上がった叫びは、そのまま泣き声に変わるかと聞こえたが。
伊作はこぶしを口に当て、懸命に嗚咽をこらえた。肩でしゃくりあげながら、それでも、泣き声を上げるまいと。
「………」
仙蔵は無言だった。無言で、一歩、伊作に歩み寄った。伊作はゆるく抱かれるように、仙蔵の腕の中に抱え込まれた。
仙蔵の細い肩が、柔らかく顔に押し付けられる。
『泣け』うながされてもいるようで。
とうとうこらえきれない嗚咽を、伊作は上げた。仙蔵の背にしがみつき、仙蔵の制服に涙を吸わせ。
伊作は思い切り、泣いた。
そうして…
伊作が泣いて泣いて…ようやく、その息が落ち着いた頃。
「仕方ない」
それまで黙って伊作の背を抱いていた仙蔵が、静かに切り出した。
「仕方ないよ、伊作。人は、人の肌を恋うようにできている。情けなくて、汚くて、みじめでも、人はそういうふうにできている」
伊作は静かに息を飲む。
「仕方ない」
仙蔵はもう一度繰り返した。
「おまえのように…それが意に添わぬ行為でも…何度も肌が重なれば、躯は勝手に相手の肌に馴れる、馴染む。馴染めば…なにかの拍子、それがよい具合に感じられてもしまおうさ」
淡々と続く言葉に、伊作はまだ濡れたままの瞳を見開いて、間近にある仙蔵の顔を見つめた。
「情けないよな」
仙蔵は、笑みをにじませ、伊作を見返す。
「肉は相手を求めるようにできている。時には、心の動きさえ左右してしまうほどに、強烈に。…そういうものだ」
感じている自分が汚いと思った。強要された関係を恨みながら、その中で喘ぐこともある自分が、いやらしいと思った。みんなが、そんな汚くていやらしい自分のことを知っていると思うと、いたたまれなかった……
でも、それもこれも、「仕方ない」……?
伊作はまじまじと仙蔵を見つめる。
花の顔(かんばせ)。黒々と澄んだ瞳。
「おまえは、汚くなんかない。悪いのは文次郎だ。おまえは今日、ほんの少しだけ、そのツケを払わせただけだ」
伊作は仙蔵を見つめる。
その言葉を噛み締める。
「…ありがと、仙蔵」
もう一度、肩に頭をもたせかけた。
「ありがとう」
「あ」と、気がついて顔を上げたのは伊作のほうだった。
「…これ、小平太に悪くない?」
互いの腰に、背に、腕を回して抱きあう形を、改めてお互いに認め合う。
「大丈夫だ」
仙蔵が嫣然と微笑んだ。
「あいつは度量が広いから」
そうして――
なんとか気を落ち着けた伊作だった。
その伊作が救護所に戻ろうと校庭を横切っていると、別方向から長次がやはり一人で歩いてきた。
瞬間に思ったのは、やはり文次郎のことだった。
教室にうなだれた文次郎と長次を残して出てきた。その後、文次郎がどうしたのか……聞きたかったが聞けない思いの伊作は、足を止めて長次を待った。
伊作の傍らで長次も足を止める。
その手が、つ、と上がり、指先が伊作の目じりをかすめた。
「…おまえも、泣いたのか」
泣きはらしてまだ赤く潤んでいる瞳を心配されたのだと理解すると同時。
「え」
伊作は長次の言葉の意味する、もうひとつの意味を汲み取って声を上げた。
『おまえも』では、文次郎も? 彼も、泣いた?
問い返す代わりに長次を見つめれば、寡黙な友人はいらぬことを言ったとばかり、視線をそらす。
では。泣いたのだ。文次郎も。
「…救護所に…戻らなきゃ」
伊作はふらりと足を踏み出す。
泣いた、泣いた。文次郎が。あの、強気で、尊大で、弱音など忍者の恥と豪語している文次郎が。長次の、友の、目の前で。
……ぼくの、せい?
肩に、節ばった手がかかった。
「おまえは、悪くない」
長次だった。その一言を言うために、引き止めてくれた…
「…うん。ありがとう」
伊作は笑顔を作る。
友人達の優しさに、せめて元気な顔で応えたかった。
運動会の閉会式にも出ず、伊作は救護所の後片付けに没頭した。
仕事がある間は、余計なことを考えずにすむ。
だが……
やがて仕事は片付く。ケガ人の手当ても物品の片付けも済んでしまうと、どうしても思いはそこへ戻ってしまう。
――泣いたのか、文次郎。
しん、と静かになった保健室で伊作は膝を抱える。
『大嫌いだ』
本当は自分にぶつけたかった言葉。
そして。
文次郎を一番傷つけると、わかっていた言葉。
そうだ。わかっていた。
わかって、いた…
伊作は立てた膝の上に顔を伏せた。
がたん! 激しい風に鎧戸が煽られる音に、はっと伊作は顔を上げた。
気がつけば部屋の中はもうすっかり暗く、いつの間にか雨が降り出している。
「嵐…?」
まだ雨音はさほど激しくないが、窓から吹き込む風の強さがただならぬ気配を漂わせる。
様子を見ようと廊下へ出た伊作は、すぐさま、廊下を全速力で走ってきた小平太に捕まった。
「あっいさっくん! もんじ見た!?」
不安が一気に押し寄せた。
「ちょっといさっくん、ついてきて!」
言うなり小平太は伊作の手首をつかんだ。
早足で廊下を行きながら小平太が語ったところによれば、ケガの申請をした仙蔵と長次はよいが、競技の途中で抜けたまま戻らなかった文次郎はその罰として裏々山の山裾ランニングを命じられ、運動会閉会後、文次郎はそのままマラソンに出発したのだという。
「閉会してすぐ…?」
何刻前だ? もうとっくに戻っていなければおかしくないか? 最前感じた不安がはっきりした内容を伴って伊作を襲う。
「うん。台風も来ちゃうし、みんな心配してるんだけど」
言いながら小平太は忍たま長屋への渡り廊下をずんずん行く。
屋根は付いている渡り廊下だったが、雨が風に流されてかなりの勢いで吹き付けてくる。
なかば駆けるように廊下を渡りきり、小平太はまっすぐ、仙蔵と文次郎の部屋へと伊作の手を引っ張っていく。
「仙ちゃん!」
すぱーん! 板戸が外れんばかりの勢いで引き開けて小平太が叫ぶ。
「いさっくんももんじ見てないって! どうすんのさ!」
あー? 物憂げに振り返った仙蔵は、先刻、伊作を慰めてくれた人物とは別人のように醒めて冷たい目をしている。
…別人ではない、どちらかと言えば、こちらの表情のほうが仙蔵の性をよく表しているのを伊作は知っている。
「わたしの知ったことか」
「でも!」
小平太が反論する。
「今になっても戻らないっておかしいよ! やっぱり仙ちゃんの…」
瞬間、言い淀んだ小平太を伊作は見つめ、それから仙蔵に目を向けた。
「…なに? どういうこと?」
「…………」
仙蔵は無言でまた読んでいた本に目を返す。
「仙蔵、文次郎になにをしたの」
重ねて問えば、
「…別に。わたしを古物扱いした、その制裁だ」
背を向けたまま、冷たい声が答える。
「制裁…?」
声が震えた。
「ああ」
平然とした、表情のない声が答える。
「埋火、ひとつ。雲行きがおかしかったからな、耐水性のものを用意した」
聞くなり伊作は部屋を飛び出した。
笠、蓑、そして薬箱。
手早く身支度して薬箱を小脇に抱えた伊作に、
「いさっくん、これも!」
小平太がもう一組、雨具を差し出す。
「もんじの分。どこかで雨宿りしてるかもしれない」
「そう思う?」
問い返せば、
「ううん」
小平太が小さく吹き出して答える。
だよね、と伊作も笑った。
笑いに少し元気をもらって。
雨の中へ飛び出した。
そう言えば、今日はこの季節には珍しく、少し蒸し暑かったように思う。後片付けに忙しかったときには、下ばかり向いていて気がつかなかったけれど、風が少し出てきていたように思う、雲足も速くなっていたのかもしれない。
季節はずれの台風のなか、伊作は飛ばされぬよう笠の端を掴みながら、裏々山目指して駆ける。
風雨はますます激しくなるばかり……
笠も蓑も風に煽られて持っていかれそうだ。ごうっと一際強い風が吹き付ければ、一瞬、身体が浮くような気さえする。
嵐。
おまえに似ている。
伊作は思う。時を選ばず、こちらの事情など斟酌なしで。
勝手で、強引で、好きなように暴れて。
めちゃくちゃにしていく。
文次郎。
おまえも、味わっているか? 吹きつけ叩きつけてゆく、荒々しさを。
少しはその身で味わってみるといい。
翻弄され、痛めつけられてみるといい。
そうしたら、少しはぼくの気持ちがわかるだろう。
嵐は、おまえに似ている。
…でも。
伊作の唇が、ほんのわずか、笑みの形に持ち上がった。
おまえに好き勝手されて、揚げ句に風に吹かれ雨に打たれておまえを探す、ぼくは丸損じゃないか?
台風も、おまえも、勝手過ぎだよ……
細い道の際まで迫る木立が、風の勢いでみしみし鳴る。吹き付ける風と雨の勢いに、目を開いているさえ、つらいほどだ。
その、大粒の激しい雨にかすむ視界の中で。
伊作の目は、風に逆らってヨロヨロ進む影を見つけた。
「文次郎!!」
大声で呼びかけたが、その声さえも風に千切られ、飲み込まれる。
伊作は強風の中、できる限りに足を速めた。
「ばかっ!」
明らかに右足をかばって、妙な歩き方になっている文次郎を、伊作は怒鳴りつけた。
文次郎は突然現れた伊作に目を丸くしている。構わず伊作は、かがみ込んで泥だらけになっている文次郎の足を確かめる。
「やっぱり怪我をしてるじゃないか! 台風も来てるっ! おまえはバカかっ! なんで戻ってこないんだっ!」
まくしたてれば、文次郎はふいっと横を向いた。
「おまえには関係ねえ。これは俺が受けた罰則だ」
かっと伊作の中で熱くなるものがあった。
「なんで、おまえは……!」
伊作は文次郎の胸倉をつかみ上げた。
「なんでおまえはそうなんだよっ! いつも勢いばっかり! 無茶ばっかりだ! 少しは落ち着いてものを考えろよっ! たかが運動会の罰則で、学園が命まで危険にさらせって言ったのかっ!!」
頭が熱いのか、胸が熱いのか、わからなかった。
文次郎の胸倉をつかんだまま、伊作は怒鳴り続ける。
「おまえは無茶ばっかりなんだっ! 少しは、少しは、考えたり、立ち止まったり、できないのかっ!」
そうだ……怪我をして走り続ける前に、人に脅しまじりで肉体関係を強要し続ける前に。どうしておまえはほんの少し、ほかにやり方はないのかと、立ち止まって考えることができない? こんな無茶をする前に。こんなこじれ方をする前に。
伊作はあふれる怒りのままに、文次郎を詰る。
それは……文次郎に対して伊作が初めて正面からぶつけた怒りだった。
だが、伊作の手は文次郎に振り払われた。
「一周したら帰る。……おまえには、もう、関係ねえ」
「文次郎っ!」
怒りで目の前が赤くなるような気がした。思わず伊作が拳を握った時だった。
ひときわ強い風が、ごおおっと凄まじい音を立てながら襲ってきた。
咄嗟に首をすくめ、身を低くした伊作の耳は、先ほどからミシミシ鳴っていた木々の中から、もっと大きく、今度は生木の裂けるような音を拾った。
激しく枝や葉が触れ合う音がそれに続いて。
伊作はなにかに突き飛ばされていた。
突き飛ばされた勢いで膝をついた伊作が振り返れば…篠つく雨の中、文次郎がうずくまっている。
その文次郎の、先ほど伊作が怪我を確かめたばかりの右足の上に、大ぶりな松の枝が、裂けた木肌もあらわに圧し掛かる。
「…文次郎…!」
慌てて駆け寄った。松の枝を傍らへと引きずり、雨に打たれ、泥の中にうずくまったまま、動こうとせぬ文次郎をのぞきこむ。
右足を押さえ、文次郎は歯を食いしばっていた。
「ううう……」
押さえきれぬらしい呻きが漏れている。
「折れたのかっ?」
尋ねながら、伊作は忙しく考える。学園への距離、手当て、強まる風、雨…。
迷いは数瞬。
伊作は「こらえろ」と文次郎へ声をかけると、その上体を引き起こした。さすがに痛みに声を上げる文次郎を、そのまま背へと負う。
「小屋が近い。我慢しろよ」
背中に負った人へ大声を上げれば、
「…置いて、行け」
強情な人が答える。
「俺は…這ってでも…帰る。おまえは、一人で……」
「うるさい!」
伊作は怒鳴って返す。
「ぼくは保健委員だ! ケガ人は黙って背負われてろ!」
きっと伊作は前をにらむ。
「…おまえの、重いのなんか、知ってる」
雨に流れろと、口の中で呟いた。
濡れ鼠になり、ぬかる地面に足を取られ、強い風にあおられながら、ようやく小屋へと辿り着いた。少し窪地になったところに建っているその小屋は実習にもよく使われ、板間には炉が切られ、隅には乾いた薪が積み上げれらている。
とりあえず風雨をしのげる屋内に入れたことにほっとするのも束の間。
蓑を付けていた伊作はまだしも、背から下ろした文次郎のほうは、もう、身体の芯まで冷え切るほどの濡れようで、唇は紫色になっている。
ずっくりと重くなった衣からは絞らなくても、雨水が滴り落ちる。
伊作は文次郎に有無を言わせず、衣を剥ぎ取り、多少カビくさくはあったが置いてあった薄い上掛けを、血の気が引いて白くなっている身体に巻きつけた。
息をつく間もなく、今度は伊作は文次郎の足元へとかがみこむ。
火傷と裂傷、その上に、骨折なのか捻挫なのか…紫色に足首が膨れ上がっているのへ、なんとか諦めずに持ってきた薬箱から手当ての品々を取り出した。
「…誰かが、ご親切に、人の進路に、埋め火、置きゃあがって」
寒気か、痛みか。震える声で、それでも文次郎が毒づく。
「見つけだしてぶっ殺してやる」
「…………」
伊作は無言で手当てを進める。
「…ありゃ、おまえ、おおかた、仙蔵だろう…」
傷の様子を見る伊作の慎重な指の動きにも、歯を食いしばりながら文次郎は言い募る。
「きっちり詫びをいれさせて……」
そこで初めて、伊作は忙しく動かしていた手を止めた。
「これは、仙蔵のせいじゃない」
文次郎を見上げる。
「仙蔵のせいじゃない。天罰だ」
傷の痛みではない痛みに、文次郎の顔がゆがむようだった。
「……おまえに好き勝手した罰だってか」
伊作はゆっくり首を横に振る。ちがうよ、と。
「嘘をついた、その罰だよ」
もう文次郎はなにも言わない。伊作もまた、手当てに没頭した。
文次郎の足首はぽっきり折れてこそいなかったが、ひびくらいは入っていそうな按配だった。
伊作は寒さと痛みでがたがた震え出した文次郎にありあうものを掛けてやった。
火を熾した。
濡れた衣を広げて、乾くようにした。
自分も衣を脱いだ。
それも広げた。
裸になって、伊作は、文次郎のくるまる上掛けの中へと、滑り込んだ。
後ろから、冷え切った文次郎の身体を抱くように手足を回した。
「…やめろ」
低くうなるような声が言う。
「襲うぞ、こら」
「虚勢だね。それほどの元気がないのはわかるよ」
本当に。冷えて、細かく震えている文次郎の肌は、今まで無体に一方的に重ねられてきた横暴な男の肌とはちがうようだ。
ただ、鼻を押し付けた髪の間から、雨と泥のにおいとともに、かすかによく知った男の匂いがする。
文次郎が唸る。
「うっとうしいんだよ、くっつかれてっと」
「…君は、本当に嘘吐きだね…」
伊作は頭を文次郎の頭にもたせかける。
「俺が、いつ、嘘をついた」
もう馴染んでさえいた、肌。覚えてしまっていた、匂い。ああ。伊作は思う。君の声の、そのかすかな強張りさえ、今のぼくには、聞き取れてしまう…。
「君は、今日、二度もぼくをかばったよ。…一度は長次の蹴りから。一度は、さっき。落ちてきた枝から」
「…自分が逃げようとしたんだよ、そしたら、足が……」
伊作は聞かなかった。
「今だって。本当はぼくまで凍えてしまわないか、心配してる」
「…………」
「君は、嘘吐きだ」
伊作は繰り返す。
「君は、ぼくのことが好きだ。好きだって言えないなんて、嘘だ。君は、ぼくが、好きだ」
文次郎は黙り込んだままだった。
伊作も、口をつぐむ。
もうこれ以上、長次と自分の仲を疑ったのも焼き餅からだろうとか、本当は今日、君も泣いたんだろうとか、問い掛ける必要はないように感じられて。
やがて――
文次郎は震える息を吐き出して……
「…どのツラさげて…」
痛いほどの自責がにじむ声を絞りだした。
「どのツラさげて、おまえに好きだなんて言える…。あんなひどい目に合わせて…あんな勝手しといて…。どうやったら言えるんだよ」
「…………」
「……痛かったろ。腹が立っただろ……」
「……みじめだったよ。イヤだったよ……」
文次郎の手が、自分の身体に回った伊作の腕をさぐった。冷たい指だった。かすかに震えていた。その手で、伊作は手を握られた。振り払われるのを覚悟しているような、怯えてもいるような指先だった。
「…伊作」
「うん」
「…悪かった」
初めての謝罪だった。指先は、やはりかすかに震えている。
伊作は鼻先を文次郎の髪の中に埋めたまま、目を閉じた。
「うん」
ただ一言、返した。
小屋の屋根まで吹き飛ばされそうに、ごうごうひゅうひゅう、風音は途切れることがない。激しい雨音も、途切れない。
それでも、寄せ合った肌は、いつのまにか柔らかい熱をはらみだしている。
こんなふうに、ほとんど裸でくっついて。
嵐の中、世界から二人だけ切り離されて。
不思議だね、文次郎。
なぜこんなに穏やかなんだろう。
なぜこんなに静かなんだろう。
今なら、ぼくもきちんと話せるだろうか……
君を傷つけるためにではなく。
ぼくは、話したいと思うんだ……
「文次郎。聞いてくれる?」
寄せ合った文次郎の身体が緊張するのを感じながら、伊作は自分の真実を告げるために口を開く。
「ぼくは……ぼくも、嘘をついた。君のことを、友達だとも思えないとも、大嫌いだとも言った」
その言葉に、顔を見ようとするように文次郎は振り向きかけた。その肩を伊作は押し留める。
「あれは、嘘だよ…ぼくは君が怖かったし、とても腹も立っていたけれど…君のことは嫌いじゃない。……気がついてたろうと思うけど……君に、されてる時に、気持ちよくなったこともあった」
そして、伊作は大きく息を吸い込んだ。
「でもね、」
真摯に続けた。
「ぼくの意思を無視してまで、ぼくを欲しがった君の気持は、ぼくにはわからない。あんなふうに、無茶に、熱くなれる、君の気持はわからない。君のことをぼくは嫌いじゃないけれど、君のように、ぼくは君が好きじゃない」
言い切って、どれほどの間があったろう。
「…なんだよ…きっちりフルために、おまえ、わざわざ人のこと、台風の中、追っかけてきたのかよ……」
言葉だけは威勢良く、しかし、かすれるような声で文次郎が言った。
「わざわざ…止め、さしに…」
「止め、なのかな」
伊作は呟く。本当にわからなかった。ただ、自分は…
「ぼくは…それでも、君と友達でいたいと思うんだ…この数ヶ月、ぼくたちは友達ですらなかった。君は勝手過ぎて、ぼくは君を恨んでた。それを、ぼくは…前と同じに戻したい。君と、やり直したい」
かすかに文次郎が身じろぎする。
「…前と同じにゃ、戻らねえ…俺は、おまえが好きだ……」
「なら。また同じことを繰り返す? ぼくを無理矢理、抱く? ねえ、文次郎。ぼくだって、君にされたことも、君の気持も、全部忘れるなんてできないよ。でも、そしたらぼくたち、もう絶対に、恋人にも友達にも、どちらにもなれないよ」
ひゅっと文次郎の喉が鳴った。
「ねえ」
伊作は頭を文次郎の頭にすりつける。
「やり直そう。ぼくたち、やり直そう。友達から、やり直そうよ……」
伊作の手を握る文次郎の手に、ぎゅっと力がこもった。
風と雨の音が、いつまでも続いていた。
それは、文次郎と伊作の、ひとつの終り。
加害者と被害者になってしまった、二人の終り。
傷を見つめ、もう傷つけ合わないと誓った、終わり。
新しい季節へと、つながる、終わり――
了
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