◇ 蟻地獄で逢いましょう ◇


【 0・5.思い出の中にしか彼女はいない 】

 ‥‥もはや息のないノゾミの身体は、毒と血の混ざった赤黒い水溜まりに突っ伏すようにして倒れていた。
 ナナシとフリンは剣を構えたまま、黙して亡骸の傍らに立ち、待った。
 するとやがて、冷えていく亡骸からダヌーの残影が現れ、陽炎のように立ちのぼった。
『ナナシ――フリン――‥‥どうして‥‥どうして、なのですか‥‥』
 何度も繰り返した前の世界で、仲間を手に掛けた時と同じだった。
 ダグザと同じ動かぬ顔貌で、しかし悲しげに問うダヌーに、先に口を開いたのはフリンだった。
「どうして、と訊きたいのは僕の方だよ、ダヌー」
『なぜ‥‥救世主たるあなた達が‥‥こんな‥‥こと‥を‥』
「残念ながら、僕達は救世主じゃない。‥‥奪われたものを取り戻すための、復讐者だ」
 かぶりを振ってフリンは言い、ノゾミの亡骸を目の端で見やった。
「ねえ、ダヌー。ノゾミの心をどこへやったんだ? あなたのために妖精の女王になると言った、あの優しいノゾミは一体どこへ?」
『な‥ぜ‥‥』
 ダヌーの残影は繰り言と共にそのままゆっくりと薄らいでいき、やがて赤い霧の中へ溶け消えた。ナナシがとどめを刺すまでもなかった。
 かつてノゾミとどんな思い出があったのか、フリンはしばらく唇を引き結び、足下の亡骸を見下ろしていた。ダグザの神殺しと知られた途端「いつか君を殺すかも知れない」などと言われたナナシとは違い、フリンのそれはよほど暖かい、大事な思い出なのだろうと思えた。
 そうして短い間の後に、ノゾミの亡骸は炭酸水から気泡が抜け出ていくさまに似た、可視ぎりぎりの粒子となって静かに蒸散し始めた。それは高位の悪魔を倒した時と、全く同じ光景だった。
 東京で口にする悪魔の肉は「フード」に分類される種族のものだった。あれらは魔物としての霊性が低いとかで、倒してもその肉が残るのだ。
 一方、ある程度高位の悪魔達は、物質としての肉体をほぼ持たない。女神や魔神といった高位の種族ほど、その身体は高濃度のマグネタイトで構成されており、倒しても時に所持品を残すのみで、あとは霧のように解け消えてしまう。
 ノゾミはやはりいつからか、人間としてのノゾミであることを失い、ダヌーの傀儡となっていたのだ――今やすっかり消えてしまった亡骸は、紛れもないその証左であった。
「‥‥ミカド国から東京へ降りて、それほど間もない頃だったんだ。届け物のクエストで初めて会って、カメラを貰ってね」
 亡骸の消えた毒溜まりを見ながら、フリンはどこか押し殺したような、色のない声音で呟いた。
「おかげで色んなクエストも受けられたし、その後も、右も左も解らない東京で、色々と助けてもらったんだ――」
 フリンは痛みを堪えるように、ぐっと目を閉じて、俯いた。
「こんなことになるなら、あの時止めればよかった――彼女がダヌーの依り代になると決めた、その場に立ち会ったのは、僕なんだ」
 予想だにしなかったその言葉に、ナナシは息を呑んだ。
 だが、ノゾミがそれを受け入れたのなら、それはフリンのせいじゃない――
 そうナナシが告げると、フリンは少し黙った後、
「‥‥ありがとう」
 とぽつりと言った。そして何かを断ち切るように、ふるりと何度かかぶりを振り、
「では、往こうか――新しい魔神ダグザのところへ」
 常の読めない無表情に戻って、頷いたナナシと踵を返した。
 ダヌーが消えてしまったことに、ダグザはもう、気付いているはずだった。
(2016/04/20)
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