動揺/

「え……母さん?」

 しかし、ドアの向こうからは徹の声。真っ暗な部屋の向こうで、息子は起きて
いた。声のトーンが、上ずったように聞こえたのは、美希子の気のせいだろうか?

「起きてたの、徹。ちょっと、入っていい?」
「入って、って……だめだよ、何の用だよ」

 徹の強い口調。優しい息子に不釣合いなその語気に煽られ、美希子の手は逆に
ドアノブを強く回した。

「ちょ、ちょっと!」

 部屋の中は、真っ暗ではなかった。枕の隣にあるクリップライトが、ベッドの
上の息子の姿を照らしていた。上半身裸、下半身を夏の掛け布団に隠した、徹。

「母さん、勝手に開けないでよ!こんな夜中に、何の用!?」
「あ、あの……何してるのかな、と思って。別に、意味は、ないの」

 戸惑う美希子の視界に、室内の様子が映る。ベッドの脇には、乱雑に脱がれた
Tシャツ短パンと、白いブリーフ。

「じゃあ早く出て行ってよ。もう寝てたんだよ、俺」
「あ、うん。ごめんね起こしちゃって。早く寝るのよ、おやすみなさい」

 何も見ていない。しかし、明らかに慌てた息子と、白いブリーフだけは見て
しまった。この場の恐慌から逃れるため、美希子はあたふたと息子の部屋を出た。
 そのまま寝室の戻る事なく、美希子はリビングのソファで混乱していた。
 やがて午前2時過ぎ。旦那が帰宅し、夜食を用意している時でも、気になるのは
徹の事だけ。
 何を、していたの……?暗い部屋で、一つ電気をつけて、裸で……

 次の朝。旦那は相変わらず急かしげに朝食を済ませ会社へと向かった。
 徹は、いつも朝錬のために起きる時間になっても、まだ2階から降りてこない。
昨夜の事で気を悪くしたのかと、美希子は動揺する。

「ああ、どうしよう……

 強く自分を非難した徹の声が、まだ美希子の耳に残る。あんな事は、初めて
だった。

……おはよう、母さん」
「あ、徹……

 声に振り返ると、階段の上から疲れた顔だけのぞかせている、息子。

「おはよう。いいの?今日野球部は?」
「あ、うん。今日は部活休み。なんか体の疲れ取れないから、俺寝とくね」
「そうなの……朝ごはんは?」
「いい。今度起きた時食べるから。じゃあ、起こさないでね」

 再び顔が壁に消えた。夏休みに入ってずっと母子一緒に取ってきた朝食は、
今日途切れる。
 一抹の寂しさが、美希子を襲う。紛らわすには、当たり前の家事をこなすしか
なかった。

 それは洗濯物を畳んでいる時だった。手にかかったのは、白いブリーフ。家に何枚も
あるそのうちの、昨日徹が身につけていた一枚の下着。

……っ」

 洗濯しているのである。しかしそれが昨日から、何かにつけて気にかかる。そして
今度は、昨日の深夜に見たブリーフが思い出された。あの下着はまだ、洗濯に出されて
いない。あのまま、あの部屋にあるはずなのだ。

「もう……1時だわ」

 息子は、朝一度顔を見せてからまだ階下に降りて来てはいない。

「声をかけるくらいは、いいはずよね……

 美希子は立ち上がった。そして階段に手すりに手を掛けて、なぜか一度、小さく
唾を飲んだ。

 部屋のドアの前に立つと、また昨夜の徹のいらついた声が思い出される。
しかし、朝から何も食べていない息子に声をかける事くらい、これまでは
当たり前にしてきたはずなのだ。美希子の心には、まだゆかりの放った
小さな棘が刺さっている。

……徹?」

 遠慮がちに声をかける。部屋の中からは返答はない。

「徹…………あの、入るわね」

 ノブを回す。美希子のその手は、小さく震えていた。

「あ……

 部屋を見渡した美希子の心に、爽やかな涼風が吹き込んだ。息子は、ベッドの
上で、大きな口を開けて眠っていた。まるで警戒感のない、昔のままの幼い顔で。

「まったく、しょうがないわね……

 久々に心の底から出せた笑顔。直前までの暗い気持ちが嘘のように晴れる。
 読みかけて眠ってしまったのか、マンガの本が枕元に何冊も重ねられ、その
うちの数冊が床に転げている。小さい頃から片付けが苦手だった息子を思い出し、
さらに心が明るくなる。

「まったく、徹ったら……ふふ」

 疲れて眠る息子を起こさないようにゆっくりとベッドに近づき、腰を降ろして
そのマンガ本を片付ける。

「ふうん……野球部なのにテニスのマンガ読んでるんだ。変なの、ふふっ」

 ますます母親としての悦びが湧く。少ない小遣いで、マンガばかり買ってる
ようである。

「あれ……4巻がない。どこかしら?」

 美希子は周囲を見回して、そしてベッドの下を覗き込む。それはごく自然な
事だった。
 見つけたくない物を見つけるのは、得てしてこういう時なのだ。


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