貫通/

 ピンポーン。


 母と子の関係を捨て去ろうとしていた男と女にとって、その呼び鈴は。
 その電子音は、一度だけではなく連続で鳴っている。熱に浮かされた不道徳な獣2匹をを現実に晒す鋭さを持って、何度も何度も鳴り続ける。


「……っ!」

 そしてここでも、先に我に返ったのは母だった。本能に溺れようと先に決心したはずの、母 美希子だった。

 玄関のドアには、カギがかかっていない。
 靴は脱ぎ散らかされている。
 濡れた体を這わせ合った跡が、廊下のフローリングに続いている。
 リビングに続く戸は、開いている。

 呼び鈴をヒステリックに鳴らし続ける人物がドアを開けた時、そこに広がる異様な光景を見てどう思うか?急激に熱を失っていく思考の中で、美希子は恐怖した。息子に躰の中心を許そうと決めた同じ心の中で、恐怖した。

「だ、めっ……!」

 たった二人だけの世界の中心と成り得たはずの、潤みきった互いの性器。美希子の突然の突き離しによって、その場所は離れた。男から息子に戻らされた徹も、女から母に戻った美希子も、その場所が本当に触れ合っていたのか確かめる術を失った。

「そんな……かあ、さんっ」

 想いを遂げる寸前で遠ざけられた徹は、勿論母親の躰を繋ぎとめようとした。だが美希子の抵抗は、雨に打たれ息子に抱きすくめられ愛を囁かれた玄関先の状況よりもずっと頑強だった。
 その抵抗は、玄関ドアが開いた音で更に強まる。

「美希子さんっ!いないの!?」

 その声は、ゆかりだった。その声が耳に届いた刹那、美希子の両腕は息子の胸を強く弾いた。
 徹は突き飛ばされ惨めに尻餅をつく。まだ悲しく嘶き続けている怒張の先が何かしらの粘液に塗れて薄暗い部屋の中でも微かに光るのを美希子は見た。しかしもちろん、それが何の汁であるかなど確かめる余裕はない。

「ゆかり、さんっ」

 声を上げた。陵辱者の躰を突き放した女が、裸の身を救ってくれる人物の登場に上げた次の言葉は。

「あの……大丈夫です、何も、ありませんからっ」

 息子に、襲われた。躰を、奪われそうになった。いくつかの言葉を美希子は飲み込んで、床に散らばった自分の濡れた衣服を掻き集め始めた。母親として、自らの奥を穿とうとしていた息子の体面さえも守ろうとした。美希子はすでに、女から母へと戻っていたのだ。

「お、お風呂に入ろうと思って、こけちゃって……それだけですから!」

 胸に乱れた布切れたちを抱え、美希子は裸の肩と共に玄関のほうへ顔を出した。徹の気配も気にはなったが、今はそれを省みる余裕などない。

「美希子さん……っ、本当に大丈夫なの?」

 数メートル先。ゆかりの艶やかな顔は、まだ心配に歪んでいる。

「大丈夫、大丈夫……です」

 自分がどんな表情をしているのかさえ、美希子には分からなかった。しかし今は、呪文のように大丈夫だと繰り返すしかない。ゆかりに今踏み込まれれば、つい先程まで男を剥き出しにしていたはずの徹の姿を見られる事になる。言い訳など、思いつくはずもない。

「そう……電話の声が少しおかしかったから、慌てて来てみたんだけど」
「ありがとう、こざいます……服、着ますから」

 ようやく言葉が荒い息に追いついて来た。

「そうなの……じゃあ、待ってるわね。少し、話したい事もあるから」

 まだ複雑な表情を浮かべながら、ゆかりは玄関から沢口家の中に視線を漂わせている。そんなゆかりの様子を気にかけながらも、美希子は雨に濡れまるで愛撫のようなくねり合いに乱れた衣服ではない物を探して着なければならなかった。

「ちょ、ちょっと失礼します……」

 ほぼ全裸の、雨粒と同程度あらぬ汗にまみれた躰をゆかりの前に晒しながら、美希子は廊下を走り自室に飛び込んだ。下着を着け、服を着て、何食わぬ顔でゆかりを迎えなければならない。

 一瞬だけ、息子の行方を思った。出産時と同じくらい粘膜同士が接近した直後、母さん、と短く叫び無様にリビングの床に尻餅をついた息子 徹。あれほど激しく吐かれていた母を熱く呼ぶ声も、今はまるで聞こえない。母が女を拒絶した瞬間、消え失せてしまったかのようだ。

 だから。
 だから逆に、美希子は震えた。徹は、どこかにいるのだ。恐慌から逃れた母親と、恐慌を訝しんで訪れたゆかりがいる、この家のどこかに。

「は、あ……っ」

 美希子は、選ぶ余裕などないまま服を身に着け、再び廊下へと駆けた。母と子の肉が最接近した瞬間には消え失せていたはずの徹とゆかりの幻が、また蘇る。


「ごめんなさいね。なんだか慌てさせちゃって」
「い、いえ……そんなこと、ないです」

 極めて変わりない、しかしどこか上滑った女二人の会話。ゆかりは沢口家のリビングのソファに座り、美希子はゆかりに出すための紅茶をキッチンで準備している。

「……私、美希子さんに謝らなきゃいけないわね」
「……は、い?」
「例の……その、息子の性の事についてよ。何か私の冗談で、美希子さんを悩ませてるんじゃないかって」

 キッチンの美希子に向かって、ゆかりはまっすぐな視線を向けている。ただ美希子は、その視線に答える余裕はなく、ティーセットにうつろに目線を落とす。

「そんな、ゆかりさん……」

 それは事実だった。悩みどころか、ゆかりのわずかなあの言葉に誘引されたかのように、美希子と徹の母子は歪な形に絡まり繋がり始めている。そして今も、姿の見えない徹に怯え続けている。

「あの話は、あくまで冗談だから。ほら、思春期の息子を持つ主婦の悩みを、美希子さんと少し共有したかっただけよ」

 ようやく、美希子はゆかりの顔を少しだけ窺う事ができた。真剣な顔。知的な美貌を少しだけ歪ませて、美希子のほうをしっかりと見つめていた。だから美希子は、すぐに視線をそらす。

「あ、あの……お茶、入りましたから」

 澱んだ空気を振り払おうと、熱い紅茶を淹れたティーカップをテーブルに運ぶ。湯気が2人の間にたゆたうが、美希子とゆかりの心は微妙に乱れ続ける。

 遠慮がちな動作でカップを手に取り、ゆっくりと紅茶に口をつけるゆかり。今度はそのゆかりが、わずかな反応を待つ美希子の視線から逃れているようにも見える。沈黙にいたたまれなくなったのは、やはり美希子のほうだった。何も汚れてはいないのに、まるで食器洗いをしかけていたかのようにキッチンへと戻る。

 ステンレスのシンクに流れ落ちる水流の音が、唯一美女2人の沈黙を乱している。

 ゆかりは、これまでの事を冗談だと言った。発端となったあの日の告白も、冗談だと。ただ息子の成長の喜びを共有するための、冗談だと。
 ならば、全ては自分の暴走だったのだ。ゆかりの言葉を真に受けて、息子のデリケートな部分に踏み込み、混乱させたのは自分自身の咎だったのだ。美希子は、まるで実を伴っていない食器を洗う手に水流を打ちつけながら、乱れに乱れたここ数日間の母子の光景を振り払おうとする。


 無意識に息子の下着を漁ろうとした。
 真夜中、慌てる息子の様子に自慰を妄想した。
 近親相姦の漫画や精液塗れのティッシュを発見し、それが息子に露見した。
 これまでの日常を逸脱して、バスルームで尻肌に息子の放出を浴びた。
 深夜のリビングで、迫られてそのこわばりを口に含み舐めしゃぶった。
 傷ついた息子の肉体に心痛み、口淫どころか柔らかい乳房で挟みしごき、飲み啜った。
 そしてつい数分前、息子へ全てを許し、禁忌を犯そうとした。
 母と子で、繋がろうとした。

 幻だ、と思えばいいのだ。ゆかりの他愛もない冗談に浮かされて見た、幻なのだ、と。
 まだ……最後の壁は越えていないの。私と、徹、は……。

「でもね……私、怖くて」

 なのにゆかりは、また美希子の心を掻き乱す。


「え……っ?」

「美希子さんにあんな冗談を言ってから……その、必要以上に意識し始めたの。幸樹の事だったり、その……徹くんの事だったり」

 鼓動が、急に早鐘をつき始める。
 相槌も、もちろん微かな返事すら吐き出せずに、美希子は自分の息子の名前を不意に告げたゆかりを見た。だがゆかりは、カップの中の紅い液体に視線を向けている。

「ごめんなさい。いけない事だとは思うの……でも、その、戯れで精液を匂ったり、それまで気にしていなかった息子たち裸とかを意識したりすると……」

 ゆかりは美希子の反応など求めないかのように、ただその唇から吐露の言葉を紡ぐ。しかしその言霊は、キッチンの美希子を激しく動揺させる。自分でも気づかないうちに、形だけなぞっていた食器洗いの手は止まり、シンクの縁を微かに震えたまま掴み始めていた。
 そして。
 ゆかりの告白よりも、ずっとずっと美希子を乱す、後方の気配。
 抵抗など僅かにもできない、刹那。


 誰かが、美希子のスカートを捲り上げた。
 誰かが、美希子のショーツを下ろした。
 誰かが、一瞬だけ、露わになった尻を撫でた。
 誰かが、その尻肉を両手で掴んだ。
 誰かが、誰かが、美希子の中に、それを、挿れた。



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