扇情/

 息子 徹に刻まれた腕の傷。それを刻んだ、自分。子供を守ってやらなければ
ならない母親であるはずなのに、だ。息子が家を出て行ってからしばらく、
美希子はその罪の重さに打ちのめされていた。
 選択は、間違っていないはずだ。傷を負わせた罪の報いに、口で愛してあげる
など、常人の考える事ではない。美希子も、流されていた自分を悟ったから
こそ、激しく拒否したのだ。その後の、事は。
 しかし、拒絶したからこそ、心を刺す罪。徹の傷を見て、息子の活躍を期待
している夫もいつか見咎めるだろう。その時、息子はなんと答えるのか。
自分は、それにどう反応すればいいのか……
 やがて、美希子は立ち上がった。無論、解決策が浮かんだわけではない。
当たり前のように洗い物をし、当たり前のように掃除をし、当たり前のように
洗濯をした。何かをしている事で、わずかではあるが息子と自分との間に
横たわる罪と罰を忘れる事が出来た。そして、美希子は出かける準備をする。
気づけば、この数日間まともに買い物をしていない。何かが狂い始めた、
ゆかり宅訪問の日から。

 戸締りをして、ふと振り返る。リビングのフローリング。あの夜何度も
拭いたはずなのに、鼻の奥には牡の生々しい匂いが感じられる。
 この家にいるという事は、この匂いに囚われているという事なのかも
知れない。
 美希子はそんな恐ろしい妄想を振り払って、廊下を駆けた。


 雨が、降り出した。スーパーの軒先で途方に暮れる、美希子。正直な所、
天気予報を見ている余裕などなかった。
 夏特有の、むっとする空気が美希子を戸惑わす。目の前の雨は、ますます
勢いを増してゆく。
 顔見知りの奥さんが、スーパーから出て来て美希子に声をかけた。

「沢口さん。この雨、しばらく止まないそうよ。いま店内のテレビで

言ってたわ」
「あ……そうなんですか」
「傘貸してあげたいけど、一本しかないし。一緒に入って、家まで送って
あげましょうか?」
「いえ、とんでもないです。本当に、ありがとうございます」

 この奥さんの家は沢口家と逆方向だ。ありがたいと本心から思いつつ、
断った。
 何度も会釈して遠ざかっていく奥さんを眺める。
 決めた。自宅まで走ろう、と。幸い距離は1kmほど。勢いが増すばかりの
雨、そうすることが最善だと思われる。

……よし」

 買い物袋を下げ、美希子は雨の中に走り出した。白いブラウスが、見る見る

うちに大きな雨粒に濡れていく。濡れていく。



 自宅まで10数メートル。ブラウスはもちろん黒のスカートも、すでに全身
ずぶぬれになっていた。しかし、角を曲がれば家に入れるという事実に、
美希子は安堵していた。

……っ」

 荒い息で辿り着いた、門。美希子の視線は、玄関先へ。

 ポーチには、途方に暮れた様子の徹がいた。

「と、おる」

 見れば、息子も自分と同じようにびしょ濡れだ。腕に巻かれた包帯は、

見るも無残に汚れふやけている。

「母さん……俺、家のカギ忘れちゃってた」

 微笑む、息子。

「普通は家に母さんがいるからって安心して帰って来たんだけど
……午前中に
買い物なんて、珍しいね」

 微笑は続く。しかしその表情は、包帯やびしょ濡れの姿と相まって、
美希子の母親としての心情を煽るだけの物だった。

「ゴメンね徹
……今すぐ、カギ開けるから」

 また一つ棘が刺さってしまった。強い雨の中、水しぶきを立たせて駆けた
美希子は、ポーチに佇む息子のそばを通り抜け玄関に辿り着いた。
 濡れた指先は、なかなかバッグからカギを取り出せないでいる。
 美希子はあせった。息子を早く暖かい場所に連れていこうと必死だった。
 すぐ後ろの息子が、その指先ではなく自分の躰に視線を向けている事に
気づかずにいた。
 ぴったりと貼り付き、白い肌を浮かび上がらせているブラウス。
 薄着の透けを防止するためにあえて着けた濃いブラウンのブラ。
 濡れた事で光沢が増した、豊かな肉を隠している黒いタイト気味のスカート。
 その全てが、徹を扇情している事など、思いもよらなかった。
 そして。
 戸惑っていた指先は、激しい緊張に静止した。
 背後から、強く抱き締められたのだ。抱き締めた相手は、当然。



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