傷〜終局〜 1

 

 

 

自分はうつむいていることが多くなったなと、伊作は気づく。
うつむいている。怒りながら、恥じながら、鬱屈して。
こんな状況に突き落としてくれた文次郎に怒りながら。
こんな関係を強要されている自分を恥じながら。
怒りながら恥じながら、でも、なにもできない自分に鬱屈して。
ぼくはうつむいてばかりだ……
堂々と顔を上げ、胸を張っていられなくなったのはなぜだ?
伊作は問う。なぜ。
顔を上げた。
あたたかな午後の日差しを全身に浴びた。
……そうだ。ぼくは、こんなふうに、日の光を浴びるのが、好きだった……
眩しさに目を細めながら、伊作は青く抜けるような空を見上げる。
ぼくは……
堂々と。胸を張り、顔を上げていたい……
痛切に、そう思った。


文次郎が保健室に入ってきたので、部屋から出た。
用具室の前で腕を取られたので、振り払った。
日没を待って裏々山へと誘う声に、いやだと答えた。


「いやだ。ぼくはもう、いやだ」


熱く湿った手で、ぐっと引き寄せられるのも。
飢え渇いた瞳で、じっと見つめられるのも。


「ぼくはもう、いやだ」


イヤなら殺せとおまえは言う。自分の命と引き換えにぼくに汚いことを強制する。卑怯だ、おまえは卑怯だ。
伊作は静かに文次郎を非難した。
穏やかに。静かに。だが、目をそらさず、言葉を淀ませず。伊作は文次郎を責めた。おまえは卑劣だと。


「伊作……」


ぐっと眉間に深い皺を刻んで、文次郎は伊作を見つめる。
その口が、なにか言いかけては閉じ、またなにか言いかけては閉じる。


文次郎がなにを言いたいのか。考えたくなかった、聞きたくなかった。
「おまえだって、」
伊作は断じる。
「ぼくがいやがってたのは知ってるはずだ」


眉間の深い縦皺はそのままに。文次郎がカッと目を開いた。
睨み付けられて伊作は怯みそうになる。
が。ここで飲み込まれてはいけない。同じ事を繰り返してはいけない。
伊作は腹に力を込めて、文次郎を見つめ返した。


不意に。
文次郎の手が伸びてきた。
腕をつかまれそうになって咄嗟に振り払う。
伸びる、払う、逃げる、追う。
小さな競り合いの後、ついに伊作の手首は文次郎に取られた。

 

「離せ…っ!」
だが文次郎の膂力は強い。


引きずられるように数間、歩いた。
また、同じ事を繰り返すのか。またこいつはアレを強要するのか。
大声で泣き喚いてしまいたい……


伊作はいやいや地を進む自分の足先を見つめる。
またこうして……自分はうつむいて、地を見つめて、それを繰り返すのかと思った。
その時だ。
先を歩く文次郎の足が止まった。
はっと顔を上げれば、行く手に長次が立っていた。


「……………」
長次は無言のまま近づいてくると、伊作の手を握る文次郎の手首を握った。
その拳に白く関節が浮く。
「……だんな」
低く抗議するような文次郎の声にも、長次の指の力はゆるまなかったのか。じりじりと文次郎の手が緩み、伊作は己の手を文次郎の拘束から振り払った。
「……邪魔すんのかよ……」
いつの間にか、伊作と文次郎のちょうど真ん中に長次は立っている。
その横顔は常のように無表情で、なにを読み取らせもしなかったが。


「もうやめろ」


低い、だが確固とした命令がその口から放たれた。


保健室に文次郎が現れても。人気のない部屋の前で行き会っても。なにか言いたげな眼差しを向けられても。
伊作はもう、部屋を出ていく必要はない。文次郎の手を振り払う必要もない。
なぜなら……授業以外の時間は常に、長次が傍らにいてくれるようになったからだ。
保健室でも、移動の途中の廊下でも、食堂でも、湯屋でも、部屋でも。
いつもむっつりと寡黙な長次は、やはりむっつりと押し黙って伊作の傍らにいる。いてくれる。
「長次、図書室に行かなくていいの?」
伊作が尋ねると、ぼそりと一言、
「だいじょうぶだ」
答えるだけで、余計な口はきかない。長次は伊作の傍らで本の頁を繰っている。
なにも言わない。なにも聞かない。ただ、そこにいてくれる友。
大きな体、無愛想な物言い、傷の目立つ頬。
だが、無口な友人のまとう空気は、おだやかであたたかくて。
伊作は憩う。
静かで、あたたかな時間を、長次の傍らで過ごす。
穏やかな空気の中で、安らいで息をつく。


文次郎のイラついた視線は、長次の広い背にさえぎられる。
伸ばされる手は、届かない。
……守られているようだと思う。
なにから? 文次郎から…文次郎の獣欲から。
では…長次は、自分達の間に起こったことを、知っているのだろうか?
「長次……」
訊ねようとして伊作はためらう。
――自分が、文次郎になにをされていたのか、おまえは知っているのか?
――あいつがどれほど身勝手にぼくの身を開くのか、おまえは知っている?
そう訊ねようとして、伊作は口ごもる。
訊かずとも。答えはわかっている。これほど長次が自分のそばにいてくれるのは…文次郎の影から、守るように間に立ってくれるのは……
知っているから。
込み上げてくるいたたまれなさを、伊作は唇を噛んでこらえる。


「ぼくは…ぼくは、恥ずかしいよね…」
男の身で、友人にあんなマネをされて。
男の身で、友人にこんなふうにかばわれて。


知っていると、はっきり聞くのもたまらなくて。そんな自分も情けなくて。
伊作は呟く。
……ぼくは、恥ずかしいよね……


長次は本から顔を上げ、静かで深い眼で伊作を見つめる。
「あ、いや。別に深い意味じゃ…」
笑ってごまかそうとする伊作に、ぼそり。長次は言うのだ。
「…そんなことはない」


寡黙で無愛想な長次の傍らで。
伊作は穏やかに手足を伸ばす……。
「長次、ありがとう」
口の中だけで呟いて。

 


そうして、伊作が数ヶ月ぶりの穏やかさに身をひたしている間に、学園では秋の大運動会が迫っていた。
六年生にとっては最後の運動会であると同時に、卒業を前に過酷になるばかりの訓練や授業の、よい息抜きにもなるはずの運動会だった。
「薬やさらしを多目に用意しておかないとね」
保健委員会を率いる長として準備に追われながらも、伊作も久方ぶりに気が引き立つ。
だが――そうして長次にかばわれ、日々の雑事に追われながらも……伊作は時折その眉間をくもらせた。気づかぬふりの、文次郎の視線を感じるたびに。
長次の背中をにらみつける、文次郎のきつい視線。自分に向けられる粘りつくような視線。二人の間にあった行為をイヤでも思い出させずにはおかない文次郎の視線に、伊作の眉間はくもる。……忘れていない。急坂を駆け上ってさえ乱れることのない文次郎の息が、自分を抱きしめながら乱れていたことも。その肌が熱く火照るようだったことも。
「…伊作…」
呼ぶ声にひそむ、らしくない不安さえ。伊作は忘れてはいなかった。
忘れられない記憶が、伊作の眉間をくもらせる。
このまま時が過ぎてくれと願う。自分がすべてをきれいに忘れてしまえる日まで。
すべて…忘れられる日が早く来てほしいと思う。乱れた息、重なった躯の熱さ、重さ、自分を呼ぶ低くかすれた声、躯中をまさぐった指と唇……
伊作はたまらず、頭を振る。
忘れろ。肌の柔らかいところをくすぐった指先の優しさ、くぼみを探った舌のなめらかさ、己の身をうがったものの激しさ、そして……与えられる刺激に快感を引き出されてのたうった、自分の……
伊作は激しく首を振る。
忘れろ!
早く早く早く! 時が過ぎればいい。日が過ぎればいい。肌に刻まれた記憶のすべてが遠いものになるように!
……忘れたい……
伊作はきつく目を閉じる。


それでも、このままでは過ぎぬだろうと確信めいたものがあった。
文次郎は日に日に苛立ちを濃くし、言動が荒れてきていた。
早く早く早くと、伊作は祈る。
時間が過ぎてほしかった。自分も文次郎も、すべてを忘れられる日が早く来てほしかった。二人の仲をきれいに裂いてくれる卒業の日が早く来てほしかった。
早く。
伊作の祈りの中、学園は運動会の日を迎えたのだった。

 

当日は青く澄んだ空も高い、気持ちのよい晴天となった。
一年生のちびっこから教師陣まで学園総出で走り、跳び、競う、運動会である。毎年、白熱する運動会である。
個人競技もそうだが、クラス対抗や縦割りグループ対抗などの集団競技では、常の意地の張り合いから「あそこにだけは!」の意識が働くのか、みな、なりふり構わず勝利を目指す。
そうして白熱した競技が続けば、いかに日ごろから鍛錬が積んであるとは言いながら、ケガ人や病人が出てしまう。運動会で病人とはおかしなものだが、相手の戦力削減を狙った「虫下し作戦」などが横行するのだから仕方なかった。
だから伊作は、己が出場しなければならない競技の合間は、校庭の一隅に設けられた救急所でケガ人や病人の応急手当の指揮を執ることにしていた。
保健委員会委員長として、それは当然だと伊作は思うのだが…
一年生には、そんな割り切りはまだ無理らしく、
「運動会の合間にまで仕事があるなんて、やっぱりわたしたち、『不運小僧』ですよね」
そばかすが可愛い頬をふくらませて、一年は組の保健委員がぶうたれる。
「いっそのこと、保健委員だけは当番制にしちゃえばいいんですよ。『不運小僧』全員総当り」
唇とがらせる一年生が無邪気で。運ばれてくるケガ人を手当しながら、伊作は久方ぶりに心から笑い声を立てていた。


競技には裏々山も使われる。
木々を飛び移りながら他チームの動向に目を光らせていた長次は、やはり身軽く隣の枝へと飛び移ってきた仙蔵を不思議そうに見返した。ちがうチームのはずだが?と。その長次の無言の質問は無視して、
「文次郎がいない」
仙蔵が早口にささやいた。
「さっきから姿が見えない」
伊作は? やはり無言の長次に、
「ヤツはこの競技には出ていない。下の救護所にいるはずだ」
仙蔵が答える。
「………」
まずいな。目を細めた長次は仙蔵の瞳に同じ憂いがあるのを見る。
「手伝う。どこを探せばいい?」
早口の仙蔵に長次は短く、
「山を。俺は学園に戻る」
伝えた。
うなずくより早く、仙蔵の身が次の枝へと舞う。
「小平太! 来い!」
鋭い声に、少し離れた茂みの中から濃緑の制服が飛び出して来た。
ひらりと地上へと降り立った仙蔵の隣に小平太が駆け寄った、次の瞬間には彼らは二手に分かれて山を駆けている。
それを見届けもせず。
長次もまた、ふもとを目指して山道を駆けていた。

 

校庭の、裏々山寄りの一隅に設けられた救護所に、長次は駆け込んだ。
「あ! 中在家先輩! 先輩も、どこかおケガですか?」
下級の保健委員が尋ねてくるのにも答えず、長次は救護所の中を見回す。
案の定、伊作の姿はない。
「…伊作は?」
一番身近にいた、一年生の保健委員をつかまえた。
猪名寺乱太郎はつかまれた腕に驚いたようだったが、
「善法寺先輩なら、さっき、潮江先輩が連れて…」
いたって素直に答えた。
「どこへ行った」
珍しくも立て続けに質問を発する長次に乱太郎は目を丸くしながら、右手のほうを指差す。そこへ、
「なんかさ、」
口を挟んできたのは、長次も馴染みの、つり目とケチがトレードマークの一年の図書委員だった。
「潮江先輩、怒ってた」
「え、そう? 怒ってた?」
乱太郎は意外そうだが、きり丸は長次をしっかりと見返しながら、「うん、怒ってた」とうなずいた。
「ああいう怒り方してる男は、よくない」
「……どっちへ行ったか、わかるか」
長次は今度はきり丸に問うた。
「方向はあっちだけど、」
ときり丸は乱太郎と同じ方向を指差したが、
「まっすぐは行かなかったみたいだ。最後まで見えたわけじゃないけど、たぶん、左に曲がった」
――指し示された方向へまっすぐ行けば、忍たま長屋。だが左手に曲がれば、校舎の入り口がある。
教室は、運動会の今日、誰もいない。
長次は「よくやった」の言葉の代わりにきり丸の頭にぽんと手を置き、きついが澄んだ印象のその瞳をのぞきこんだ。
「立花にも、伝えてもらえるか。山にいる」
「はい!」
そこはさすがに一年らしい元気な返事にうなずいて、長次は校舎に向かって再び駆け出した。

 

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