君が香りに

 

 

 

「恋なんかじゃない」

 


 誰かが長次と仙蔵を冷やかした。
 その時、仙蔵が言ったのだ。
 恋なんかじゃない。あいつはわたしが欲しがるから、くれているだけ。
 からかいの陽気さを断ち切る、さめた言い方。
 そして、長い黒髪を揺らめかせて仙蔵が去った後、
「やっぱりあいつは怖いよな。もののように言いやがる」
 小声で文次郎が言ったのは、その場の感想を代表しているように思えたが。
 小平太はひとり、それはちがうと思った。ちがう。
 仙ちゃん、寂しそうだった、と。

 



 望めば抱いてくれる、ただそれだけの関係を望んだのは自分だったのだと、仙蔵はわかっている。
 五年生になって、躯の奥深くに疼きを覚えるようになった時に、仙蔵は驚いた。
 躯は、抱かれたいと疼いて仙蔵に訴えた。仙蔵は戸惑いはしなかったが、自分の躯の求めに、ただ驚いた。
 それほどアレに染まっていたつもりはなかったし、自分が愉しんでいると思ったこともなかったから。
 ――可哀想な目に遇っていたとは思わない、酷い目に遇わされているとも思ったことはない。ただ、ソレは幼少時から『勤め』のように仙蔵の日常にあったというだけのこと。
 それだけのことだと思い、それに傷ついても、ましてや溺れてもいないつもりだった。
 だが、身体の正常な成長とともに、肌は性の快楽を欲しがった。
 そうか、と仙蔵は思った。わたしはアレが好きだったのか。
 納得してすぐ、仙蔵は悩むのをやめた。考えるべきはその是非ではなく、方法であるべきだと、仙蔵はなにによらず思っていたから。
 『飢え』を満たすのにいろいろやり方はあったが、面倒はいやだった。欲しくなるたびに相手を調達する面倒は考えただけでうんざりした。……身近で、面倒なく、手軽に満たしてくれる相手がいいと思った。
 思った時に、浮かんだのは身近な友人たち。
 ……伊作は、人がよすぎる。責任だの将来だの言い出しかねない。それはうっとうしい。
 ……文次郎は、押しが強い。最初はいいだろうが、馴染んで来たら自分のペースを持ち出すだろう、それは面倒だ。
 ……小平太は……ガキだ。問題外。
 その消去法で残ったのが長次だっただけで、仙蔵自身、長次に対して特別の思い入れがあって関係を望んだのではなかった。寡黙でしかも物事に執着しない長次は、仙蔵の思惑どおり、責任も恋も独占欲も関係ないところで仙蔵を抱いてくれたから、仙蔵はそれで満足していた。
 ――満足していた。なのに。
「付き合ってるヤツがいるっていいよなあ」
 なにげない級友の一言に、二人を恋人同士として見る周囲の目に。
 仙蔵は苛立つようになった。
 文次郎ですら、「似合いだ」なぞと言ったことがある。おまえの目は節穴か。下半身だけくっつけあって精を吐き出している関係と、互いに必要としあい、情を掛け合う間柄との見分けも、おまえはつかんのか、と仙蔵は噛み付きたくなった。
 自分たちは、ヤッてもらうのが気持ちよくて、ヤレルのが便利で、だから行為を共にしているだけなのだ。
「長次は、恋ってわかるか?」
 閨言に仙蔵は問うてみる。
 長次はかすかに眉を寄せるだけだ。読めぬ表情をそれでも『わからない』と読み取って。
「……わたしもだ」
 仙蔵は薄く笑う。
 ……こうして、繋がっていても、わからぬよな、長次。
 わたしたちはただ……サカッているだけだよな……。

 



 長次と仙蔵がよい仲だとは、一年も前から知っていて、それについてどうこう思ったことは一度もなかったけれど。
 小平太はなにやらわけがわからぬが、とにかく「むかつく」と表現するのがふさわしい、苛立ちと腹立ちを感じるようになった。その「むかつき」は長次の感情の出ぬ顔を見るたび、小平太を襲う。
 仙蔵にあんな顔させて。
 「恋じゃない」と言わせて。
 「あいつはわたしが欲しがるから、くれているだけ」と呟かせて。
 それでも、無表情に態度の変わらぬ長次に。
 小平太はむかついた。
 図書室で貸出係をつとめる長次の前に、ばさりと乱暴に本を投げ出す。
「…………」
 黙って見上げる長次の目が、『乱暴に扱うな』と咎めるのを無視して、ぷいと横を向く。
 そこでさらに相手を追求するほど、長次はことに執着しない。が、返却の手続きを進める長次の手がふと止まり、小平太が持って来た本の表紙の端を、すっとなぞった。
 ピ。
 破れ目がはねた。
「…………」
 今度はきつい目線に、小平太は「なんだよ」と毒づいた。
「おれが借りる前から破れてたんだよ! 本の修繕だって図書委員の仕事だろ、おまえがちゃんとやればいいんじゃん!」
「…………」
 長次の変わらぬ顔が、かすかに不機嫌を映す。
「……本は、大事にしろ」
 小平太はむっとしたが、なんとかこらえた。本を大事に。この正論にムキになれば、子供と変わらない。それでも、胸に渦巻く気持ちの悪さをなんとかしたくて。
「長次、本は大事にするんだな。本は」
 厭味に満ちた口調で、小平太は吐き出していた。自分らしくもない黒い含みのある言葉に、小平太自身が驚いたが。
 長次はしばしじっと小平太を見つめ、そして……やはり無言のまま、顔を伏せた。
 言葉はない。
 小平太は瞬間の、長次を殴りつけたい衝動をこぶしを握って耐え、背を向けた。

 



「小平太が、長次に突っ掛かってるぞ」
 声こそ低いささやきだったが、わくわくと面白がる瞳の色は隠そうともせず、文次郎は伊作に言った。
「うん」
 汚れ仕事でもにっこり笑って引き受ける、六年では毒のないほうに属する伊作は、心配気にうなずいた。
「ぼくも気がついてた。……あれは、やっぱりあれかな?」
「おう。あれだろう」
 文次郎はますます嬉しそうだ。
「小平太の奴、いままで一番の晩生(おくて)だと思っていたら、色気づいたとたんにやるじゃないか、え?」
「そんな……決めつけるには早いよ」
「賭けてもいいぜ、俺は。なあ、おもしろいじゃないか。『行け行けドンドン』の勢いだけで、学園の高嶺の花が落とせるかどうか」
 ふう、と伊作はため息をついた。
「……そういう言い方は、文次郎、小平太にも仙蔵にも失礼だぞ」
 文次郎は聞いてはいない。
「なあ、賭けるか賭けるか?」
 伊作はもう一度ため息をついた。

 


 小平太は腹を立てている。
 あいつは本なら大事にするんだ。本なら。
 仙蔵が頬杖ついて、教科書のページをめくっている。
 ……本なんか大事にするんなら。
 もっとこっちも大事にしてやれよ。
 小平太はイライラと思う。
 仙ちゃん、きれいじゃないか。髪だっていつも濡れてるみたいにしっとりして輝いて。肌だって上等の絹織物のようになめらかで白くて。まるで稀代の人形師が彫ったように顔立ちだってきれいで。……仙ちゃん、こんなに綺麗で……長次は本なんか大事にする暇に、もっと仙ちゃん、大事にすればいいんだ。大事にするべきだよ。
 ――もし、おれなら。
 ふと思ったそれに、小平太はうろたえた。
 ――もし、おれなら。もっときちんとちゃんと仙ちゃん、大事にする。絶対絶対、あんな寂しそうな顔なんかさせないし、あんな冷たいことも言わせない。
 ひらめくように、頭の中に浮かんだその一連の言葉の群れに。
 小平太はうろたえた。
 ……おれは……。
 仙蔵は守られるべき力弱い存在ではない。実技も教科も、仙蔵は涼しい顔でトップを守る。……それは知り抜いてるはずなのに。
 その時、視線に気づいたのか、仙蔵が顔を上げた。
 まともに目と目が合った。
 小平太は自分の体が火を噴くかと思った。それほど急激に突然に、身内がかっと熱くなり、小平太は自分の顔が耳から首まで真っ赤に染まっただろうことを悟った。
 慌てて、隠れる場所などないのに、小平太は顔を背けた。
 仙蔵の不審そうな、いぶかるような視線を顔の横に感じて、小平太はますます体が熱くなるのを覚える。
 ――おれは。
 どうしよう、とは思った。思ったが、小平太は気づいてしまった。
 ――おれは、仙ちゃんが好きだ。

 


 福富屋の主が、長次を娘の婿に、などと言い出したのは、そんな時。

 



 周囲はただ、おもしろがった。
 早熟な学年だと言われ、教師陣からも常の六年よりマセているとの評価をもらっている、心身ともに大人の世界に足かけている者が多いこの学年の中でも……長次と仙蔵は一歩先んじている。
 長次の、広い肩幅とそれに見合う発達した胸筋は十分な逞しさを感じさせたし、股間の濃い茂みとそこに息づくものはすでに男の生臭さすら同級生に感じさせた。その長次の傍らにいる仙蔵はこれも、『色香』とか『艶』としか呼びようのない雰囲気を自然に身にまとって超然としている。
 その二人が。時に寄り添うのを、見たことのある者は多い。
 長次が仙蔵を木の幹に押し付けるようにして、口を吸い合っていた。仙蔵が後れ毛を押さえながら、長次の上から身を起こすところだった。……等々。目撃証言は後を断たない。
 しかもその関係は、当事者に言わせれば『恋ではない』のだ。あれほど秘め事の香りを濃密に漂わせ、それでも『恋』ではないと冷然と言い放てるのは、二人が成熟した大人の世界に生きているせいだろうと、周りは感じた。
 なんとなくわからないけど、なんとなくすごいのだ。
 その、二人が、仙蔵が。
 十にも満たぬ童女の戯れ言を真に受けて、おたつくわけがない。みんな、そう思った。
 福富屋と言えば、堺一の豪商でありながら息子を忍術学園に入れるような、金持ちらしい酔狂が得意なのだとも、みんな、知っている。婿取り宣言も、だから福富屋のいつもの酔狂だ。みんな、そう思った。
 みんながそう思っているのを、仙蔵は敏感に感じ取る。
 ……別に。
 好きで付き合っているわけではない。自分たちの閨に甘い睦言はない。長次と自分は、好きもなければ嫌いもない。ヤルかヤラナイか。それだけだ。
 福富屋の娘、カメ子。まだほんの子供が、長次になにを感じたのか知らないが、それは自分には関係のないことだ。
 ……長次は……感情の起伏がまるでないようにみえるが……表に出ないだけのことで、内面はいろいろな色で満たされている。おもしろがったり、怒ったり悲しんだり、喜んだり。長次の感情の豊かさを、仙蔵は知っている。カメ子は……もしかしたら、ふとした拍子にこぼれた、そういった長次の感情に触れたのかもしれないと、仙蔵は思う。たくましい体格と頬に傷痕の残る凄みのある顔、寡黙で打ち解けぬ態度に、最初は戸惑ったかもしれない幼女が、ちょっとしたことで滲み出た感情に安堵し、急激に親近感を抱いたとしても、不思議はない。
 ばかめ。
 と仙蔵は思いもする。
 それを簡単に恋と名付けるか。これだから子供は。これだから、女は。
 そんな幼女のバカさ加減に振り回されるはずがない。自分は、長次は、なにも変わらない。
 長次だって。
 幼女の戯れ言とわかっているから、無下(むげ)に突き放さない。「あれは違うのだ」と説明しようともしないのは、それがそれほどの意味のあることでもないからだ。
 カメ子の出現に揺らぐものはなにもない。
 周りもみな、そう思っている。
 長次も、変わらない。
 自分も、変わらない。
 なにも、変わらない。

 


 なのに。
 仙蔵はいらつく。
 小平太が、自分を見ている。
 心配気に。
 小平太の瞳の色に、仙蔵はいらつく。

 



 正面から直球をぶつけるのは、仙蔵の流儀ではない。
 ……いや、時と場合と相手によっては、顔の正面に石をぶつけるのも、仙蔵は厭わないが。
 だが、小平太の顔に泥団子をぶつけても、気が晴れるとは思えなかった。
 仙蔵は指の関節を小さく噛んで考える。
 さあ……どうしてくれよう、小平太。

 



 一年は組担当の土井に、仙蔵は実技で使う焙烙火矢作りを手伝ってくれるように頼まれた。火薬庫の横に作業用の小屋がある。そこに材料を用意しておくから火薬を少なめにした焙烙火矢を十一個、作っておいてくれ、と。
「はい」
 と笑顔で受けて仙蔵は、放課後付き合ってくれないかと小平太を誘った。

 


 その小屋の戸を開けた時から、小平太は緊張しているようだった。
「……あ、れ?」
 きょときょと狭い小屋の中を見回す目が落ち着かなげだ。
「……おれと、仙ちゃんだけ……?」
 仙蔵はにっこり笑って答える。
「十一個、焙烙火矢を作るだけだから。二人で十分だろう?」
「う、うん……」
 そろりと小屋の中に踏み入れる小平太に、仙蔵は何食わぬ顔で言う。
「小平太、戸はしっかり閉めて」
「……え!?」
「火薬が飛ぶ」
「あ、ああ、そう、うん」
 いつもの一年生も顔負けの、落ち着かない元気さはどこへやら、小平太は神妙な顔で、作業台の傍らに立つ。
「わたしが焙烙を合わせて行くから、小平太は火薬を計ってくれるか?」
「あ、うん」
 それから小平太は計りと分銅と火薬に真剣に取り組み、仙蔵も黙って手を動かしたが。
 しばらくして。
「ああ、暑いな、この部屋は」
 いいざま、仙蔵はするりと頭巾を取り去った。
「火薬が飛ぶから鎧戸もそれほど開けられないんだ。真夏はこの部屋での作業は本当に難行苦行だよ」
 小平太があわてて目をそらすのをおかしく見ながら。仙蔵は肩から上着も滑り落とした。
「今日は暑いねえ、まだ梅雨前だってのに。小平太も、上着だけでも脱いだら?」
「お、おれは……そ、そんな、あ、暑くないよ……」
「そう?」
 両肩むきだしの、背中も大きく開いた腹当て一枚になって、仙蔵は平然と作業を続ける。小平太は頑固に分銅と火薬ばかりを見つめているが、視界のはしには、白い腕や肩がちらちらと入っているのだろう、息を詰めたような顔がだんだん赤くなってくる。
 カ、カチカチカチ……小平太の手の小皿と分銅が、小さく震えて音を立て出した。
 小平太の、最近の自分を見る視線に、心配と物欲しげな色の両方を仙蔵は見て取っていたから、その反応はまったく予想どおりと言えた。仙蔵には見慣れた反応でもある。自分が肌の露出を多くすれば大抵の人間は似たような反応を見せる。すぐに飛びかかって来る直情径行な人間も多いが、それにすら仙蔵は慣れている。
「……ねえ?」
 仙蔵は手の内の獲物をいたぶる楽しさで、薄く笑いながら声を掛ける。
 小平太が小さく身体を震わせた。
「小平太はさ、好きな子とか、いないの?」
「え!」
「好きな子」
 小平太がたまりかねたように振り向いた。
「お、おれ、おれ……!」
 声が上ずる。
 つまらぬ告白ごっこはいらないと思った。だから仙蔵は小平太の襟をつかみ、顔を寄せた。唇に唇を合わせる。
 瞬時にかたまった小平太の全身を感じて吹き出しそうになりながら、仙蔵は小平太の唇を優しくついばむ。
 さきほど肉桂の枝をしがんでおいたから、小平太は文字通り『甘い息』を感じたはずだった。
 少し顔を離してみれば、大きく見開いた小平太の目と目が合った。
「……せんっ……!」
 喉の奥で詰まった叫びを上げた小平太に、仙蔵は抱き締められた。

 



 ……こいつは、ほんとに日なたの匂いがする……。
 小平太に抱き締められて、その髪が鼻先をくすぐるのを覚えながら、仙蔵は思った。……ガキと同じだ、こいつは。お日様が大好きで、すぐ草むらで転げ回る。だからこいつからはいつも、日の匂い、土の匂い、草の匂いがする。
 だからね、小平太。ガキはガキらしく、お外で遊んでいればいいんだ。
 わたしの心配をするなんて、百年早いよ。
 ほら。いらぬお節介を焼こうとするから、おまえも落ちて泥まみれ……。

 



 仙蔵は小平太の耳元でささやく。
「小平太……わたしが好きだろう?」
 うんっと勢いよく小平太の首が動いた。
「……そう……じゃあ、小平太はどうしたい? わたしを、どうしたい?」
 返事は最初から期待していない。深く息を吸い込んだ小平太の様子に、言葉はもういらないだろう、仙蔵は判断して、もう一度、今度はねっとりと小平太の唇に唇を這わせた。ゆっくり吸い上げ、離し、また吸う。
 小平太の息がどんどん荒いでゆくのがわかる。仙蔵の躯に回ったままの腕にも、じりじりと力が加わってゆく……。
 少し膝を折って誘導してやる。
「……仙蔵っ!」
 吠えるように小平太が叫び、仙蔵は地面の上に押し倒された。
 ――これでいい。
 抱けばいい。ヤレばいい。そうしたら言ってやれる。
 おまえも長次と同じだよ。どうってことはないだろう? これだけのことだもの。
 だから、だからもう二度と、人を哀れむように見るな。
 わたしが寂しがっているような、そんな目で見るな。
 これは、これだけのこと。おまえも気持ちよくて、わたしも満足だ。なにも、哀れなことも、寂しいこともない……。
 おまえも、長次も……ほかの男たちと同じ……。

 


 しかし。
 仙蔵を押し倒し、その上に覆いかぶさったまま、小平太は動こうとはしなかった。
 やがて、その腕が小刻みに震えだしたのに、仙蔵は気がつく。
「……小平太……?」
 やり方がわからないならリードしてやろうか、仙蔵がそう言いかけた時だった。
「……ちがうぅ……」
 泣き声のような声で、小平太が呻いた。
 仙蔵は小平太の腕が、小刻みに震え、恐ろしいほど緊張しながら、もう自分の躯を堅く抱き締めるほうには力を込めていないのに気づく。
 むさぼるような勢いで仙蔵の肩口に押し付けられていた小平太の頭も、やはり力をはらんだまま、仙蔵に重みをかけては来なくなっている。
「ちがうっ……! これ、ちがうっ!」
 全身に力を込めて。
 ぶるぶると身を震わせて。
 涙すら浮かべて。
 渾身の力で。
 小平太が自分の身体を仙蔵の身体から引きはがしていくのを、仙蔵は驚いて見上げた。
 なにが、ちがうと言うのだろう、なにが、いけないと言うのだろう。
 仙蔵を見る小平太の目には、明らかに物欲しげな色があったのに。
 小平太が叫んだ。

 


「これ、ちがうよっ! おれがしたいのは、こんなことじゃないっ!」

 


「じゃあ、なにがしたいんだ」

 


 細く美しい眉をいぶかしそうにひそめ、仙蔵が見上げて来る。
 剥き出しの、白いうなじが、くっきりと陰を作る鎖骨が、なめらかな肩が、小平太の目に焼き付いてくるようだ。
 むしゃぶりついて行きたい。
 もう一度、ぎゅっと抱き締めたい。
 こぶしを堅く堅く膝の上に握り締め、小平太はこらえる。
 ちがう。ちがう。これ、ちがう。これでは、ちがってしまう。
 自分にも言い聞かせながら小平太は繰り返す。
 なにがちがう。
 仙蔵は美貌に怪訝な色を浮かべて、小平太を見返して来る。
「……おれはっ! 仙ちゃんとっ……こ、恋人になりたいんだ!」
 仙蔵は小平太の必死の言葉に、かえって不思議そうに首をひねった。
「……恋人なら……スルもんだろう?」
 小平太はぶんぶんと首を横に振った。……あれ? 仙ちゃんの白い顔がぼやける。
 涙で滲み出した視界に小平太は自分が泣き出したのを知ったが、止められる涙ではなさそうだった。
「……おれはっ……ちゃ、ちゃんとっ……せ、仙ちゃんにも、おれを好きになってもらって……それで、そ、それで……それで抱き合いたいのっ! おれは、おれは、仙ちゃんと恋人になりたいのっ!」
 あふれる涙をこぶしで押し上げて払いながら、小平太は必死に仙蔵に訴える。
 好きだ、恋人になりたい。
「……わからない奴だな……」
 仙蔵は肘をついて身を起こしながら、まだ不思議そうにしている。
「好きなのに、したくないのか」
「……し、したい……」
 仙蔵の唇の感触がまだ生々しい。その唇は、手さえ伸ばせば届くところでほころんでいる。
「なら、すればいいじゃないか。……ほら」
 仙蔵の身がなまめかしくうごめいた、と思った瞬間には、はらり、背中の結び目をほどかれた腹当てが滑り落ちた。
「小平太……」
 頬に、仙蔵が優しく手を添えてくる。小平太の視線は、仙蔵の仰のく首筋からその下へと、流れてしまった。
 白い肌の中、胸の突起がぽちりと赤い。小平太は瞬時に頭の中が真っ赤に染まるのを覚えた。ひどく凶暴で荒々しいものが、激しく身内を駆け巡る。
「……!!」
 ぎりぎり。
 小平太は目の前の白い躯につかみかかろうと伸びた己の腕を、横に振る。
 指先に触れた仙蔵の上着をわしづかみ、仙蔵のなまめかしい躯に押し付けた。
「小平太」
 もう、一刻も猶予はならなかった。仙蔵の呼ぶ声を背中に聞きながら、小平太は小屋を飛び出した。

 


 小平太は裏裏山を駆け登る。行き合った沢に飛び込む。
 その冷水にも、躯の火照りも、涙も、どちらもおさまってはくれなかった。

 



 恋人になりたいんだ。
 その言葉は何度も何度も仙蔵の耳によみがえる。
 小平太、苦しそうだった。
 この年齢だ。目の前に御馳走をぶらさげられて我慢するのは、ひどく苦しいことだったろう。
 なのに。なぜ、小平太は我慢したのか。
 ――恋人になる。
 それは、いったい、どういうことを言うのか。
「……長次、わかるか?」
 後ろを振り返りもせず、やって来た男に仙蔵は問いかける。
 月見亭への石段を上って来た長次は黙って仙蔵の隣に立つ。
「恋人になるというのが、どういうことか……長次は、わかるか?」
 月に照らされて、長次は無言だ。
「それは……気持ちのいいことなのかな。……うれしいことなのかな」
 問いに、長次は困ったようにみえる。
「……この間から、同じことを聞く」
 低い声での指摘に、仙蔵は小さく笑う。
「気になるんだ。……知らなくても、かまわないとも思うんだけど」
「……俺には、答えてやれん」
 寡黙な男の、きっぱりした答えだった。
「……そうだね」
 自分にもわからない、長次にもわからない。それでも躯を繋ぐことは出来た。そこには確かに熱も快もあったように思うけれど。
 これはちがう。叫んだ小平太は、では、なにを知っているのか。自分を抱き締めた腕は震えていた。震えながら、離れて行った。その意味は。
「長次」
 仙蔵は長次の腕に手をかける。筋肉によろわれた腕は、震えることもない。
「長次」
 仙蔵は顔を上げた。
「わたしは、もう、たぶん、ここには来ない」
 長次の表情は変わらなかった。……いつもと変わらぬ、おだやかな視線を仙蔵は受け止める。
「……そうか」
「うん」
 これは恋ではない。ではこれも別れ話ではないのだな、ぼんやり仙蔵は思う。
 仙蔵はゆっくりと踵を返す。
 月と、長次に、背を向けて。

 


                                   了

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