当惑/
暗い階段、暗い廊下。徐々に目が慣れていくほど、長い時間をかけてそこを進む。美希子の足取りは、まるで病身のように重い。数歩進んでは、小さく吐息を呑んで止まる。そしてまた数歩、進む。一昨日には息子の恐慌から逃れるために数秒で駆け抜けた道程も、無限の空間のように長く感じられる。
なのに、美希子は最終的に徹の部屋へと辿り着かなければならない。約束したのだから。
子育てとして、美希子や夫は一人息子の徹に「約束は守って」と繰り返し教えて来た。今美希子は、そもそも約束を守ってくれるか分からぬようになった息子へと向かい、約束を守るためにその暗い道を進む。
「……っ」
そして、望む望まないに関わらず、美希子は2階のドアの前へと辿り着く。徹は待っている。ノックして返事を受ければ、この扉は開く。その時部屋の中の息子はどんな顔をして待ち、自分はどんな表情でそれを見るのだろう?
「……とお、る」
思った以上に、喉は乾いていた。声の震えはもう抑えようがない。しかし母親は、何が待っているのかなど考える余裕も無く、室内にいる息子に向けて小さく名を呼んだ。
「……母さん、いいよ」
ほんの少しの間の後、徹の小さな返事が聞こえる。入室の返事をただ小さくもらっただけ。なのにこの数日間美希子はほとんどの場面で、若い息子に対して何かを請い何かを許して貰っている。強く迫られれば弱々しく従ってしまう。
雨と汗に塗れた廊下でのくねり合い。ゆかりの目の前での侵入。みっともなく縋っての口淫、顔の汚れ。
「……入る、わね」
チラチラと自分の恥ずべき痴態が脳裏に浮かぶ。必死にそれを振り払うように、はっきりとした声で、しっかりとした力でドアノブを回した。
「……ッ」
「母さん」
ベッドライトだけが小さな空間を照らしている。その光が照らす先に徹は座っていた。
ぼんやりとした灯りのはずなのに、美希子の目にはその姿がはっきりと映る。
一緒に居た同じ空間で濡れた、風呂上がりのまだ渇き切らない短い髪。
その下でけして冷たくも無く優し過ぎもしないささやかな笑い顔。
右腕に巻かれた新しい包帯が目に入らないほど、鍛えて灼けた腕、脚。
そして。白いボクサーパンツの、きっとその中に息づいてる、モノ。
真正面に居る男は、間違いなく自分が生み、育てた息子。微笑みは確かに冷たくはないが、逆に堂々と感じられる。
だから、ゾクリとしてしまう。
「ここに、座ってよ」
小さく動かした指先で、徹は左隣を指した。あまり仕立ての良くないベッドの、あまり広くない空間。
前に座って、とか服を脱いで、とは命じられなかった。だから美希子は、息子が示した場所に座るしかなかった。
「座る、わね」
小さく息子が頷くのを見、美希子はそこに進みゆっくりとしゃがむ。息子のすぐそば、肌が触れそうで触れない、距離。
「……ふ、うっ」
堂々とした態度に気圧されぬように振舞っているつもりだった。しかしやはり、腰を下ろした瞬間ため息が漏れる。息子に聞かれたかどうかなど分からぬまま、美希子は慌てて口を噤む。
「……」
「……」
そもそもは、昼雨の中を飛び出していった先、『ゆかりさんに話してくるから』と呟き駆け出した先、その話を聞かなければならなかったのだ。
数時間前での入浴では華麗にはぐらかされ、その上顔を滾る精液で汚された。あろう事か、淫らに振舞う自分に微かな昂揚を感じたりもした。震えは辛うじて耐えているつもりだが、皮膚は緊張の圧にピリピリと痺れ続けている。徹の浅黒い肌とすぐにでも触れてしまいそうな、右側。
……また、はぐらかされるのだろうか?「本当の事を教えて」とありきたりな免罪符を口にしながら、深夜この息子のベッドで哀れに傅かなければならないのだろうか?
「やっぱり」
「……え?」
「ウソをついてちゃいけないな、って思った」
「……?」
微かな笑みを残しながら、しかし母のほうには視線を向けず、徹は美希子の予想と違うトーンで語り始めた。
「昼間、過ぎ。あの後ゆかりさんを追って行ったよね?僕」
「え、ええ。そうね」
「……確かにゆかりさんの、幸樹の家には行ったし、大事な用事って告げてゆかりさんとも少し話した」
「……ええ」
思った程抵抗も葛藤も無く、美希子が一番聞きたかった事へと辿り着きそうな雰囲気だった。焦らしも交換条件も、そこには無かった。
「ゆかりさんも少し……緊張してたみたいだったから。こっちも真面目に話したんだ」
「何、を……?」
語って良い事と悪い事が、刹那脳裏をぐるぐると渦巻く。外面ほど、美希子の内心は冷静ではいられなかった。
「……僕と母さんは仲が良過ぎるから、たまに子供っぽい遊びとかをしちゃうんです、って」
「あ、ああ」
「ゆかりさんは……『それは知ってるわ』って言ってくれたよ。少し笑って」
「そ、う……よかった」
「……でも」
「……え?」
「『もうそういう事はやめていかないと』とも、言った」
「……」
「『私たち母親にとっては、息子は死ぬまでずっと小さな可愛い子供だけれど、あなたたちは大人に変わっていくでしょう?あまり仲が良過ぎちゃうと、離れた時母親ってとっても辛いと思う。きっと』、って……」
「……ッ」
ゆかりらしい、簡素だが理知に富んだ言葉。今語っている徹の話に、嘘はないと確信した。
自分自身が強く感じている、母親としての息子との距離。ゆかりも深く悩み、だからこそ冗談めかして秘密を語ったり、我が家のリビングで真剣に葛藤を吐露したりしたのだ。
愛すべき可愛い息子が、気がつけば逞しい青年へと成長している。これからも変わらず愛し続けたいと願っても、きっとどこかへふらふらと誘われ、すぐに他の誰かの物になってしまう。
母親は、それを繋ぎ止める事は出来ないのだ。
「話が難しかったから、少し頭が混乱しちゃって。『ずっと仲が良い母子って、無理ですか?』ってバカみたいな質問した」
「……」
「そしたら『あなたがいいと思っても、母親はあなたの将来を思って、無理してでも離れる。それが実の母子って物なの』って、ゆかりさんが」
「……」
「そんなの嫌だ、って思うし。でもなんとなく正解かもしれないって思うし。ゆかりさんの前で悩んじゃったんだ」
自室の何も無い空間を凝視しながら小さく語る息子。それを横目でじっと見つめる母。
もしかしたら。
もしかしたら。
この暗く乱れたここ数日間の罪を終わらせるチャンスなのかもしれない。
ゆかりが徹にしっかりと語ってくれたおかげで、全てとは言わないが母親の心情が子に伝わっているような気がする。
実の母と息子は、望む望まないに関わらずいつか離れていく物で、今がまさにその時期であるのだ、と。お互いの肉体が気になったり、それを発散できずにもやもやと悩んだりするのも、いずれ来る成長としての別離の、些細な弊害なのだ、と。
だから、『もうそういう事はやめていかないと』いけないのだ。そしてその言葉は、ゆかりではなく母親である自分がしっかりと告げなければならないはず。
暗い息子の部屋で。焦らされ動揺された思考で。自分が何をすべきか分からぬままここに居た美希子。今この瞬間少しだけ勇気を出せば、パジャマのポケットの小さな惑いなど必要なくなるのだ。
「……黙ってる僕を見て、ゆかりさんがね」
ただ現実は美希子という母の、女のほんの僅かの逡巡をあっさりと砕く。
やはりゆかり、という響きの言葉だった。
「『母親はダメかもしれないけど、他の人だったらいいのよ。同級生とか、他の人とか』って、言ってくれたんだ」
「……ッ」
他の、人。言ってくれた。
当たり前の同級生、という言葉には反応できず、美希子の心はまた千々に乱れる。
ゆかりがそのシチュエーションで告げる他の人とは、一体誰なのだろうか?聞かされた徹が想像する他の人とは、一体誰なのだろうか?
それはもしや、今自分が頭の中に像を結んでいる女性と同じ人物なのではないだろうか?
「でも、僕は」
母の歪んだ思考を知ってか知らずか、徹は顔をゆっくり横に向け母親を見つめた。その視線に、思わず母である美希子のほうが顔を逸らせてしまう。
「……母さんと、母さんとだけ、仲良くしたいから」
呟きほどの抑えた言葉。しかしその言葉に今度は、恐ろしいほど自然に視線を向けた。母と息子の瞳が久々に交わされ合う。
「母さんとだけ……そういう事、したいから」
「……ッ」
ほんの数センチ、徹の体が横にずれる。元々近かったその隙間は、はっきりと埋められる。
裸の息子の肌が、薄いパジャマの奥の母親の肌に触れる。
「……ねえ」
接触の後も、視線は外れない。母親とだけしたいと告白した子。自分とだけしたいと告白された母。同級生でも他の人でもない実の母子が、まるで恋人同士のように目と目を見つめる。
続く言葉も、まるで。
「キスして、いい……?」
「……ッ!」
身が弾かれてしまいそうな衝撃。
しかし逆に、だからこそ美希子は不思議と別の感慨を持つ事が出来た。一つ小さく息を呑んだが、瞳の合致は外れる。
あのまま視線をくねらせたままで押し倒されるよりずっとずっと、美希子は強く声を出せた。
「……キスは、ダメよ」
「えっ」
「お互いに、キスは、ダメ。本当に好きな人ができたら、あげるべきよ」
つい数時間前に性器と性器を濡れた体で撫で合い、あまつさえ受け入れ貫かれた関係でなお、母親はロマンティックにそう囁いた。
父親だとか、初恋の相手だとかの説明は必要ないはず。ただ、キスは母子の関係ではタブーであるべきだと思った。
何かの予感が、そう抗弁させたのか。
「……そうだよね、キスはダメだよね」
そして多分徹も、母親がキスを許すべき人物を思い浮かべたのだろう。母の横顔から眼を離し、母と同じように床を理由も無く見つめる。
そこから数分間、奇妙な沈黙が徹の部屋に訪れた。
いかにも学生らしいベッドの上、そこに座るボクサーパンツの若い男。その隣のパジャマ姿の女。互いの体温をはっきりと感じているはずなのに、同じように視線を下げて黙り込んでいた。
美希子にとっては、熱い見つめ合いの冷却期間であったはずだった。
徹にとっては、どうやらそうではなかった。
「……じゃあ、キスの代わりに」
「……」
「見せ、て。ちゃんと」
「……?」
「まだ、ちゃんと見た事がない、から」
具体的な単語が現れない分、どうとでも捉えられる「見せて」に、美希子の体温は恐ろしくゆっくり上がっていった。