夏休みが終わるまで、あと一週間を切った。
蝉はまだ煩いくらいに鳴いていて、夕暮れにはアカトンボが飛び交う。
小学校のプールは解放されていて、毎日、何処かの家族連れが遊んでいる。
夏山の木々は青々と茂り、川の中ではすいすいと魚が涼しげに泳いでいた。
あと数日もすれば、暦の上の季節は夏から秋へと移り変わる。
それにしては相変わらず暑い日々が続いて、子供達は夏休みが終わるなんて少しも思えなかった。
親に言われて、ほったらかしの真っ白な宿題を急いで片付ける子は、少し違ったかも知れないけれど。
龍麻は、今年の夏が随分早く終わってしまっていくような気がした。
夏休みの日取りは何も変わっていないのに、どうしてだろう。
考えてから、麦わら帽子の笑顔が頭に浮かんだ。
あの男の子が龍麻の前に現れてから、なんだか、何もかもが新鮮だ。
山の麓で一人で絵を描いていたのが、二人になった。
山中に入って虫取りもするようになって、今まで知らなかった虫の色や形も覚えた。
夏祭りも、親子三人だけだったのが、今年は友達と友達のお父さんが一緒だった。
父とは滅多にしないゲーム勝負もやったし、手持ち花火で一緒に騒いだ。
その帰り道、皆手を繋いで家路についた。
家に友達を連れてくることなんてなかったのに、麦わら帽子の男の子は連れて行った。
二人並んで縁側に座って、母が切ってくれたスイカや、カキ氷を食べた。
美味しかった、楽しかった。
夏休みが終わるなんて思えない。
終わってしまうなんて、勿体ない。
もっと長かったら良いのに、ずーっと夏休みだったら良いのに。
もっとずっと、毎日、ずーっと。
麦わら帽子の笑顔が見れたら、良いのに。
子供らしい、ささやかな願いだった。
かなかなかな。
かなかなかな。
ヒグラシが鳴き始めたのを聞いて、京一が水辺から顔を上げた。
龍麻も同じく、空を見上げる。
遠く澄んだ蒼が茜になって、もう帰らなくちゃ、と龍麻は思った。
ふくらはぎまでの深さの川の水は、茜の陽光を反射させ、透けた砂利がほんのりオレンジ色に映っていた。
それでも、本音はまだまだ遊びたくて、龍麻は川の中から上がりたくなくて動けない。
京一と遊んでいると、あっと言う間に時間が過ぎる。
絵を描いていても、山の中でも、こうして川の中で遊んでいても、気がついたらもう夕暮れだ。
一人で地面にお絵描きしていた時は、こんなに早く空が茜にならなかったのに。
でも、仕方がない。
そろそろ帰る準備をしないと、両親が心配するし、京一の父も迎えに来る。
龍麻が先に川を上がった。
今年の夏、京一と一緒に遊ぶようになってから買って貰ったサンダルを履く。
買って間もない新品の筈なのに、そのサンダルは、もう少し草臥れ始めていた。
毎日のように、山を歩き回って、そのまま水に浸したりしたからだ。
京一と一緒に過ごした日々の証のようで、龍麻は少し嬉しかった。
京一も川を上がる。
龍麻のサンダルと並べていた雪駄を履いた。
「あーあ。もう直ぐ終わっちまうな、夏休み」
「うん」
小石詰めの川原を歩いて、土手に向かう。
その途中の京一の呟きに、龍麻は改めて、夏休みが終わってしまうことを感じた。
「京一、宿題やった?」
「ん。父ちゃんが煩ェから、とっとと片付けた」
「僕も終わった」
朝起きて、父と一緒にラジオ体操をして、それから少しの間勉強をした。
一時間ほどで勉強時間は終わりにして、家を出て地面にお絵描きをして、京一が来るのを待つ。
木陰で母に貰ったおにぎりを食べて、昼時が少し過ぎた頃、やってきた京一と一緒に夕方まで遊ぶ。
家に帰ったら、ご飯を食べて、また少し勉強をして、お風呂に入って眠る。
それが龍麻の一日のスケジュール。
宿題は順調に進んでいって、夏休みが半分を過ぎた頃には、殆ど片付いた。
時々、母の手伝いもしようと思ったけれど、それを言ったら母は京一君と遊んでおいで、と笑っていた。
苺味の飴玉やおにぎりを二つ持たせて、暑い日差しの中で、母はいつも笑顔で息子を見送った。
京一は、いつもギリギリまで放っとくんだ、と言った。
でもそうすると、父から遊んでばっかいないで宿題しろ、と怒られる。
龍麻と何も気にせず遊びたかったから、今年は早く片付けた。
朝起きたら、手早く食事を済ませて、父と昼間で剣術稽古。
稽古が済んだら、外に出て、夕方まで龍麻と一緒に遊ぶ。
家に帰ったら、夕飯の準備が出来るまで宿題をして、食事が済んでも宿題をする。
そうしていつもなら手付かずのままの宿題を、今年だけはきちんと済ませた。
やりゃあ出来るんだから、言われる前にやりやがれ、と父には小突かれた。
「なーんか、一杯間違ってる気ィするけどな」
言いながら、まァいいかと京一は笑う。
済ませるものは済ませたんだから、と。
「京一、自由研究とかした?」
「おう。セミの脱皮の観察やった」
「あ、僕もそれにすれば良かったなあ」
「龍麻は何やったんだ?」
「アサガオの観察」
「いいじゃねえか、それでも」
「だって去年もやったもん」
他にやりたい事が見付からなかったから、去年と同じものを選んだ。
選んだ時、一緒でいいのかなあと呟いたら、母は毎年少しずつ違うものよ、と言ってくれた。
確かに、少しずつではあるけれど、去年とは違ったと思う。
でも、セミの脱皮も見てみたかった。
山の中で抜け殻は見た事があったけど、其処から蝉がどうやって出てくるのかは見た事がない。
来年の自由研究は、セミの観察にしよう。
龍麻は決めた。
京一が見た事があるなら、自分も見たい。
京一が知っている事なら、自分も知りたい。
同じ学校のクラスの子達が相手でも、龍麻はこんなに強く思ったことはなかった。
それぐらい、龍麻にとって、この一夏で出会ったこの友達は、特別なものになっていて。
「京一、大好き」
告げた言葉に、京一がぽかんと口を開く。
なんだ急に、そんな顔で。
「大好き」
「…お、う?」
「大好き」
「判ったって」
言う度に、京一の顔が赤くなる。
京一は、結構照れ屋だった。
褒められるとそっぽを向いてなんでもない風を装うけれど、顔を見たらいつも真っ赤。
前に麦わら帽子で直ぐに顔を隠したりしていたのも、やっぱり恥ずかしいからだった。
その赤い顔を見られないように、京一はそっぽを向いた。
龍麻は反対側に回り込んで、京一と向き合う。
すると、また京一は反対側を向いてしまった。
めげずに、龍麻はくるくる京一の周りを回る。
「京一は?」
「なんだよ」
「京一、僕のこと好き?」
「…なんでェ、いきなり…」
嫌いだなんて言わないのは判っている。
だから龍麻が求めている答えは一つしかなくて、出てくる答えも多分一つしかない。
それでも、龍麻は言って欲しかった。
「僕ね、お父さんとお母さんと京一が、世界で一番大好き」
また京一の顔が赤くなる。
空の茜の所為だけじゃない。
「……バカ。一番ってのは、一つだけだろ」
「なんで?」
「だって一番だろ。かけっこだって、一等賞は一人だけだろ」
「でも一番だもん。お父さんとお母さんと京一、皆一番好きだよ」
暖かいお母さん。
優しいお父さん。
眩しい京一。
順番なんて決められない。
皆それぞれ大好きで、其処に違いはなかった。
赤くなった京一の顔を見ようとすると、今度は麦わら帽子の縁を引っ張って顔を隠してしまった。
下から覗き込むことも出来るけど、そうすると次は多分怒り出すだろう。
答えを聞けなくなるのは嫌だったから、龍麻は覗く込むのをやめた。
「ねえ、京一は?」
「あーッ……判れよ、判ンだろ」
「ねえってば」
「だーかーらァ……」
顔を隠したままで、足早に歩く京一を追いかける。
かなかなかな。
かなかなかな。
ヒグラシの鳴く隙間、龍麻はねえねえ、と京一に問いかける。
シャツの裾を引っ張って、龍麻は何度も聞いた。
その内、そんなに長くはない京一の我慢の方が、先に限界が来て。
「好きだよ、好き! じゃなきゃ、一緒に遊ぶかよッ。これでいいかッ」
少しやけっぱち気味の台詞と、帽子に隠れ損なった真っ赤な耳と。
嬉しくなって、龍麻は京一の左手を掴まえて、ぎゅっと握った。
京一は嫌がるような素振りはなくて、またそっぽを向いてしまったけれど、同じくらいの力で握り返した。
「京一」
「ンだよ」
「明日も一緒に遊ぼうね」
それは、いつも別れ際に交わされる、些細だけれど大切な約束。
そんな約束しない日でも、次の日はまるで習慣になったように二人並んで遊ぶのだけど。
約束が出来るのが嬉しくて、龍麻はいつも言っていた。
大抵、京一はおう、とか、気が向いたらな、なんて少し素っ気無い返事をする。
でも気が向いたら───と言いながら、一度もこの約束を破ったことはない。
だから返事がなくても、気にしなかった。
真っ赤な耳に、照れているんだと思ったから。
この繋いだ手が、麦わら帽子の笑顔が。
ずっとずっと傍にあると、信じて疑わなかった。