感触/

「たー」
……え?」
「だいまっ、母さん!」
「きゃあっ!」

 そう、いつもなら振り返って「おかえり」と言いながら微笑む事ができた
息子 徹の攻撃に、思わず大きな声を上げてしまった。

「ちょ、ちょっと母さん。どうしたの?」

 躰から離れる事はないが、さすがに驚いた顔をして徹が母親を見つめた。もう
同じくらいの身長になった徹のその顔は、美希子が振り返るとすぐ後ろにある。

「ご……ごめんね徹。ちょっとびっくりしちゃって。おかえり」
「うん。ただいま」

 母親の笑顔に、徹は普段の明るい表情に戻って、そして再び、母親の躰を強く
抱きしめ直した。

 気を許した途端、女の五感はそこにある物を感じようとした。
 それが、実の息子の体から発せられる物であっても。

「と、おる……

 すぐ後ろに感じられる、少し荒れた息遣い。
 胸の辺りを抱く、意外と太い二本の腕。
 アンダーシャツに染み込む、きつい汗のにおい。
 そして。
 そして、自分のヒップにそっと沿う、張った太ももの筋肉とは違う、肉の感触。

……っ」

 昨日までまるで意識しなかった、息子にある、男の部分。 自分が半裸に
近いからだけではない、動悸を呼ぶ感触。


「どうしたの。今日の母さん、なんだかおかしいよ」

 さすがに母親の雰囲気を察したのか、徹の体が美希子から離れた。

……ごめんなさい。体がだるくって、夏カゼかな?」
「気をつけなきゃダメだよ。ね、なんか飲み物ある?」

 やっと普通の母子の会話に戻ることが出来た。しかしまだ全身、特に鼻腔と
ヒップに残る「男の感触」に、美希子の鼓動の早鐘は、収まらないままだった。


「ふう……

 必死に自我を奮い起こし、美希子はそれからの時間を耐えた。
 疲れた息子にミネラルウォーターを差し出し、きつい練習の愚痴を優しく
聞いてあげ、シャワーを浴びに向かった息子に給湯器のスイッチを入れ、
脱衣所に洗濯物から着替えを用意してあげた。その時またあの脱衣かごが
目に入り、そこに汚れたユニフォームなどが追加されていたが、美希子は
それをあえて意識しないように、全自動洗濯機に放り込んだ。
 夕食のあと、リビングでソファに座りバラエティを見る息子を、家計簿を
つけながらちらちらと横目で見る。しかしもう、その後ろ姿に心揺れる事は
なくなっていた。
 やがて夜10時を過ぎた頃、旦那から電話が入る。残業で2時まで帰れないと。
それが合図となったのか、頻繁にあくびを繰り返していた徹は「おやすみ、
母さん」と小さく言って、2階の自室へと上がっていった。
 美希子も戸締りをしたのち、玄関とリビングの照明だけを残して、寝室へ
向かう。
 小さな吐息が洩れたのは、そんな時間。午後11時。大きなダブルベッドの
ある、まだ一人だけの寝室。いつもと同じ光景なのに、なぜかいつもより
寂しく感じられた。


 パジャマに着替え、その一人では広すぎるベッドに横たわる。

「なんだか、今日は疲れた……

 瞼を閉じて、少し眠ろうとする。2時前には夜食を温めるため再び
起きなければならないが、やはり今日の美希子は、どこか疲れていた。

……ん、ううん……

 広いベッドの上、眠ろうとすればするほど、シーツが擦れる音だけ高く
聞こえる。それ以外は、何の音もしない暗い部屋。寝返りを止めて目を
開ければ、どうしようもない寂しさが襲ってくる。そして思い出された、
あの光景。あの言葉。

『なんだかこうするのが、習慣になっちゃってるの』

 陽光の中で高く差し上げられたブリーフ。それを執拗に嗅ぐ、女。

『ほら、いま夏でしょう?だからにおいが強烈で。フフフッ』

 こちらに淫猥な笑みを向け、恍惚に浸る、女。

『あー。この感じ、ゆうべオナニーしてよく拭かなかったみたい』

 実の息子の、性の成長を心の底から悦び震える、女。

……徹くん、夜中に、してる?』

 徹も、してる、の……

……っ!」

 ハッと目を覚ました。静かな部屋に、今度は時計の音だけが聞こえる。
 時刻は深夜1時過ぎ。美希子は気づく。今日起こったどんな事よりも、
自分の心が高鳴っている事を。


 寝室を出た美希子の足は、自然に忍び足となって2階へと向かう。
 のどが渇く。足音がしないはずのカーペット敷き階段なのに、その擦れる音で
息子に気取られてしまうのではと思える。パジャマの裾さえじれったい。

……っ」

 息子の部屋の前に立つ。電気は消えている。物音も、しない。しない、ように
感じられる。
 少し冷静になって、自嘲する。あんなに疲れて帰ってきた息子が、こんな時間
まで起きてるわけがないではないか。ゆかりさんの言葉に惑わされただけ、と。
 美希子は安心したかった。徹はまだ幼くて、ゆかりさんの息子が早熟なだけ
だと。だから。

「徹、起きてる……?」

 眠る息子を慮って、まるで囁くような声。返答がないのが、最善の答えのはず
だった。


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