誇示/
「逃げないでよ、母さん……」
従うわけには、いかなかった。
脚がもつれる。鼓動は早まる。
その一方で、後ろから近づいてくる足音はさらに早くなっているように
感じられる。躰を隠しながら進んでいるのだから、それは現実かも知れない。
「はあ……はあ……っ」
2階に辿り着く事が出来た。しかし、確認のために後ろを振り返ることなど
出来ない。息子は確かに、すぐ後ろに迫っているのだから。
来ないで、来ないで、来ないで、来ないで、来ないで、来ないで……
今の美希子には、その言葉しか浮かばなかった。息子 徹を騙してまで、この
部屋に逃げ込もうとしたのだ。今はただ、乱れきった思考がはちきれるのを
抑えるため、この恐慌から逃げ出したかった。
5、6歩進み、息子の部屋の前に辿り着く。濡れた白い手は、一度ノブを掴んで
滑り、また握ろうとした。そのわずかな停滞が、美希子の恐怖を煽る。
高まった恐怖から、息子の姿を追う。そしてそれは、美希子の、失敗。
「かあ、さん」
目の前。息子は、すぐそばにいた。すでにくしゃくしゃになったバスタオルを
抱え、母親の裸体に逞しい右手を伸ばそうとしていた。
「……っ!」
刹那、美希子の指先はノブを回した。開いたドアに、急いで躰を押し込む。
ドアは、閉まらなければいけなかった。だが。
「痛……っ!」
勢いよく閉まるはずだったドアは、肉の感触に弾かれる。わずかに部屋へと
侵入した、男の右手のひらと足先。
迫られる女は、それを廊下がわに押し返さなければならない。当然のように
何度も何度も勢いをつけてバンバンと閉める。
「くっ……か、かあ、さん……っ」
美希子は見てしまう。激しい衝撃に、次第に赤黒く変色していく手首を。
そして、衝撃が加わっていないはずの人差し指から、一筋の血が流れて出して
いるのを。
「お願い、徹……そこを、どいてっ!」
泣き出しそうな声を上げて、美希子が懇願する。女としての危機、母親と
しての心情。美希子の全裸の肉体を襲う、二重背反。
息子の手首は、さらに痛ましい姿に変化していく。怖くて見られないが、
きっと足の先も同様だろう。息子の体を、自ら痛めつけているという、現実。
血を流している右の手のひら。バスルームから逃げ出す時、ついたに違いない
傷。利き腕。野球が大好きな息子の、大切な利き腕。
「おね、がい……っ!もう、もうっ!」
やめて、あるいはどいて、という言葉すら口に出せなくなった女。混乱の極みに美希子はいた。
「かあさ、んっ……うあっ!」
小さな呻きを残して、息子の体がドアから離れた。しっかりと閉まったドア。
それに続く無音。いや、自分の荒い息遣いだけが、沢口家に響いていた。
ドアに、カギをかける。小さな金属音が鳴ったが、美希子の心の恐慌は治まりは
しなかった。
水滴、そして汗に濡れた裸身を、息子の部屋にドアを背にして座り込ませる。
何も音がしなくなった、廊下。危機が去ったはずの美希子はなぜか、その無音の
廊下の事ばかり、頭に浮かび始めていた。
どれくらい時間が経っただろうか。部屋の時計は針を進めていたが、時間を
追えるほど美希子は落ち着けてはいなかった。
夏の暑気が、シャワーの水滴よりも多い汗の粒を浮かび上がらせ始めている。
無意味になった入浴。しかし、それ以上に心乱される、廊下の無音。
少し躰を起こして、ドアに耳を当ててみる。しかし何も聞こえず、むしろ
少し離れた公園で遊ぶ子供の声や木々のざわめきのほうが大きく感じられる。
「……っ」
一度、息を呑む。しかしそうすることによって、余計に鼓動が早まる。自分が
これからしようとする事への、緊張。
ドアノブを静かに掴む。声も掛けずに、慎重に。鍵も、これ以上ないくらいに
音を、立てずに。
「……!」
覗いた先。痛々しい姿が、そこにあった。廊下の壁にもたれかかり、小さく
息をする息子。右手の先は、すでに乾き始めた血がこびりついている。
「徹……っ!」
全てを忘れて、駆け寄る。肩を貸した右手には、やはり力がこもっていない。
「徹、しっかりして徹!」
重い。その重い息子の体を、必死で部屋の中に運ぶ。ベッドに辿り着いても
なお、弱々しい息子の息は変わらない。
とりあえず、息子が落としていたバスタオルを躰に巻く。そしてすぐに、
ベッドの傍らに座る。
「ああ、徹……っ」
悲痛な母親の叫びに、徹がわずかに目を開けた。
「徹、ごめんね、ごめんね……」
「……かあさん、僕が、悪かったんだよ……」
小さく呟いて、また瞳を閉じる。
「ああ……っ!」
横たわる息子の右手を、美希子は取った。人差し指の爪が割れている。
拭かずに、拭かずに、美希子は、舐めた。
「んん……っ、ん、ふ……」
血を舐め取るだけのはずなのに、その行為は濡れた音を小さく発しながら続く。
傷口を舌先で舐める。同時に鬱血した一の腕をさわさわと撫でる。
「かあ、さん……」
瞳を閉じたまま、徹が呻く。弱々しい声が、美希子の後悔を鋭く刺す。
「ん、んふ……んちゅ、んん……っ」
ごめんね、の一言の代わりに、美希子は息子の人差し指を舐めしゃぶる。
本来の目的とまるで違う、唇の熱い上下運動。それは、何かの代替行為。
「ああ……かあさん……っ」
ゆっくりと、左手が伸びて来た。迫り来る若い獣に逃げ惑っていた
十数分前の美希子なら、すぐ払いのけていたであろう左手。
その手のひらは、優しいタッチで母親のまだ濡れた髪に着地した。
「んふ……っ」
母親が腫れた腕をさするのと同じように、息子も母親の髪を撫でる。
傷ついた息子と、それを必死に癒す母親。まだ、この瞬間までは。
「かあ、さん……?」
きつそうに顔を上げて、自分の右手に縋る母親に囁く、徹。
「……?」
指を口に咥えたまま、上目遣いに徹の顔を見る、美希子。
「つらいんだ……ズボンの中が。母さんが、そんなふうにして
くれる、から……」
撫でられる事で、女の幸せを少し感じていた髪から、左手が離れる。
空虚感から美希子の視線は、その左手を追った。辿り着いた、先。
その左手が、ユニフォームのチャックを下げる、金属音。
「ここも、指みたいに、痛くて……どうにかしてよ、母さん……」
左手は動き続ける。開いたチャックからわずかに見えたブリーフの白。
そして、そこから姿を現した、もの。