<瞬−1>

 前を走っていた冬紀が自転車を止めた。僕もブレーキをかける。

「どうしたの?」

冬紀は、霧でもやった山のほうを見上げている。

「なあ」

「うん?」

「あれ、見えるか」

「どれ?」

 僕も、冬紀が指さしたほうを見てみる。

「なにも、なにも見えないけど」

「ほら、よく見ろよ。頂上から左の、あの稜線が交わったとこらへん」

「んんん?」

 言われたとおりの場所を、よく見てみる。

「あっ」

山の深い森の中になんだか、瓦のようなものがかすかに見えた。

「な、見えただろ」

「うん」

「あんなに山の奥なのに、なにか建物があるのかな?」

「うーん……」

「もう一ヶ月もこの道通ってるのに、全然気づかなかった」

「うん、僕も」

 8キロも先の中学に通うことになり、長い通学路に苦痛を覚えていた時に、冬紀がこの道を見つけた。学校が指定した街中の道よりは少し険しいけれど、距離はだいぶ短い。冬紀と僕は、この山通りの道を二人で通っている。

「なあ」

「うん?」

「あそこに、行ってみないか?」

「えーっ」

「いいじゃないか。せっかく中間テスト最終日で早く終わったんだし、ちょっと探検気分で、な?」

「うーん」

「ああっ、もういいよ。俺一人で行ってみるから!」

「あっ」

 冬紀が僕を置いて、自転車で走り出そうとする。

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

「なんだよ!」

「……僕も、僕も行くよ」

「まったく……初めからそう言えばいいんだよ」

「うん、ごめん」

「じゃあ、行くぞ」

 冬紀が自転車で再び走り出した。僕もその後をついて行く。

「それからなあ、瞬」

「うん?」

「その『うん』って返事、やめろよな。なんだかガキっぽいぞ」

「そう、かなあ。僕は自分ではそう思わないけど」

「あ、それからその『僕』も!全然男らしくないだろ。お前はただでさえ女っぽく見られるんだから、『うん』とか『僕』とかやめろよ、な?」

「うん」

 前を走る冬紀が、なんだがガックリしたように見えた。なんでだろ?

 確かに、自分が冬紀よりは男らしくないってことぐらいは、僕にだって分かる。冬紀は小学校からサッカー部のキャプテンで、中学でも1年生なのにレギュラーだ。けんかも強い。小さい頃僕が『女の子みたい』といっていじめられていた時も、何度も冬紀が助けてくれた。でも弱い者いじめはしないから、女の子にだってもてる。失礼な話だけどたまに、僕に冬紀宛のラブレターを預ける女の子もいる。そういえば、僕だってこのあいだラブレターをもらった。なぜか、3年生の女の先輩からだったけど。



「こっからは、自転車じゃ行けないな……」

 自転車で、もう2キロぐらい上がって来ただろうか。山道はどんどん細くなって、今では舗装どころか小石がごろごろ転がった細い道になっている。冬紀の言うとおり、これ以上は自転車では進めそうにない。

「歩こうか、瞬」

「うん」

 僕たちは自転車を停めて、その山道を歩き始めた。まだ昼の1時ぐらいなのに、曇ってるせいでなんだか暗い。その上に霧もぼんやりとかかっている。こんな細い道をそんな中で気にせず歩ける冬紀は、ほんとに凄いと思う。僕一人だったら、絶対行かない。

「……あの屋根の形からすると、お寺か神社だな。まだまだ距離はありそうだけど、なんだか面白そうだからな」

「うん」

 前を歩く冬紀は、弾んだ声でしゃべっている。実は僕は、冬紀ほど楽しみじゃない。ほんとは早く家に帰って、冬紀と一緒にゲームでもしたかったのに。

「あ、気をつけろよ。枝が道まで張り出してるぞ」

「あ、うん。わかった」

 やさしいな、冬紀。これじゃあ女の子にもてるわけだ。

 それから、どれだけ歩いただろう?歩く道はまったく変わらないまま、まわりに漂う霧だけがどんどん濃くなっていく。すぐ目の前を歩いているはずの冬紀の背中まで、霧で少しけぶり始めた。

「ねえ、冬紀……」

「……ん」

「……もう、戻らない?ずいぶん歩いたよ、道が違ってたのかも知れないし、何だか霧も深くなってきたし……」

「いいや、そんなに歩いてないはず……まだ山道に入ってから10分ぐらいだ、もう少し頑張って歩けよ」

 それはウソだ。10分ってことは絶対ない。冬紀は間違えることは少ないけど、たまに自分が間違うとこんなふうにムリヤリ強がってみせる。でも、冬紀が帰らないっていうんだから、僕だけ帰るわけにはいかない。正直なところ、一人じゃ怖い。

 霧はさっきよりもっと濃くなっていた。1メートル以上離れると、冬紀の背中が見えなくなってしまうから、僕は必死についていく。

「瞬、もう少し頑張れよ」

「うん。冬紀もね」

「俺は……言われなくても頑張ってるよ」

 さっきよりちょっと疲れた声で、冬紀は強がってみせた。だから、僕はもう何も言えない。

 僕と冬紀の濡れた足音だけが、耳に聞こえる。冬紀が10分って強がり言ってから、もう1時間くらいたった感じがする。霧にかすむ風景はずっと同じような細い山道。僕はもう、足が棒みたいになってる。だからもう、「歩けないから、休もう」って冬紀に言おうとしてた、その時。

「あ、れ……」

 前を行く冬紀が、ふいに空の方を向いた。僕もつられて上を見る。

「あ……雨?」

 顔になん粒かの水滴がポツポツと当たる。

「雨が降ってきたよ、冬紀」

「分かってるよ」

 僕はじっと冬紀の顔を見てた。雨粒が多く、そして大きくなるたび、冬紀の顔も曇っていった。冬紀の髪の毛が、どんどんどんどん濡れていく。僕の髪も、そうなってるんだろう。

「……雨宿りできるとこ、探すぞ」

 冬紀が小さく言った。

「雨宿りできるとこって、こんなところにあるわけないよ。この先もずっと山道だし、あんまり大きな木なんてないし、ましてや建物なんか」

 僕は不安な気持ちのままずっとしゃべり続けた。冬紀は僕の言葉を、黙って聞いてる。

「きっとあの屋根みたいなのは、木かなにかの見間違えだったんだ。なのに冬紀は僕を誘って、こんなとこに来ちゃって、雨にも降られて……」

「……」

「ねえ、どうするのさ!このまま雨に濡れたまま、止むまで待つの?いつまで降るか分かんないよ。ねえ、冬紀!」

 そこまで言って僕は、後悔した。冬紀の横顔が、僕がまるで見たこともないような表情になってたからだ。一生懸命勇気をふりしぼってるけど、なにかあったら、すぐにも泣き出しそうな顔。いつもはりりしい顔の冬紀だから、そんな顔がすごくかわいそうに思えた。「……ゴメン」

「え」

「瞬、ゴメン。お前の言う通り、全部俺のせいだ」

「冬紀……」

 冬紀はまた黙って、ぐっと歯を食いしばっていた。そんな姿を見てるだけで、僕は。

「……僕も、言いすぎた。ゴメン」

 声が、震えてた。目が熱い。やっぱり、僕は弱虫だ。

「お、おい。なんで瞬が泣くんだよ!」

「だって、だって……僕も冬紀についてきたのに、全部冬紀のせいにしようとして……ゴメン、ゴメン……」

「泣くなよ、バカ」

 泣くなよって言われても、涙はやっぱり止められない。僕は冬紀の前に座り込んで、冬紀になにを言われても、みっともなく泣きじゃくった。

「とりあえず、ここで休もう。一応木の下だし、少しは雨も防げるだろ」

「……うん」

 かっこ悪い。また冬紀に泣き顔を見られちゃった。僕は何度もシャツの袖で顔を拭い、木の根に腰かけた冬紀の横に座った。

 それからしばらく、僕らは何にもしゃべらないでいた。いつもは元気な冬紀がしゃべれないんだから、相当不安なんだろう。僕なら、なおさらだ。

「……寒くないか、瞬」

 急な冬紀の言葉に、僕はびっくりした。僕が寒さで小さく震えていたのに気づいたらしい。

「だ、大丈夫だよ」

「ウソつけ。体震えてるし、顔も白いぞ」

「……だいじょう、あっ!」

 強がりを言おうとする僕の肩を、冬紀が突然引き寄せた。

「……羽織るものないから、我慢しろ。な」

 僕と冬紀の体が、ぴったりとくっつく。

「……うん」

 確かに、冬紀の体は、あったかかった。

 それからずっとまた、二人は黙ったまま雨に濡れつづけている。夏の通り雨のはずなのに、まるで一生やまないような感じで降ってる。温度も、震えが止まらないくらい、寒い。

 顔を少し横に向けて、僕は冬紀の顔を見た。5センチの距離にいる冬紀。さっきは僕の顔の白さを心配してたのに、今は冬紀の唇も紫っぽくなってる。体を寄り添わせていても、芯から冷える感覚に、僕らの頭の中はぼーっと霞んでいく。

「……ねえ、冬紀」

「ん……」

「このまま雨がやまなかったら、どうなるかな……?」

「……」

「……死んじゃうかな、僕ら」

「……」

 登って来た道も、周りの木立も、濃い霧に沈んでいる。引き返す元気も、もうなくなっていた。もしかしたら、今言った言葉が、僕らの最後の会話になるのかもしれない。

 冬紀が目を閉じたのを見て、僕も目を閉じた。



 誰かが僕らの前に立った。

 目を開けたつもりはなかった。

 でも、少し見えた。

 足元。

 わらで編んだような履物。草履?

 泥に少し汚れている白い足袋。

 足。それも白い。

『……』

 その人が僕らに声をかけた。でも、返事する元気がない。

 僕はまた、目を閉じた。

もう一度、その人が何か言った。

あれ……女の人の声……?



 パチパチと、何か音がする。頭の中の霧がだんだん晴れてきた。誰かが、僕の体に触れている。シャツのボタンを外しているみたいだ。

「ん……うんっ」

 やっと目が開いた。目の前に、誰かの顔。なにかオレンジ色の逆光で、顔がよく見えない。

「誰……ふ、ゆき……?」

 当たり前のように、僕は冬紀を呼んだ。あの雨の中、僕と同じようにびしょぬれになって目を閉じた、冬紀を。

「ふふっ」

 影が、笑った。また、女の人の声だった。でも、あの雨の中で聞いた声とは違っていた。僕は、少し力のこもった体を起こす。それでやっと、今僕がいる部屋の様子が分かった。

 がらんと何もない、板張りの部屋。フローリングとかじゃない、黒い板が全面に張られた床。床だけじゃない、壁も、天井もその古びた板が張られていた。そして、まんなかにはいろり?そう、いろり。そのいろりの中で炎がパチパチと揺れていた。まるで、図鑑に載っている昔のお寺みたいな……あれ、お寺?

「あら、目を覚ましたようですね。あんな雨の中、いったい何をしていたのですか?」

 女の人の声の方に顔を向けた。で、びっくりした。その女の人、髪の毛がなかった。まるでなにもなく、ただツルンツルンのきれいな頭があるだけ。お寺にいる、お坊さんみたいな……。

「……ふふっ、そんなに私の頭がめずらしいのですか?」

 まじまじ見ていたのが気づかれたらしい。僕は申し訳なくなって顔を赤くした。

「あの……」

「はい……?」

「ここって、どこですか?」

 とりあえず恥ずかしついでに、僕は最初に思った疑問を、この女の人にぶつけてみた。

「ふふふっ」

 女の人は、唇を少し曲げて笑った。そして今気づいた。この人、すごく美人だ。

「教えて、欲しい……?」

「え、あ、はい」

「あなたは雨の中、われらの寺に続く参道でびっしょりになって座っていて……それを住職さまに助けられた……」

「寺、やっぱりココ、お寺なんですか」

「ええ。住職さまが言うには、あのままあの場所で濡れていたら、もしかしたら助からなかったかも知れない、と」

 頭つるつるの女の人は、少し真剣な顔をして僕に言った。

「さあ……濡れたままだと体が冷えます。その服を脱がないと……」

「え……?」

 そして、その時僕は初めて気づいた。僕、制服シャツのボタンを全部外されてて、片方の袖まで脱がされてた。

「わっ、だめ!」

 恥ずかしくなって、僕は体を後ずさりさせようとする。でも、目の前の女の人は、僕の腕をしっかりと掴んで、そうさせてくれなかった。

「なにを恥ずかしがることがあるんですか?そのままでは、風邪を引いてしまいます」

「で、でも……」

「我らは、この世の中にある雑念を忘れるため、この寺で修練している身。さあ、その濡れた服を脱ぐのです……」

 まっすぐに、こっちを見てる。

 僕の腕を握った手のひらが、熱い。

「は、はい……」

「……それでいいのです」

 すぐそばにある焚き木のせいか、頭がぼんやり熱くなっていく。女のお坊さんは、じっとしている僕の制服シャツ、Tシャツ、学生ズボンをうまく脱がしていった。

「……っ」

「さあ、もっと火に近づいて……素肌も濡れているようですね」

 パチパチと火の粉が弾ける音と、僕の大きな心臓の音だけ。

 気がついたら、僕はパンツ一枚で、炎の前にちょこんと座っていた。

「体、拭きますからね」

 なんだか、この女の人の声、不思議だ。もう「いいです」とか「自分で拭きます」なんて言葉が、出てこなくなってる。女の人が後ろから優しい感じで体を拭いているのに、僕はなんにも出来ないでいる。なにか大事なことを、忘れてるみたいな感じなのに。なにか、大事なこと……。

「あ!」

 大きく飛び上がった。さすがに目の前の女の人も驚いた。

「いったい、どうしたのですか?」

「いや、あの」

 さっき他には誰もいないって見回したはずなのに、僕はまたこのがらんとした広い部屋を見回した。

「冬紀、いやあの、もう一人、いなかったですか?僕の友だち」

 ぼやけかけていた頭の中で、冬紀の姿が一気に結んでいった。いつもの元気な冬紀の顔と、さっき隣で最後に見た真っ青な顔をした冬紀。心臓がドキドキしてきた。

「さあ……わたしは住職さまに言われてあなたを介抱していただけですから」

「でも、たしかにもう一人いたはずなんです!僕の大切な友だちの、冬紀が!」

 思わず立ち上がって、僕は駆け出した。どこが出口かわからない、黒い板が張られた壁を僕はドンドンと叩く。

「……困った方ですね」

 後ろのほうで、女の人がささやいた感じがしたけど、それでもかまわず僕は壁を叩きつづけた。

「もう、もうっ!」

 壁のどこのどの部分を叩いても、同じような音ばかり返ってくる。まるで、出口がないような。出口が、ないような……。

「そんな格好で、どこに行こうというのですか……?」

 僕はビックリした。僕のすぐ横で、声がしたから。

「うわっ!」

「聞き分けの、ない子……」

 その言葉は、まるでただの息のように僕の首筋を撫でた。睨みつけてやったはずなのに、女の人の瞳は、不思議な視線で僕をじっと見つめてる。

「あなたは、下着一枚……この部屋の外は、雨で寒い……わたしは、他の誰かなど知らない……この部屋なら、暖かい……もう少し、時間がかかる……だから、もう少し……もう少し……ね……」

 力が、抜けてく。足の先から、だんだんと。女の人の声は、そんな声で。

 あ、女の人の指先が、僕の足と足の間に、触れた、ような……。

「お願い、もう少し、おとなしくして……調べなければならない……求められてるの、力を……でももう、我らにはその力が……だから、こうやって……あめやきりを、もちいて……まよいびとを……」

 耳に入ってくる声が、聞き取れなくなってきた。あ、あ、あ。

 そんなとこ、触ると、だめ、だよ……。

「じゅうしょくさまが、なにかかんじられたから……あなたたちふたりは……だから、もうすこし……」

 さっきの、あめにうたれてたときみたいに、からだがうごかなくなる。でも、さわられてるところが……あつい。

 あれ……?いつ、ふくをぬいだんですか……?だって、おっぱいが、むねに、あたって、あたって……。

「……インソウエイアンカダアンツウジンイウンジサツサンシンタダツザイ、ウンッ……!」

 じゅもん?おきょう?どうしよう……こわいよ、ふ、ゆき……。

「あんっ……インソウエイアンカダアンツウジンイウンジサツサンシンタダツザイ、ウン……くうっ、すごい……あなたのこころに、つよいおもいびとが、いる……しかたない……からだ、かわすしか……ああんっ」

 あ、キス、された……。それから、ずっと、なめてる。くび……むね……へそ……、あっ……うそ……そこも、なめる、の……?

「ん、んふ……あ、はっ……うんっ、ん、んちゅ、んふ……んんっ」

 あ、あ、ああっ。やだ、やだよ、ふゆき……ぼく、どうなっちゃう、の……たすけて、ふ、ゆ、き……っ。

「ん、ちゅ……あ、あ、すごい……ん、ふうっ……はむっ……んっ、んふうっ」

 だめぇ……あたまが、ばくはつしそうで……おかしいよぉ……たす、けて、ふゆき……なにか、きそうで……ふゆきのこと、わすれちゃいそう、で……いやだよ……あ、あっ……だ、だめぇ……ふ、ゆきぃ……っ!

「んっ、んっ、んふっ……んん、んんっ!」

 あ、あ、あ、あ、あ……っ。

 ……。

 ……。

 ……どう、なったの?

 からだが、またちからがぬけて。ずりさがってく。

 ほのおのいろがうつるてんじょうがみえた。

 ちらちらしたそのあかいいろのてんじょう。そのまえに、くろいかげが。

 あし。ふともも。おしり。こし。おっぱい。くび。あたま。まるい、あたま。

 あのおんなのひとだ。まだ、はだか。

 またなにか、じゅもんみたいなのをとなえてるけど、もうよくきこえない。

 あ、あっ。また、おちんちんが、あつい。

 たすけて、ふゆき。また、あのヘンなきもちになるぅ。

 かげが、ぼくにのって。

 のって。

 ふ、ゆ、き……。

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