発端/
「なんだかこうするのが、習慣になっちゃってるの」
困惑する美希子をよそに、ゆかりはその綿の白い布に顔を近づけて見せた。
「ほら、いま夏でしょう?だからにおいが強烈で。フフフッ」
確かにその白い布、ブリーフにはかすかに黄みがかった染みが見て取れた。
いつも息子に買って穿かせている物と同じだからこそ、心ざわめく。
「あー。この感じ、ゆうべオナニーしてよく拭かなかったみたい」
この家に、こんな生々しい話を聞きに来たわけではなかった。
今まさに実の息子のブリーフのにおいを、鼻を鳴らして嗅いでいる女性。
息子の同級生の母親で、庭に見事なガーデニングを施している、ゆかり。
旦那も会社、夏休みの息子も野球部の練習に行き、誰もいない主婦だけの時間。
だからこそ美希子は、同じくらいの敷地に見事な庭を作り上げているゆかりに
その手ほどきを受けようと訪れたのだ。
しかしゆかりが入れたハーブティーを飲むうち始まった会話は「夏休みの息子」。
家にいつもいてうるさい。昼食の支度が大変。夜もここぞとばかりに夜更かし。
でも……。
思わせぶりな笑顔のすぐあと、ゆかりは顔を近づけて美希子に囁いた。
「……徹くん、夜中に、してる?」
「してるって……何を、ですか?」
訊き返した美希子に対して、ゆかりは我が意得たりの顔をした。
「フフフッ。夜中にほら、徹くんの部屋から聞こえてきたりしない?」
「……?」
「ギシギシっていう家具が軋む音とか、荒い息遣いとか」
確か、そんな発端だったと思う。そしてそこからは、ゆかりの独壇場だった。
夜ふと起きて、物音が聞こえたから、息子の部屋へ行ってみた。
物音の発生源はやはり息子の部屋。ギシギシ。ハアハア。
ああ。うちの子もそんな年頃になったのね。まだ中学生になったばかりなのに。
ドアを少し開けてしばらく見てたらすごく変な声を上げて発射。
すごい量だった。そしたら、におい?においがしたの。息子の、精液の、ね。
それがすごい強烈で。わたしも……しちゃったの、その夜。
それからそのにおいが気になっちゃって。最近ね、洗濯の時。
「なんだかこうするのが、習慣になっちゃってるの」
そのゆかりの声が、自宅に帰るまでずっと頭の奥底で響いていた。
「そんな……自分の息子ので、そんな……」
つぶやくものの、まるでゆかりという魔女の呪術にかかったかのように、
あの息子の身につけていた白い布の前で鼻を鳴らす母親の姿がフラッシュバック
する。
美希子は33歳。20歳で結婚し、次の年に生まれた息子
徹は今年中学に入学した。
旦那である美智男の仕事が忙しく、そのために美希子は徹が小さい頃から
一所懸命に育ててきた。幼い頃の病気、友達とのけんか、成績。その全てに、
親として精一杯向かってきた。おかげで徹は、真っ直ぐに育ってくれた。
「……はあっ」
家に着いても、美希子の鼓動は高鳴っていた。こんな時に、母親がなにげなく
言っていた言葉が思い浮かぶ。
「あんたたち親子って、まるで友達か恋人同士みたいだわ」
確かにそれは、美希子にとっても身に覚えがある事だった。
学校から帰ってくれば、「ただいま!」と勢い良く背後から抱きつく。
体を動かす事が好きな美希子と、元気な徹。じゃれ合っていれば、つつき合う。
そこからプロレスごっこのような状態になる事もある。
風呂にも、一緒に入る。
それは美希子にとって「仲の良い母子」の枠から逸脱する物ではなかった。
ついさっきまで。ゆかりの奇妙な癖を告白されるまで。
「やっぱり……ゆかりさんが、変なだけだわ。きっとそう」
夏の汗の少し滲んだ、外出用のTシャツを脱ぎながら、誰に向かってではない
独り言をつぶやく。
「ふう……」
鏡に写った自分に、ふと目が行く。
丹念に手入れして黒く輝き、髪留めでアップしてはいるが少しほつれたロングの髪。
小さな汗の粒を光らせた、白い肌。
親しい奥さんたちに「大きいね、羨ましい」と言われる胸。
大学時代彼氏に「せっかくだから見せて歩けよ」と短い服を願われた腰まわり。
そんな大学時代からやはり少し肉がついたが、それが曲線を際立たせているヒップ。
「あ……っ」
美希子の鼓動が再び高鳴る。
息子は、こんな女と毎日躰を密着させているのだ、と。
刹那、美希子の思考の奥でまたあの光景が瞬く。
白いブリーフを手に取り、ゆっくりと顔を近づけ、鼻を鳴らす女。
しかし今度は、ゆかりの顔はぼやけていて定かではない。いや、ただぼやけて
いるのではなかった。その恍惚の表情を浮かべる女は、違う女の顔だった。
「……っ!」
妄想を振り払おうと頭を強く振り、美希子はその半裸の肉体をふらつかせて
しまう。白くしなやかな腕がすがったのは、洗濯かご。
昨日の洗濯物がつまっている、そのかご。心がざわざわと波打つ。
そんなの……しちゃ、いけない……。
のどの渇きは際限なく。先ほどの鮮明な妄想が、美希子の指先を震えさせる。
その先にはきっと、ゆかりが嬉々として嗅いでいたような物がある。
まさぐっているつもりはないのに、指はゆらゆらと汚れた布たちを撫でる。
ゆかりがかけた淫らな呪いは、美希子の熱い肉体を支配しようとしていた。
一枚、また一枚。手触りだけで、美希子の手は重なる布をずらしていく。
「だめ……そんなの……だめ……」
つぶやきは、もう意味を成していなかった。このままこの猥褻な作業を続けて
いれば、あとほんの数秒で女の本能が目指す白い布に辿り着いていただろう。
ジリリリリリ、ジリリリリリ……。
ハッとした。リビングで、電話が鳴っている。我に帰った美希子は、自分の
鼓動が激しく運動した時のように打っている事に気づく。
「……電話に、出なきゃ」
乱れてしまう寸前だった自分に言い聞かせるように、美希子は小さく言う。
しかし脱衣所から出る時、美希子の瞳は未練そうに、あの洗濯かごを、捉えた。
「はいもしもし、沢口で……」
『あ、もしもし美希子さん?わたし、ゆかりだけど』
「あ、ゆかりさん……」
『あの……ごめんなさいね、さっき変な事言って』
「……え?」
『ほら……あの、わたしの変な癖の事』
「あ、ああ……別に、気にしていないです」
『秘密、だからね』
「はい、わかりました」
『じゃあ、また遊びに来てね』
「ええ、じゃあまた……」
『変な気、起こしちゃダメよ……』
「……え?」
そこで、電話は切れた。美紀子の耳元に、最後の言葉が余韻として残る。
きっと冗談に違いない、と美希子は思い込もうとしている。
「だって……変な気、なんて……」
起こしようがない、と自分でそう思いたかったのだ。ほんの少し前、ゆかりと
同じように息子のにおいを嗅いでしまおうとしてしまった母親として。
息子を性の対象にした。ただ一瞬でも、それは事実。美希子の理性は、必死に
ゆかりの秘密を知る前の、仲の良い(だけの)母子に戻りたかった。
だが、それは。