みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。






みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。





みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。





みぃん、みぃん……





……………




……かなかな





かなかな、かなかなかな……























蝉が一度静かになって、次はヒグラシが鳴き出した。
木の枝に覆われた空を見たら、蒼じゃなくて茜で一杯になっていた。


いつもなら、もう家に帰り始める時間だった。
時計など持っていないから、正確な時刻は判らないけれど、空がこの色になったら家路についた。
京一も同じで、これぐらいになったら山を降りてきて、龍麻に捕まえた虫を見せて、二人で帰路に。

でも、京一はどんどん前へと進んでいって、手を繋いだ龍麻も前へ前へと足を進ませる。
少し、帰ろうか、と言おうかと思ったけれど、あのつり橋が頭から離れない。
結局、遠いね、こんなに遠かったっけ、と言うのが精々で、後はひたすら前に歩いた。




分かれ道があった。
綺麗に分断されている道。
其処で、京一が立ち止まって、龍麻も立ち止まった。


二人で顔を見合わせて、どっちだろう、考える。
分かれた道の根元に看板があったけれど、文字は消えていた。

どちらに行けばあのつり橋に辿り付くのか、ちっとも見当がつかない。



そうだ。




思いついて、龍麻は落ちていた枝を拾った。
道の真ん中に真っ直ぐ立たせて、手を離す。

ぱたり。

枝は右に倒れた。


龍麻の手を引っ張って、京一が歩き出す。
それに逆らう事なく、龍麻も歩き出した。























かなかなかな。
かなかなかなかな。






かなかなかな。
かなかなかな。





かなかなかな…
……かなかな……





………かなかな、かな……





……………




……ほう、ほう。





ほう、ほう、ほう……























歩いても、歩いても。
探すつり橋は見つからない。

時間だけが過ぎて、気付けば茜の空は黒に変わっていた。


木の枝々の隙間から、白く淡い光が零れてくる。
それが月の光だと知って、龍麻は立ち止まった。
京一も立ち止まった。




「京一、」




言わなきゃ。
言わなきゃいけない。

もう、言わなきゃいけない。



繋いだ京一の手が、小さく震えていることに、本当は随分前から気付いていた。
握った手の力が少しずつ強くなっていることも。

多分、此処で立ち止まってもどうにもならないから、京一は歩き続けていたんだ。
気付けば山道も外れていて、気付いた時には辺りは真っ暗。
そんな時に立ち止まってもどうにもならないから、だから、ずっと前を見て。


もう直ぐ着くんじゃねえか?
結構歩いたろ、だから、多分、もう直ぐだ。

そう言って、京一は笑った。
龍麻の大好きな、麦わら帽子の笑顔だった。


でも、最後にそう言ってから、どれくらいの時間が経っただろう。
京一はもう随分と振り返ってくれなくて、ただ前だけを見て歩いている。





「京一、ごめんね」




京一が前を歩くのは、自分の方が山道に慣れているから。
虫を早く見つけられて、捕まえて、龍麻に見せる事が出来るから。

だから真っ直ぐ、前を見て、歩いて。





「ごめんね」





繋いだ手が震えている。


謝ったってどうにもならないけれど、他に何を言えばいいのか判らない。
帰ろう、と言えばいいのだろうけど、こんな所まで来てしまう切欠を作ったのは自分の方で。
あの時、つり橋なんて見付けたから。





「ごめ、」
「謝んな」





背中を向けたままで、京一が龍麻の言葉を遮った。
もう一度ごめんと言いそうになって、なんとか飲み込んだ。





「………帰るか」
「……うん」





繋いだ手を、もう一度しっかり繋いで。
二人で後ろを振り返って、其処に広がる暗い世界に息を飲む。



田舎の灯りは少ないから、夜になればいつだって真っ暗だ。
月のない日はもっともっと真っ暗で、家の灯りも随分遠い。
自転車の小さな光が、凄く明るく見えたりする。

でも、こんなに真っ暗な世界を、龍麻は知らない。
空から落ちてくる月の雫も、照らしてくれない、そんな世界。


京一が歩き出す。
龍麻も歩き出した。

手を引っ張り、引っ張られじゃなくて、二人で。





ほう、ほう、ほう。





真っ直ぐ歩いて来たつもりで、何処をどう歩いたのか思い出せない。
何かに気を取られて真っ直ぐから逸れたのを覚えてる。
其処から前を向いて歩いたけれど、また何かに気を取られたのを覚えてる。


何処をどんな風に歩いたっけ。
何処に何があったっけ。
何処で何を見たんだっけ。


目印なんて何もなくて、それが益々不安になる。
こっちであってる保障が何もなくて、もしかしたら、反対方向なんじゃないかと。
考え始めたらちっとも道が定まらなくて、最初に向いていた方向から逆を向いて歩くのが精一杯。

前を歩く京一は脇目も振らないで、後ろを歩く龍麻は、周りの景色と記憶の景色を照らし合わせて。
だけど似たような景色ばかりが続いているから、やっぱりあっているのか自信がない。





ほう、ほう、ほう。
ほう、ほう、ほう。



ほう、ほう、ほう。





段々と京一の歩く早さが遅くなって、龍麻も遅くなっていった。



がさり。
傍の茂みが揺れて驚いた。

ざざっ。
頭上の木々がざわめいて、怖くなった。




道はこっちであってる?
こっちに行けば帰れる?

もしかして、帰れない?




見えない何かが、真っ暗な世界へ自分たちを誘い込もうとしているんじゃないかと。
自分で考えたのが怖くなって、龍麻は京一の手を目一杯握り締めた。
痛いくらい。

京一は、同じくらいの力で握り返した。





ほう、ほう、ほう。





その内、立ち止まる間隔が増えていった。
辺りを確認する為じゃなく、もう歩けない、そう思う自分を叱る為に立ち止まった。

段々、歩き出すまでの時間が長くなる。




ひく。




そんな音が聞こえて、龍麻は前を歩く京一を見た。
相変わらず前を見ているから、京一の顔は見えない。

でも、手で顔を擦っているのが見えて、龍麻はじんわり視界がぼやけて行くのを感じた。


京一は、ずっと泣くのを我慢している。
多分、迷ってしまったことを龍麻より早く気付いていて、どうにかしようと一所懸命歩き続けて。
それでもちっとも変わらない景色に、ずっと泣くのを我慢している。



ひっく。



でも、もう限界なんだろう。


立ち止まって、京一の肩が何度も跳ねる。
木刀を持った右手が、白いくらいに力が入っていた。

龍麻は繋いでいた手を解いて、京一の前にまわる。
それに気付いた京一は、麦わら帽子の縁を引っ張り下ろして、顔を隠した。
大好きな麦わら帽子の笑顔は、今は見れない。
龍麻は、それが一番悲しかった。



さらさら、川の流れる音が聞こえた。

龍麻は京一の手を取って、今度は自分が前に立って、音のする方へ歩き出す。
京一は俯いたままで歩き出した。




「川、あったから」
「………」
「ちょっと休もう。僕、ノド乾いた」




京一が小さく頷いた。



辿り着いた岸辺に座って、手で水を掬う。
柔らかな水は、美味しかった。


京一は、川原の石の上に膝を抱いて蹲っていた。
ぎゅうと木刀を握る小さな手が、なんだか酷く心細そうに見える。

龍麻は隣に座って、京一の背中を擦った。





「…っく……ひっ……」




暗い静かな世界の中に、小さく響く声。

座り込んで息を吐いて、もう堪え切れなくなったのだろう。
少しずつそれは大きくなった。




「ひっ…えっ……うぇっ……」
「平気、帰れる。大丈夫」
「うっく……ふ、ふぇっ…」
「大丈夫」



だから、泣かないで。
泣かないで、いつもみたいに笑って。

そうしたら、僕も大丈夫。
まだ歩ける。
歩けたら、家に帰れる。


がさって音も。
ばさって音も。
怖くないから、大丈夫。



だから、泣かないで。




でないと、でないと。





「ひっ…え、うぇ…ふぇっ……」
「…………」





泣いちゃダメ。
泣いちゃダメ。

京一が泣いちゃったから、僕がなぐさめてあげなきゃダメ。
大丈夫だよって、僕が言ってあげなくちゃ。







「う、えっ……ぁ、わ、ぁあ、ああん」
「…ふ、ぇえ、え……」







京一が大きな声で泣き出して。
ぽろり、目から雫が一つ零れるまでが、龍麻の限界だった。


周りの木々の音なんて、水の流れる音なんて、なんにも聞こえなくなるくらい、大きな声で泣いた。
泣いてもどうにもならないと思っていても、もう我慢できなかった。
後から後から涙は出てきて、ぽろぽろ零れて、喉が枯れる位の声で泣いた。



どっちに行けばいいのか判らない。
どっちから来たのか判らない。

帰りたい。
帰りたい。
だけど、帰り方が判らない。


つり橋なんか、もうどうでもいい。
キレイな虫だって、もういい。


お父さんとお母さんが待ってる。
京一のお父さんとお母さんも待ってる。
早く帰らなきゃいけないのに。

帰り方が判らない。
判らなくって、歩けない。




京一が泣いてる。
帰れなくって泣いてる。

龍麻が泣いてる。
帰れなくて泣いてる。


なぐさめなきゃいけないのに。
歩かなきゃいけないのに。







「とーちゃ…とーちゃぁ……わぁああああん…」
「おとぉさぁん…ふえ、え、えぇえん……」







守ってくれる大人はいない。
だから、この子は自分が守ってあげなくちゃ。

だけど、涙が止まらない。





ほう、ほう、ほう。





泣き声が響く。
子供二人分の、大きな大きな泣き声が。





ほう、ほう、ほう。





隙間を塗って、ふくろうが鳴く。





ほう、ほう、ほう。


ああん、わぁん。
うえぇえん。


ほう、ほう、ほう。




がさ。
がさ、がさ。




ほう、ほう、ほう。




がさ、じゃり、ざざっ。

じゃりっ。












「京一!!」














響いた声に、二人の子供の肩が跳ねた。
ぐす、と鼻を啜って、二人で振り返る。


見付けたのは、息を切らして立ち尽くす、見慣れない着物の男の人。
ざんぎり頭に少し強面で、でも今はそれは微塵も感じられない。
不安と焦燥で一杯になった、そんな顔で。

龍麻は少しきょとんとして、誰だろう────と思ってから、そう言えば京一を呼んだと思い出す。
隣を見れば、少し涙の引っ込んだ京一がいて。





「………とー、ちゃん………」




父ちゃん。
お父さん。

京一の、お父さん。



男の人は走って二人の傍まで駆け寄って来て、京一も立ち上がった。





「父ちゃん!!」




飛び込んできた京一を、男の人はしっかり受け止めた。
京一はそのまま、抱き締められてわぁわぁ泣き出した。


バカ息子。
こんなトコまでガキだけで来る奴があるか。
心配させんな。

あぁ、あぁ、怖かったな。
歩き回ったか、頑張ったな。


くしゃくしゃ京一の頭を撫でて、男の人はほっと息を吐いた。
それから、龍麻へと目を向ける。

目尻の形が京一と似ていた。




「お前ェが龍麻か?」




聞かれて、なんとか頷く事が出来た。





「お前ェの親父さん達も心配してる。ほれ、帰ンぞ」





そう言って、男の人はしゃがんで龍麻に背中を見せた。
少しの間考えて、理解して、龍麻はその背中に乗った。

男の人はひょいっと立ち上がって、龍麻の視界が一気に変わる。


腕に京一を抱いて、背中に龍麻を乗せて、男の人は迷いのない足取りで歩き出す。





「ったく……人様の息子まで迷子にさせやがって」
「…………」
「山にゃあな。おっかないもんがあるんだよ。ガキだけで遠くに行くんじゃねえ」
「……うん」
「お前、コイツに怪我させたらどうすんだ。川ァ落ちたらどうすんだ」
「……オレが、助ける…」
「そんでお前も怪我したらどうすんだ。溺れたらどうすんだ。母ちゃん泣くぞ。そんな親不孝ねェぞ」
「………ごめんなさい」
「全くだ。よーく反省しやがれ」





ぐす、と京一の声がした。
龍麻は、男の人の背中でそれを聞いていた。





「龍麻っつったか」
「……?」
「お前もよーく反省しな。同じ事だ」
「おんなじ……」




反芻して呟くと、おうよ、と男の人は言った。



男の人が京一に言った言葉を、頭の中で繰り返す。


京一が怪我をしたら、川に落ちたら。
あの時、あんなに高い木の上から落ちていたら。

助けることが出来て、京一が無事だったら嬉しいけれど、もしも自分が帰れなくなっていたら。
今も帰りを待ってくれている父と母は、どんなに悲しむだろう。
例えば二人がいつまでも帰って来ない日が来たら────龍麻は、悲しくて悲しくて、どうしようもない。
そのまま、一人ぼっちになってしまったら…………



ごめんなさい。
心配かけてごめんなさい。

今は此処にいない両親に、心の底から謝った。
帰ったらちゃんと、もっともっと謝らなきゃいけないと思った。





ほう、ほう、ほう。



ほう、ほう、ほう。





男の人は迷わずに、真っ直ぐ真っ直ぐ、歩く。
歩いている場所が何処なのか、昼間通った道と一緒なのか、龍麻には判らない。


でも少しずつ、馴染んだ香りが感じられて。





ほう、ほう、ほう。



ほう、ほう、ほう。













父と、母の、呼ぶ声が聞こえた。





















夏と浴衣と線香花火
(夏休みで5題 / 2.たまには遠出しようよ)


構想段階でいっちばん書きたかった話。
ネタ粒置き場に書き散らした通りですね。
……って言うか、長いね(滝汗)。

こんな話も、ちみっ子ならでは。
でもってやっぱり京一の父ちゃんが大好きです。