◇ 蟻地獄で逢いましょう ◇
【 4.蟻地獄で逢いましょう 】
二人のダグザが対峙する中、ナナシはフリンに歩み寄り、埃だらけになってしまった制服をパタパタと払った。「大丈夫かフリン」
「ああ、このくらい慣れたものさ。‥‥まあ久々ではあったけどね」
「‥‥小僧。どういうことだ。その男は何故」
未だ驚きの覚めやらぬ風情で、新しきダグザが詰問すると、旧きダグザがフンと鼻を鳴らした。
「カロン――あの強突く爺め。まだそんな小遣い稼ぎを続けていたか」
「何?‥‥」
新しきダグザが旧きダグザと、フリンと、ナナシとを順繰りに見やる。
ナナシとフリンは顔を見合わせ、互いに会心の笑みを浮かべた。
‥‥元のダグザと新しいダグザが同じ鋳型による別人であるならば、ナナシが倒したその魂が必ずどこかにあるはずだった。
それが例えば封印されているクリシュナと、契約でスマホに登録されている分霊の関係と同じものだとしたら、この計画は根幹からやり直しになる。ダグザが真にダヌーが作り替えてしまった同一の存在だったとしても、やはり全てはご破算だ。
考えごとが苦手なナナシはフリンの助けを借りながら、二人のダグザが別の存在であり、分霊でもない可能性に賭けた。
まず、知らずナナシが倒してしまったダグザの魂はどこにあるのか。
やはり黄泉だろう、という仮定が為されたが、ではそれをどうやって戻したらいいのか。
『多分、僕なら可能だろう』
そう言ったフリンが告げたのは、ダグザによるナナシの黄泉帰り以上に驚くべき彼の秘密であった。
『最近はすっかりご無沙汰だけど、前にはよく、カロンに――ああ、三途の川の渡し守だ。その男に賄賂を渡して、こちらに返してもらったんだよ』
驚いてナナシが問い詰めると、以前ナナシが下った黄泉路の光のさらに向こうには、彼岸と此岸の境目である三途の川というものがあって、そこを越えることが真の死となるらしい――と苦笑混じりにフリンは語った。
しかし近頃死者が増え、渡しの仕事が追いつかない。それで秘かに賄賂を受け取って、死者を渡さずに現世に返す。カロンは仕事を減らせて金にもなるし、フリンは現世に黄泉帰ることが出来る、という一石二鳥の取引を交わしたのだと。
『魔神の魂が別物だとしたら、向こうを当たれば見つかるかも知れない』
だが、とっくの昔に川を渡っていたとしたら?
そう問うたナナシに、フリンは少し考えながら、順を追って説明した。
『どうもあちらでは――いや、黄泉に限らず神々の領域というのは、時間の流れが絶対的なものではないようなんだよ』
どういうことかと訊いたナナシにも、後の説明は理解出来るものだった。
フリンはそもそも元の世界で、時間を越える妙なクエストを何度かこなしたことがあったのだ、と語った。
『ガブリエルの依頼で、幽閉されていた三天使を解放したことがあるんだが――そのずっと後になって、また別の天使の依頼を受けて、その三天使を倒したことがあるんだ。‥‥彼らは、僕達が三人を解放した塔に幽閉されると言っていた』
え、とナナシは首を捻った。時系列がよく理解出来ない。
『奇妙な話だろう? 僕が受けた後の方のクエストは、過去の出来事だったんだよ。依頼者であるマンセマットが、僕を過去に送り込んだんだ』
ナナシが茫然としていると、フリンはもうひとつの例を挙げた。
『僕と君の復活がどう違うか、厳密には調べようがないのだけど――戦闘で命を落として復活した時、それは〈不屈の闘志〉の発動時のような、死んだ瞬間の戦闘中だったことがあるかい?』
いや、とナナシはかぶりを振った。最初の一度だけはそうだった気がするが、それ以降、ダグザに呆れられながら黄泉帰る時は、戦闘が始まる少し前の時間に戻っていて――
『それはつまり、時間を遡っている、ということじゃないか? 彼らは単純に人間を生き返らせているんじゃなく、少し前の時間に巻き戻しているんだよ。恐らくは』
それが黄泉における時間感覚のひずみなのか、それとも命を現世に戻す神々の力なのかは解らない。だがどちらにしろ、向こうで過去の魂を探すことも、それを現世に連れ戻すことも、試してみる価値はあるだろう――と、フリンは決然と言ったのだった。
「それと気付かれないようにわざと死ぬのは、かえって骨が折れたけどね。上手く行って良かったよ」
肩をすくめてフリンは笑った。万能魔法を二度も食らって死に、それを何でもないことのように語るフリンはさすがに年季の入り方が違う――と、ナナシはほとんど呆れて思った。この男が敵でなくて良かったと心底思う。
「ダグザは――結局どこにいたんだ?」
「彼は黄泉路の入り口で、君が通りかかるのを待っていたダグザのようだよ」
え、とナナシは目を見開いた。いくら時間には揺らぎがあると言っても、それはあまりに幅がありすぎるのではないか。
「だが、オレはこちらの時間で一度死したオレでもある――オマエ達の推察した通り」
黙して聞いていた旧きダグザが、苦笑めいてまた皮肉に言った。
「なるほど、時間の流れも魂の所在も、存外いい加減で適当なものだ」
『‥‥前に君から聞いた話で、ちょっと引っかかっていることがあるんだよ』
あの時フリンが思い出したのは、ナナシが最初にアドラメレクに遭遇し、ダグザの力で蘇った時の話だった。
――‥‥貴方、生き返って力を得ましたね? そう、これは復讐に燃える魔神の力‥‥
戸惑いと共にそう言って、アドラメレクは去っていった。
ナナシはその時ただ必死だった。「傍らにいた小娘もじきに死ぬ」と――アサヒも殺されるとダグザに煽られ、ただただ戻りたいと思っていただけで、復讐などというある意味高度な思考を巡らす余裕などはなかった。
では、復讐に燃えているのは誰なのだ?‥‥
『向こうの時間が不確かだとしたら――ましてや、君は何度も時間を巻き戻している。一度死んだ元のダグザが、そこで君を待ち構えているダグザと、どこかで繋がりがあってもおかしくはないんじゃないか?』
神々の存在は、魂は、人間にはおよそ理解不能な在りようを当然としていることも多い。何度も繰り返す世界の中、前の記憶を保っているのがナナシとフリンだけとは限らない。その都度道半ばで倒れるダグザは、本当にそれに満足しきって川を渡ろうとするだろうか? 積み重なっていく記憶のように、積み重なっていくダグザの無念もどこかに凝っているのではないか――
死したダグザの魂か、積み重なったその思念かの、どちらかを見つけることが出来るのなら、ダグザをこちらに復活させることが出来る――それが、ナナシとフリンの賭けだった。
「黄泉の入り口で此岸の軛から解き放たれている間は、全ての時間軸の記憶が混在している――だが、ひとたび〈こちら〉に戻ってしまえば、その時点での時間の流れと辻褄の合わぬ未来の記憶は、全て魂からこぼれ落ちてしまう」
「‥‥それって、つまり」
「オマエと契約した時点の現世に戻れば、それより先の記憶は失われるのだ。そして漠とした無念さのみが残る――だが、全てを覚えていて当然の時間軸に戻れば、それにふさわしい記憶を保持していられる。そういうことだ」
「さすがに黄泉のどこかにいるはずだ、という推測だけでカロンを引っ張ってダグザを探してもらったり、それを〈この時間〉に連れ帰ったりなんて手間をかけさせたものだから、渡す賄賂も割り増し料金だったのが痛かったけどね。‥‥また頑張って稼がないと」
言ってフリンは朗らかに笑った。
‥‥なるほどそうした事情もあって、やたらと金稼ぎに長けていた訳か、と今さらながらにナナシも苦笑した。
「‥‥――それで、オマエ達はどうするつもりだ」
今まで黙して聞くだけだった、新しいダグザが低く問うた。
「旧きオレを呼び戻して、新しきオレを殺すか」
「いや。‥‥あんたは何も悪くない」
いつかと同じその言葉を、ナナシは繰り返した。
「それに、あんたもダグザだ。‥‥俺はもう、二度とダグザを殺したくない」
「ではどうする」
重ねて問うた新しきダグザと、旧きダグザとを交互に見やり、
「元はどっちも同じダグザなんだ。‥‥合一して一人になればいい」
手の甲に光るダグザの力――いや、今となっては新宇宙の神にして最強の神殺しの紋章を掲げ、ナナシは二人のダグザに告げた。
‥‥その計画を話し合った時、最後に残った懸念がそれだった。
つまり、二人目のダグザは元のダグザに吸収されることを良しとするだろうか、という問題だ。
ダヌーの望み通りに造られたとはいえ、結局は同じダグザなのだ。元と同じだけの我の強さを備えていても不思議ではない。
が――
「‥‥承知した」
新しきダグザは淡々と告げた。
「今ならば、オレにも少々考えるところがある」
「フ‥‥本当にそれで良いのか?」
旧きダグザが挑発するように言ったが、新しきダグザはそれに応え、同質の笑みを含んで返した。
「旧きオレよ。後でしまったと言っても遅いぞ。‥‥このオレは、飽くまでその頑迷を良しとはせぬ」
「ぬかせ。ダヌーに跪いて感謝までしたくせに、何を今さら」
‥‥この負け惜しみ合戦は何なのか。と呆れてその応酬を見ていたナナシに、二人のダグザが同時に振り返り、
「早くしろ、小僧」
と言ってきた。
ナナシはフリンと顔を見合わせ――それから二人に向き直ると、二人のダグザを合一させるべく、腕の紋様から力を放った。
マグネタイトの光が弾け、森中に咲き誇る桜の花が一斉に吹き飛んで舞い散った。
舞い上がった花片がダグザを中心に、激しい風と共に渦巻いたかと思うと、それはやがて一点を目指す力となって収束し――花弁に取り巻かれたダグザの姿がすっかり見えなくなった、次の瞬間。
強い求心力が、唐突に薙いだ。
花弁はまるで羽毛のようにふわりと宙で動きを止め、やがて浮力を失いながらゆらゆらとその場に落ちていき――後には見慣れた腕組みの姿勢で、ただ一人のダグザが立っていた。
「‥‥なあ、どんな感じだ?」
恐る恐る、ナナシは問うた。
ダグザはしばし答えずに、何事かを思索するように緑の目を伏せて黙していた。
が、ふっと険しい目の色を緩め、
「‥‥そういうことか」
と呟いた。
何だよ、教えろよ、とナナシがせっつくと、ダグザは「まあ待て」とそれを諫め、やがてゆっくりと語り始めた。
「合一してみて解ったことだが、ダヌーが生んだ新しきオレは、どうやら本当に〈この〉オレと同じものであったようだ――ただの風であり、雨であり、まだ何者でもなかった一現象が、人の観測によって〈神〉という形を得たばかりの頃の、な」
意味がよく解らず首を傾げると、見かねたようにフリンが口を開いた。
「つまり――同じダグザとして形を得たものの、新しい方の彼は生まれたてのダグザで、今のあなたはその後成長して、歳古りたダグザだったということか」
「その通りだ。‥‥聡明だな、救世主よ」
「その呼び方はやめてくれ」
フリンは笑った。
「僕はナナシの共犯者で、ただの反逆者だよ。‥‥フリンと呼んでくれ」
「承知した、フリン」
フリンとダグザは意気投合した風情で、互いに笑みを交わし合った。
「‥‥なあ。それ、もしかして俺が頭悪いって言いたいのか?」
なんか腹立つ、と突っ込んだナナシをよそに、ダグザは構わず話を続けた。
「同じ鋳型で造ったものを、母上が巧妙に置き替えた――それはオマエ達が推察した通りだ。だが、そこにはダヌーも読み切れなかった誤算がひとつあった」
「誤算?」
「生まれたての幼子が、母に忠実なのは当たり前だ。‥‥だが、子供というものは育つにつれ、母が世界の絶対者ではないと、いつか必ず知ることになる」
母のいなかったナナシには解らないことだ。それはつまり、どういう意味なのか。
「ダヌーが産み直した新しきオレも、全く同じ型から造られた以上、やがては今のオレと等しいものになっただろう、ということだ」
ナナシとフリンは顔を見合わせた。だが、それは遥かな先のことだろう。そしてナナシが繰り返しを続ける限り、その未来が訪れることはない。恐らくはこれでよかったのだ――今のところは、そう思うしかなかった。
そこまで考えて、ふと思い出した。
新しいダグザが口にしていた、「少々思うところがある」とは、一体どういう意味だったのか。
「‥‥あれか」
どうしてか、ダグザは少しだけ渋い顔をした。表情自体は動かないのだが、彼の目の色は意外と饒舌だ。‥‥そう思うのはナナシだけなのかも知れないが。
「聞かせてくれないか、魔神ダグザ」
取りなすようにフリンが言うと、その口調の柔らかさも手伝ってか、ダグザは「仕方がない」とでも言いたげに話し始めた。
「‥‥新しきオレは、ダヌーに造られてまだ日が浅い。己の在りようにさしたる疑問を抱いてはおらず、何より、あれは人間を愛していた。オマエ達はそこにつけ込んだのだろう」
ああ、とナナシは頷いた。
元のダグザを呼び戻す時に、それがひとつの魂ではなく、思念の欠片であった場合、如何に形にするかを考えた時、新しいダグザを依り代に、元のダグザを上書きしてしまえばいい、という案が浮かんだ。
そのために、元とは全く異なるように思えた新しいダグザの魂に、元のダグザにいくばくか重なる、とっかかりのようなものを作っておくことにしたのだ。――即ち、自身の在りように対する不満や、怒りを。
運が良ければ、新しいダグザがこの世界を肯定しているように、元のダグザにもそのような気持ちが少しなりとも残ればいい――そういうつもりだった。
だがそれは、ナナシが彼を倒した際の、
『オマエはオレを殺したのではないぞ。オマエは――』
と言いかけて途切れた言葉の続きを、あるいは裏切ることであるのかも知れない――そうした不安が、同時にずっとつきまとってもいた。
恐る恐る、ナナシはそれを口にした。
なあ――もしかして、あんたは戻ってきたくはなかったのか?‥‥
だが、
「‥‥それはもういい」
言って、ダグザはそれきり口を噤んだ。
その不可解な沈黙に、じゃあ何なんだとせっつくと、またもフリンが苦笑した。
「つまりは予想以上の成果を収めた、ということのようだよ、ナナシ」
「え?」
「恐らくは、だけどね――新しいダグザは、君が前のダグザの方がいいと言ったことが、予想以上に堪えていたんだろう。‥‥だから」
「余計なことを言うな、フリン。墜ちたる救世主め」
「墜ちるも何も、僕は元々こういう人間だよ」
面白がるように言って、フリンはまた笑った。
「ということは――ナナシに好かれたかった新しいダグザの心持ちは、今のあなたにもそれなりに引き継がれている、ということでいいのかな」
‥‥え? とナナシはダグザを見た。
そのダグザはどうしてか、そっぽを向いて遠くを眺めている。
「こちらとしては、世界を書き換えて消えてしまおうとする、その辺りさえ思い直してくれれば、それで十分だったんだが――」
フリンはやけに嬉しそうだった。‥‥ということは、もしかして。
ナナシはまだどこかぽかんとした気分で、そっぽを向いたままの魔神を見上げた。
遠くを見ていた緑の目が、チラとナナシを見やった後、ダグザはフンと鼻を鳴らし、言った。
「オマエをここまで鍛え上げるには、なるほど他者の存在が必要だった――それは認めてやろう」
(2016/04/20)