先に視線を外したのは、男の方だ。
再び楼主と向き合って、中断していた話を再開させる。




「どれ程になる?」
「は、えー……」




声を潜めて囁かれた数字は、この廓での遣り取りの中でも、法外と言って良い。

周りへの体裁から小声になった楼主であるが、常人を遥かに超える五感を持つ龍麻には確りと聞き取れてしまった。
意図して聞いた訳ではないが、それでも、数字の大きさに龍麻は少々驚いた。


しかし、それを支払う側となった男は、酷く平静とした表情だ。




「ふむ。ま、そんなものだろうとは思ったが、流石に吹っ掛け過ぎじゃないか?」
「いや、はは……」




座する脚を組み替えて、男は口元に笑みを浮かべる。
あの、全てを眩ます笑みだ。



─────いつまでもこうして立ち聞きするのも悪い。

今更ながらそう思って、龍麻はようやっと、暖簾を潜って店を出た。
下男のまたお越しに、と言う言葉が空々しく響く。


しかし、店は出たので良いものの、其処から龍麻の足は中々動こうとしなかった。
往来の邪魔にならないようにと軒先から壁へと移動したのが精々で、壁に背を預けると、足はぱったりと動く気をなくした。
そうして寄りかかった場所には窓があり、その向こう側が丁度店の囲炉裏場となっていた。

聞こえてきた男と楼主の声に、やはり盗み聞きをしているような気分だと、聊か気の悪さを覚える。
だが、そうは思っても、足が動かない事にはどうにもならない。



窓の向こうから聞こえてくる男の声は、淡々としている。
何処かの町の奉行所で聞いた、罪状を読み上げる奉行の声のようだと思った。




「此処は見た所、それなりに良い子を揃えてはいるようだけどね。これはあんたの趣味かな?」




楼主の声は聞こえない。
多分、手揉みをしながら客の機嫌を損ねまいとへらへらしているのだろう。




「あの子もあんたの趣味でこの店に来たのかな。だったら、それだけは感謝しよう。俺とあの子を逢わせてくれた。まぁ、そう思っているのは俺だけじゃあないだろう。あの子に入れ込んでいる下衆は多いからね」




端麗な顔立ちをしていた割に、毒舌家だ。
告げた“下衆”は明らかに自分を除いた人間の事を示していた。

男が誰のことを“あの子”と呼んでいるのかは判らないが、龍麻はなんとなく、それは自分も含まれているのだろうかと思った。



カン、と高い音が鳴る。
見えないが、恐らく煙管が立てた音だろう。




「下衆から身請けの話を受ける度に、そんな額を吹っ掛けているのか?」
「いえ、その……あれはうちの稼ぎ頭でして。禿、新造達もよく懐いております。中々手放せない事情が御座いまして…」
「ふぅん? 俺には、単にあんたが出し渋っているようにしか聞こえないけどね」




いやいや。
乾いた笑いが窓から漏れて来る。




「幕僚ならば買えるだろうが、あれらには女房殿の目がある。どこぞの藩主出の奥方は嫌がるだろうね。陰間を買ったなんて言えやしない。となると、残る心配は俺のような独り身だ。こっちになると、そんな額を払えるような人間は早々いない。東西にある大きな都ならともかくね」




最初から買えない事を前提に、楼主は話を進めていた。
それでも買うと言う人間には、病がどうの生まれがどうのと法螺話も付け加えていたのではないかと男は言う。
そんな事は、と楼主は繰り返したが、それが返って白々しさを濃くしている。




「後はあの子の気分次第。あの子が俺を拒めば、この話は立ち消えだ」
「は……恐れながら、その通りで」
「あんたはそれを最後の砦にしている。あの子が外に出たいと一度として言った事がないからね。受けないだろうと思ってるんじゃないか?」
「いえ…あー、その。はい。何分、外を知らない世間知らずですので……」




廓の中で生きる遊女達の殆どは、外を知らない。
苦界十年と言う言葉があるように、遊郭へ売られた者の殆どは、十年近くをその中で過ごす。
運が良ければ身請けされて外に出る事もあるが、殆どは一生を囲いの中で暮らしていた。

十年の歳月が流れれば、外の世界の事情は幾らでも変わる。
何も変わらないままで残っている場所の方が少ない。
建物の有様がそのままでも、其処に立っている人間の顔は、変わらざるを得なかった。


外の世界へ帰る事に憧れる人間は少なくないが、同時に、外への関わりを諦める人間も多い。



京一もそうだ。
脳裏に過ぎった、自分と同じ年頃であろう太夫を思い出して、龍麻は目を伏せた。


京一は外の世界に興味が無い。
龍麻の土産話はいつも聞いているけれど、覚えている事は恐らく殆ど無いだろう。
先日したばかりの飴細工の話だって、明日まで覚えているかどうか。

いつであったか雪を見た事があるかと問うた時、彼は覚えていないし知らないと言った。
呟いたその瞳に光はなく、彼は随分と昔から全てを捨てているのだと実感させられた。


彼は全てを捨てて、全てを諦め、何も望んではいない。
薄墨でぼかされた煌びやかな世界の中で、彼は何を願う事もなく、ただ横たわって周囲の賑わいから目を閉じている。





「世間知らずねェ。そう育てたのは誰だろうね」




棘のある男の言葉に、楼主の乾いた引き攣った笑い声が零れた。


カン、と二度目の高い音が鳴る。




「あんたが幾ら積ませようと、俺はあの子を買うよ。この話、彼にもきちんと、話しておいてくれ」




きちんと、と言う部分を強調して、男は言った。
この話を楼主が話の中心である陰間へと話さない可能性を、彼は確りと理解しているようだ。


……そうまでして楼主が手放したがらない人間が此処にいるのだろうか。
一瞬考えてから、龍麻の脳裏には直ぐに彼の顔が浮かんだ。
先程考えていたからと言う残像ではなく。

稼ぎ頭で、世間知らずで、外に出たいと一度でも言った事がない、挙句あれだけの高値。
この茶屋に限った話であれば、深く考えずとも、一人しかいない。



京一だ。
あの男は、京一を身請けすると言うのだ。



だから此処から足が動かなかったのだと、龍麻は理解した。
明確に告げられるよりも早く、あの男が所謂“敵”であると本能が感じ取っていた。

あの男の言葉通り、京一に入れ込んでいるのは龍麻も同じだ。
“仮の夫婦”として契りを交わし、一夜の夢に塗れて躯を重ね合い、上滑りの愛を囁き────それが明け方の鴉が鳴けば散る幻想だと判っていても、溺れずにはいられない。
いつか囁く言葉が彼の奥深くまで届けば良いと、淡い期待を寄せながら。


彼が身請けされるという事は、この廓を離れると言う事であり、龍麻が彼に会う手段もなくなると言う事だ。




(それは────嫌だ)




風来坊の龍麻が方々へ散って資金を集め、この廓に戻るのは、京一との逢瀬の為だ。
彼がそんな事を願ってもいないのは判っているけれど、だからこそ、己が望み動かなければ、彼と逢う事は叶わない。

しかし、この伎楼そのものに彼の存在が消えてしまえば、龍麻は二度と彼と逢えない。
金を積みさえすれば叶っていた僅かな逢瀬の時間さえも、泡となってしまうのだ。




からりと引き戸を開ける音がして、暖簾を潜ってあの男が姿を見せた。
またのお越しを、と相変わらず空々しい下男の声がよく通る。


龍麻の足が動いたのは、男が店を出てから直ぐの事だ。
それまで縫い付けられたように寸分も動かなかった足が、今度はその逆に、押されるように歩き出す。

そうして止まった時は、龍麻は男の真正面へと回り込んでいた。




「……何かな?」




薄い笑みを浮かべて問う男に、龍麻は黙していた。
感情を読み取らせない双眸を無言のまま見詰める。



男の身長は龍麻の上を行き、頭一つ分は差がある。
龍麻自身は然程大柄な方ではないが、小さい訳でもなかった。
男は身長に比例して体躯も太いのかと思えば、そうではなく、寧ろ身長の割りには痩せていると言って良い。
撫肩の所為もあるかも知れないが、一見すれば、龍麻の方が逞しく見えるかも知れない。

しかし、その佇まいはただ棒立ちにしているとも思えない。


龍麻が立っているのは刀の間合いよりも幾らか内側に入り込んだ場所だ。
よって、普段であれば先手を間違いなく取れるだろうと思うのだが、この男にはどうもそうはならない気がする。


武芸に秀でた人間と言うものは、本能的に強者を見抜く目を宿らせる。
龍麻自身が正にそれだ。

剣については然程明るくは無い龍麻だが、盛り上がる筋肉や、何気ない足運びを見れば判る。
目の前の笑みを梳いた、優しい所作の男が、相当の強者である事。
そして見た目以上の食わせ物である事も。



無言のまま立ち尽くす龍麻を見下ろして、男はふむ、と一息はいた後、




「俺は君を知らないと思うんだけど、違うかな」
「僕も貴方は知りません」




取り敢えずと言う確認の言葉に、龍麻は頷いた。




「その知らない人間に何か用でも?」




立ち尽くして、睨み合うように見詰めあう二人の男。
よりにもよってそれが陰間茶屋の前とあっては、周囲にしてみれば修羅場に見えた事だろう。

事実、似たようなものだと龍麻は思った。


腹の探り合いをしていても面倒なだけだ。
龍麻は真っ直ぐに男を見詰め、口を開いた。




「京一を身請けするんですか」




告げた名前に、男の眉が僅かに動いた。



─────多分、こういう事はするべきではないのだろう。
普通の恋仲にあるような関係の人間同士ならいざ知らず、彼はこの廓に身を置く太夫だ。
誰かのものであるようで、決して誰のものにもならないのだ。


それを金で買い、一夜に足らない間だけでも己の下に組み敷くのが、叶えられる精々である。
金がなければ逢う事も、その姿を見る事すらも叶わない。

金さえあれば、金がなければ、それによって左右されるのだから、ある人間が望むものを手に入れる為にそれを振り翳すのは何も可笑しな事ではない。
金がないのならば指を咥えて見送る事しか出来ず、強引に奪おうとでもすれば、捕われた後に市中引き回し等ざらにある話だ。
龍麻と目の前の男になぞらえれば、それぞれ後者と前者になる。



真っ直ぐに問うた龍麻に、男は数秒の沈黙の後頷いた。




「ああ。そのつもりだよ」
「……京一は外に出ないよ」




男が何を思って彼を身請けしようと言うのか、龍麻は知らない。
ただ彼が────京一が、この廓を出る事に希望を持っていない事は確かで、それを言わずにはいられない。




「君は────店の回し者、と言う訳ではないようだけど。何が言いたいのかな。まるで彼を取られたくないとでも言っているように聞こえるけど」




確かに、その言葉通りだろうと龍麻も思う。
自分がやっているのは、お気に入りの玩具を取られることを嫌がる子供と同じ事だ。




「……京一は外に出ないよ。出たいって一度も言った事がない」




男の問いに答えず、龍麻は繰り返した。
彼は外に出ない、と。

男は、自分の問いに龍麻が答える気がないと判ったのだろう。
一つ嘆息した後で、店の戸口から身をずらして壁に瀬を預け、口を開いた。




「そうだろうね。あの子は此処から出たいと言わない、言った事がない。そういう選択がある事も、あの子は恐らく知らないだろう」




後数年も立てば、嫌でも太夫と言う肩書きを外される。
男が色を売るのに最適とされる年齢を越すからだ。

それからの事も、京一は何も望んではいない。
今と変わらず男を相手に躯を差し出し、今と変わらない日々が延年と続くものだと思っている。
その予測が外れないだろうとも。


ただ彼を自分の物だけにして囲いたいのなら、それでも構わなかっただろう。
だが、目の前の男はどうにもそれを逸脱しているように、龍麻は思えた。
“京一”と言う“人間”を傍に置いておきたい、と────まるで育もうとしているかのようだ。



龍麻は確信していた。
目の前の男は、京一の事を好いている。

自分と同じように、彼の事を本当の意味で好いていると。




「あの子は何も望んでいない。外に出る事は愚か、自分が何をしたいのかすら、考えた事もないだろう」
「…外に出てもきっと同じだよ。京一は、外の世界に何も望んでいないから」




何か少しでも、外の世界への憧れがあったなら。
壊れてしまった心でも、何かが引き金になる事があったかも知れない。

だが彼の心は壊れることすら忘れたように停滞していて、どんな言葉を囁いても、どんなに熱を共有しても、上滑りになって行く。
受け皿そのものが彼にないのだと龍麻が知るまで、それ程の時間はかからなかった。
現状維持さえも望まない彼には、どんなに煌びやかな贈り物も、遠い地にある物珍しい風景さえも、どうでも良いものなのだ。
紡がれた言の葉は彼にとって偽りでしかなく、遠い地にある見た事のない風景は、幻想にしかならなかった。


彼の世界は、この廓の中で────彼が身を置く伎楼の中で、既に完結している。
終わった物語を新しく紡ぎ直すのは容易ではない。
増して、当人が己の物語はとうの昔に終わったものとして捉えているのだから。

終わった物語が題材を変えた所で、新章等と銘打った物語が紡がれる事はない。
その絵巻物は既に“終わっている”のだから。


人の物語は、人が生きている限り続く。
だが、それはその人が己の物語を終わらせいない時だけだ。

京一の世界は既に完結し、彼はその先を望んでいない。





「確かにね。彼を外に連れ出しても、そう簡単に彼の価値観が変わるとは思っていない」




龍麻の言葉に同調するように、男は言った。
が、でも、と接続詞が続く。




「今のままでいれば尚の事、彼の価値観は変わらない。何も望まないまま、朽ちていくしかない」




彼の内側は、まるで空洞だ。

男は言う。


人は目に見えない器をその身に宿し、その器には生まれた時から様々なものが流れ込む。
愛情、劣等、憎悪、許容────それらによって器は満たされ、時に溢れ、時に乾きを繰り返す。

だが彼の内側が満たされた事は一度としてなく、まるで底が抜けてしまっているかのように明け透けだ。
嘘の愛情に縋ることもなく、打たれた瞬間の痛みすら彼の心に影を落とす事もない。
流し込んだものが全て流れ出て、彼の内側には一片足りと残らない。



彼はその空洞を知っていながら、放置している。
最初に認識した時から空洞だったから、これはそういうものなのだと受け入れてしまった。




「俺はその空洞を埋めたいんだよ。独りよがりだと言われてもね」




満たされていく充実感を、喜びを知って欲しい。
愛されると言う言葉の意味を、その身で感じて欲しい。

告げる男の瞳は酷く優しくて、─────それこそが彼には残酷なんだと、龍麻は思う。




「外に出たら、京一は変わるの?」
「さて、どうかな」
「僕は変わらないと思う」




曖昧な言葉で濁した男に、龍麻はきっぱりと言い切った。
瞬間、男の瞳から柔らかな光が消える。




「京一は外に出たいって思ってない、変わりたいって思ってない」
「だから外に出た所で何も変わらないと?」
「今のままでも何も望んでいないのに、外に出て望むものがあるって、僕は思えない」




どんなに土産話を繰り返しても、彼は一度としてそれを見たいと言わなかった。
全てが彼の琴線に触れる事なく、空洞の中を無為に落ちて行った。

多分、面倒なのだろう。
今になって何かを望む事、それそのものが無駄で面倒なのだ。


それを今更外に連れ出して、何が見えると言うのだろう。
何も望まないまま外の世界に連れ出しても、彼は途方もない世界に立ち尽くすだけだ。




「─────それなら、今のままで彼が変わる事があると思うか?」




打ち消すように問うた男の言葉に、龍麻は沈黙する。


外に出て変わると思えない。
同時に、内側にいて、変わる事などある筈がない事も龍麻は判っていた。

廓の中にいる限り、彼は確かに何も望まないだろう。
望む余地すら此処にはない。
此処が“そういう”場所であると、彼は誰よりもよく知っている。




「俺はね、あの子に笑って欲しいんだよ。嘯くような笑みじゃなく、本当の意味で」




その為には、この小さな箱庭から連れ出さなければ、叶う望みさえ見れない。


“この世界”が俗世と切り離された、甘美な夢を見せる場所である事を、彼はよく判っていた。
だから、その夢の世界で囁かれる言葉や愛は、すべて一夜限りの夢でしかない。
明け方の鴉が鳴いて朝になれば、金で買われた夢は醒め、夢の世界にしか生きられない住人を置いて俗世へ帰って行く。

彼はずっと極彩色の夢の世界に置き去りにされている。
夢が現実世界と何処かで繋がっている事も知らないで。



広い世界に放り出されて、途方もなく立ち尽くすか。
一夜限りの夢の中に取り残されて、目を閉じて蹲るか。

どちらが良いのか、龍麻には判らなかったし、目の前の男も恐らくは判らないだろう。
自分達が願っているのはどちらでもない、彼がいつか本当の意味で己を好いてくれる事のみ。
己の我侭と欲望を貫きたいが為に、彼を付き合わせている事に変わりはない。




龍麻には、目の前の男が語る言葉は、独りよがりの自己満足にしか聞こえない。

けれど否定は出来なかった。
同じ感情が自分の中にもあるのだから。



出来ることなら龍麻とて、彼の身請けを考えた。
しかし方々に行って金を稼いで戻ってくるのが精々の龍麻では、彼を手元に置くだけの資金はそう易々とは稼げない。





俯いて拳を握り締める龍麻を数秒見詰めて、男は踵を返した。
これでこの話は終わり────そう言うように。








遠くなる男の背中を見送った後で、龍麻は彼のいる伎楼を見上げた。
奥まった場所に部屋と座敷を持つ彼の様子は、当たり前だが、此処からは杳として知れない。




……彼は外の世界を望むのだろうか。
この極彩色の夢の中にいるよりは、確かに遥かに良いかも知れないけれど。

望んだ先に何があるのか、見えなくても。










拾壱

彼の幸せを願うからこそ、環境を変えようとうする。
何も望まない彼を想うからこそ、今のままである事を望む。

さて、どちらが正しいか。