氷花
−1−

このSSは既出「秋の風」からの抜粋と
「千文字部屋」に掲載したものをまとめたものです。
細部に修正があります。

 


始まりは些細な日常の中にある。
何の変哲もない、日々の繰り返しの中に……沈み切らず溶け切らず。
始まりは、潜んでいる……



落ち葉の山が細い噴煙を上げている。
 庭ボウキを手にした小松田の後ろに、鼻をひくつかせた一年生が陣取る。
「まだかなあ? まだかなあ? まだ焼けない?」
 早くもヨダレを垂らし出したしんべヱに、
「まだだよ。今、火をつけたばかりだもの」
 そばかす顔の乱太郎が答える。
「ねえ、小松田さん、もう五、六個、追加してもいいかなあ? 焼けたら売るんだ」
 聞くのはきり丸だ。
「うん、食堂のおばちゃんが分けてくれたらね」
 小松田の答えにきり丸が駆け出す。
 秋の落ち葉に藁にくるんだサツマ芋をほうり込み、焼き芋を楽しもうという趣向である。


 パチパチと乾いた落ち葉や小枝がはぜる音と、時にもくもくと、時に細く立ち上る白い煙りに、一年生たちは待ち遠しげに足踏みを繰り返す。
「……いい匂いだな」
 通りがかったか、野村が声を掛ける。
「あ。もう匂いますかぁ?」
 小松田がくんくんと鼻をうごめかせる。
「するする! もう焼き芋の匂い、いっぱいするよ〜」
 しんべヱが請け合う。
「しんべヱ君の鼻は特別だもの。僕はまだあんまりわからないなあ。野村先生も鼻がいいんですねえ」
 邪気ない小松田の言葉に、野村がちょっと鼻の頭をかく。
「ずっとそばにおるから、わからんのだろう。……もう、職員室の中までいい匂いがしとるよ」
「じゃあ、後で先生方にもおすそ分けしなきゃあ」
 気前のよい小松田に、これはきり丸が憤然と異議を唱える。
「だめだよっ! もう商売用に押さえてあんだからっ!」
 えーと困ったような小松田に、野村が笑みを落とす。
「まあ先生方には、匂いだけでも十分に御馳走でしょう」
 と。
 小松田が門のほうを見やって、あっと声を上げ、
「ちょっとこれ持っててね、きり丸君」
 手にした竹ぼうきを慌ててきり丸に預けると、門に向かって走りだした。


 門を入ったところから、憮然とこちらを眺めていた大木に、小松田は走り寄る。
「すいませーん、入門表、お願いしまーす」
「……なにぃ?」
「だからぁ、入門表、お願いします」
 ぎろり。
 大木は、最前、野村からほほ笑みを引き出したその用務員を上から眺め降ろす。
「……入門表? だれに向かって頼んどるんだ」
 小松田は負けるまいとして胸を張る。
「規則なんです」
「…………」
 怖いもの知らずと言われる小松田は、不機嫌に目を光らせる大木に入門表を挟んだ木板と筆を差し出す。
「……ふん」
 鼻息荒く、大木がそれを受け取り……ぱきっ。
 軽い音がしたと思ったら、大木の手の中でその木板はまっぷたつに割れていた。
「……おお。ヒビでもはいっとったんじゃないか」
 しらじらと言いのけて、大木は割れた入門表を小松田に突き返す。
 物品の破損に、小松田は泣きそうな顔をしたが。
「……あ、新しいの、取って来ます! ちゃ、ちゃんと待ってて下さいねっ!」
 気丈に言い置いて、事務室にむけて駆け出した。
 その背を、不満げに見送る大木の横に。
 影がすっと立った。
「……かわいそうなことをする」
「……なんじゃい」
 大木はぎろりと横に立つ土井を見返す。
「ヤキモチはもう少し上手に焼いたらいかがですか」
「……わしはモチなど焼いとらんわ。あれは板にヒビがはいっとったのよ。危なくケガをするところじゃったわ」
「彼はよい子ですよ」
「ほう。ならおまえさん、口説いたらどうだ」
 土井の口辺に、あたたかさのかけらもない笑みが浮かんだ。
「……いっぺんに厄介払い、ですか。残念ですが、彼はわたしのタイプじゃないんで」
 そして土井はすっと大木の耳元に口を寄せた。
「そんなに心配することはないでしょう。わたしはどうもさっきから、野村先生の視線が痛いんですが」
 焼き芋の焼き上がりを待つ子どもたちの後ろから、確かに野村がこちらを見ている。
「……ふん。出来の悪い事務員のことでも気になるんじゃろ」
「誰かさんが子どもみたいなイジワルするからでしょう」
「誰がイジワルじゃい。あれは板にヒビが……」
「そう。あれは事故。そして、さっきからわたしの首の後ろがチリチリするのも、わたしの気のせい」
 小松田が新しい入門表を手に駆けて来る。
 騒ぐ子どもたちのそばから野村がこちらを見る。
 そして……鼻をうごめかせた山田が職員室から出てきた。
「……また、」
 子どもたちのほうを見ながら、土井の目がすっと細くなった。
「遊びに行ってもいいですかね……」
「……いつでも来いと言うとるわ」
 

 秋の風が焼き芋に騒ぐ子どもたちの上を吹き過ぎる。
 そんなのどかな日常の風景の中……よぎる大人たちの視線が、新たな波乱の種となる……


     *     *     *     *     *     *     * 

 

笑顔が、目の先にちらついて、消えない。

野村が、学園には不似合いな、失敗ばかりの事務員に向けた笑顔が。
大木の目の先にちらついて、消えないのだ。

なぜ、あいつなのだ、とも。
なぜ、あんな笑顔を、とも。

怒鳴りたててやれれば、どれほどよかったろう。

野村の、小松田に向けた笑顔が。
大木の脳裏に繰り返し、浮かぶ。

……わかる。
なぜ、小松田なのか。
なぜ……あの笑顔なのか。

わかるからこそ、なのか。
わかることがくやしいから、なのか。
大木は堅く堅く、奥歯を噛み締める。

 

 



生徒達はいち早く大木の姿に気づき、己の担任の背後数間にまで、ざっと飛び退いた。
「? どうした、おまえたち」
野村のいぶかしげな声も一瞬。
すぐに。
野村は木立の影に立つ大木に気づく。

「なんだおまえは!! 授業の邪魔だといつも言うとるだろうが!!」

野村は罵声と同時に、数枚の手裏剣を放つ。

……それは、いつものこと。
授業に乱入する大木。
怒って大木に対する野村。
争いを避けて遠巻きに見守る生徒。

いつものことだが。
今日の大木の、瞳は暗い。

大木の手は苦無を握り、キン! 放たれた手裏剣を弾く。

すわ、とばかりに野村は忍び刀を握る。

だが。
野村の予測した反撃は、来ず。

それでももう一撃と、野村が飛ばした手裏剣を、大木は物憂く首を背けることで、避けた。

野村の眉根が、いぶかしげに寄る。

「……つまらんわ」

 

 


いつも。
瞳輝かせて、「勝負だ! 野村!」叫ぶ男が。
周りの迷惑もなんのその。
授業中であろうが、周りに生徒がいようが。
かまわず仕掛けてくる男が。
……嬉々として。楽しげに、生き生きと。野村と戦うのが嬉しくてたまらぬと言うように、戦いを挑んで来る男が。

つまらん、と呟く。

「……大木?」

苦無を握る大木の手が、だらりと力なく垂れる。

「……わしは、つまらん。……つまらんのだ、雄三」

雄三、と。
呼ばれた男は静かに目を見開く。
暗く、暗く。悲哀さえ底に沈めた瞳が、野村の視線の先にある。

「…………」

大木の瞳の色は、野村にも覚えのある色。

「わしは、おまえに、惚れとるんじゃああ!」
時を選ばず。
耳の奥に甦る咆哮が今また、野村の耳朶に響くようだ。

 

 

 


突き放して帰るという手もあった。
それが一番、無難なのだろうという気は、した。

だが……どこかで、もう安心していたのかもしれなかった。
大木の寂しげにすら見える、暗い眼。
どこか投げやりですらある、態度。
つまらん、と吐き捨てる言葉に潜む、責める響きのなにか。
実際に、それを見、聞き、感じながら。
野村はもう、どこかでタカを括っていたのかもしれなかった。

「わしは、おまえに、惚れとるんじゃあっ」
叫びは耳に甦る。
しかし。
その後長く。
大木との関係は、不快な波立ちとも、意味ありげな秋波とも、無縁なところで紡がれてきた。
大木は二度と『それ』を口にしなかったし。
『それ』を求める気振りすら、見せなかった。
二人の間に、なにかがあるのはわかっていても。
そのなにかを、双方ともが直視したことはなかったと野村は思う。

だからもう。
安心していた、というのが言い過ぎでも、警戒の必要を感じていなかった、とは言えた。

「久しぶりに、飲むか、雅之助」

野村は自分からそう声をかけた。
「今日の授業はもう終わりだ。俺の部屋にいい酒がある」と。
それで流せるほどのなにかだと、思っていたのが不覚か。
つまらんと。
大木がなにを指していたのか。
深く探らずにいたのが不覚か。

「おかえりなさーい」
学園の門の前を掃く事務員が、明るい声で迎えてくれる。
「帰りました」
もう無意識に……笑顔を返しながら、それでも野村は気づかなかった。

「入門表をお願いします」
「入門表、書いて下さい!」

声が二度、繰り返したところで、初めて野村は剣呑な空気に気づく。

振り返った。

大木が。
肩で事務員を払い、強引に門を入って来ようとしている……

「だから! 入門表にお名前をお願いしますってばぁ」

大木の暗いくらい瞳に、ちろり。黒い焔が立つ。

「……わしはここで教師をやっとった……」

呟くような低い声に、野村の肌が総毛立つ。

おまえは今、それを言うのか。
それが今、おまえが言いたいことなのか。

「それは知ってますけどぉ! でも、規則なんです!」

小松田の声に鞭打たれるような痛みを覚えながら、野村はその肩に手をかける。

「…通して、くれ…」

忍術学園教師の職を、男子一生の仕事と言っていた、
一夜の贖いに、捨てた、
その男を……頼む、通してくれ。

 

 



野村は震えをこらえた。
「ええ? でも……」
規則は規則ですから、と。続くはずの声は、
「小松田くーん!」
遠くから呼ぶ声にさえぎられた。
「君、学園長が探していたよ! 先月の事務記録はどこだってー!」
「あ! いけない!」
小松田の顔色が変わった。
「忘れてた!」
駆け出す彼はもう、大木の入門表のことは忘れているらしい。
野村は慌てて駆ける小松田の後姿を見、そして、小松田に声をかけた土井を見る。
目が口ほどにものを言うのを慮ってだろう、土井は意味ありげな一瞥をこちらに投げることはせず、もうまとわりつく子供達のほうを向いて笑っている。
……急場を、助けたつもりか。
野村はつい、舌打ちの音を響かせた。
入門表に記名を拒む大木、粘る小松田、間にはいって困る自分……さりげに救ったつもりか? それはそれはお困りでしょう? とでも?

なぜ、土井がわかったような顔をする?
これは俺とおまえの問題ではないのか?
土井がなぜ、こんなわざとらしい助太刀をしてくる?

言葉にできぬ憤りに、野村は地面に伸びる大木の影をにらみつける。
顔を見たくはなかった。
目を合わせたくもなかった。
この憤りを悟られるのは不愉快だった。

なぜ、土井が。
……野村はとうにその答えを知っている。
土井が、当事者然と大木と野村の間に割ってはいる、その訳を知っている。

そのおまえが。
土井を当事者に巻き込んだおまえが。
土井にあんな役回りを演じることを許したおまえが。
野村は奥歯を噛み締める。
なぜ入門表を拒否できる。
なぜ、小松田に向かって、己が学園を辞めた経緯をさらそうとするのか。
土井をここまで引き込んでいるおまえが。
小松田に向かって、あの過去を蒸し返そうとするのか。
なぜ、そんなずうずうしい真似ができる!

ギリ、と鳴った奥歯に、穴があくほどににらみつけている地面に。
大木は気づいたのだろうに。

「酒を呑ませてくれるんだろうが」

ぬけぬけと言い放った。

野村は顔を上げた。
やはり、怒りの眼の大木と、目が合った。

「……おまえなぞに呑ませる酒はないわ」

 

 



にらみあった。
土井の口出しがよほどおもしろくなかったのか、取りつく島もなくその顔を冷たく強張らせた野村だった。

大木は負けるかとばかりに、その眼をにらみ返す。

……なにを、望んでいるわけでもなかった。
話がしたいわけでもなかった。
だが、このまま帰るのはいやだった。

「つまらん」
それが子どものような我侭だと、わかってもいた。
ああいっそ。
地面に大の字に横たわり、手足をバタバタやってみるのもよいかもしれない。
つまらん。つまらんのだ、野村。
おまえが誰かに心寄せるなど……これほどつまらんことはない。
わしはおまえを殴りたいのか、すがりたいのか。
おお、わしは「つまらん」これを持て余しとる。
いっそガキのように泣き喚いてケリがつくならと、思うほどに。

「小松田が好きか」

睨み合いのさなか、口が勝手に動いていた。
「聞いてどうする」

咄嗟に返って来た答えはそれだった。

聞いてどうする? どうもせん、聞きたいだけだ。
そう返すつもりで大木が口を開くより早く、しかし、野村は手を振った。

「いや。……こんなところでする話ではないな」

確かに、まだ二人は学園の門を入ったところで突っ立ったままだ。

ならおまえの部屋に行こうじゃないか。
また、大木がそう言うより早く。

「だが、俺は場所がどこであれ、おまえとその話をしたいとは思わん。おまえの用件がそれなら、すまんが帰ってくれ」

こんなところでする話ではないと。
大木もわかってはいたが。

「おまえが小松田をなんとも思っとらんなら思っとらん、それでいいだろう。好きなら好き、それでいい。一言で済む。話なぞ、わしもしたいとは思っとらんわ」

野村の瞳が険をはらんだ。

「……わかっとらんな、おまえは。俺には答える気がないし、おまえになぜそんなことを聞くと聞き返したくもない。聞いてどうするとさっき言いはしたが、おまえが俺の返事を聞いてどうしようと、そんなことに興味もない」

「……どうあれ……わしには関係ないということか」

自分の声が弱く響くのを、大木はいまいましく思う。
かと言って。
いっそ居丈高に居直ろうにも……どうにも、力が湧いて来ない。

……わしはな。おまえに惚れとるよ……
たった一度、無体に奪っただけのおまえの躯を、今でも忘れかねている……
そんなことを気色にも出そうものなら、おまえが顔色を変えるのはわかっとるから……毛ほどもそんな素振りは見せんがな……
わしはおまえに惚れとる。
だから二度とおまえの躯に触れはせん。
ただな……ちいっとな……
こうやって、おまえがほかの誰かに心を移していくのを……おまえの躯に手を伸ばせんのと同様に……黙って見ているしかないと言うのがな……
おお、そうよ。
わしはつまらんのよ……

大木は長く重く、息をついた。
「……つまらんことを聞いて悪かったわ……邪魔したな」

 

 




意外な言葉に眼を見開きそうになるのを野村はこらえた。
どうせこの男のことだ、人の言葉の揚げ足を取り、うだうだごねる気だろうと思っていた。

あっさり背を向け、学園の門を出ていく大木の足取りに覇気がない。

「おや。今日は大木先生、ずいぶんお早いお帰りなんですね」

土井が通りすがりざまかけて来た声を、野村は無視した。


その、夕刻。
食堂での、ささいな一コマ。

箸を置いた山田伝蔵が軽く手を合わせ、席を立った。
向かいに座っていた土井が、は、と顔を上げた。

「山田先生」

なんですかな、と盆を手に伝蔵が振り返る。

「いえ…その、教科のことなのですが…また授業が予定よりだいぶん遅れて来てしまっていて…」

ああ、と伝蔵がうなずいた。
「では後で、実技のほうとすりあわせて予定を見直しましょう」

「…はい。よろしくお願いします」
土井のうなずきは一拍遅れている。

そして。
そのまま盆を配膳口に返し、食堂を出て行く伝蔵を。
土井は箸を手に、黙って見送るのだ。

野村はその、食堂のざわめきの中に簡単にまぎれてしまう一コマを、これも箸を手にしたまま、ずっと見ていた。

……食事が終わるまで、付き合ってほしかったか。
席など立たず、ほんの数分、待っていてほしかったか。
野村は土井の心中を思う。

いや。と野村は思ってもみる。
土井は本当に、食後に相談に乗ってほしいことを山田に伝えておきたかっただけかもしれない。本当にあのタイミングで、それを思い出しただけかもしれない。

野村はそう思おうとしてみる。
だが。
伝蔵を見送る土井の背中は、最前、門を出て行った時の、大木の悄然としたさまと、だぶるのだ。

……いつでも、好きな時に、会えるだろう。
野村は胸の中で問い掛ける。
……相手はイヤな顔などせず、ちゃんと付き合ってくれるだろう。
野村は胸の中で主張する。
ちゃんと、付き合ってやってるじゃないか、大木。
……なのに。
おまえたちはそれでは足りんと言うのか。
同僚として友人として。
俺は……そして、山田先生も……おまえに、そしておまえたちに、きちんと向き合っている、付き合っている。
あたたかい親愛の情を持っている。
それがわからぬおまえたちでもあるまいに。
それでは足りんのか、土井。
それでは不足か、大木。

おまえたちは……自分が望み過ぎているのだと、思ったことはないのか。

土井の肩が小さくぶれた。
ため息をついたと、知れた。

野村は奥歯を噛み締める。

……いや。
おまえたちは知っているよな。
望み過ぎている、自分が、自身を苦しめているのだと。
……そうと知ってなお……
山田を望むか、土井。
……おれを、望むか……大木。

野村は重くなった箸を置いた。


食堂を出たところに、小松田がいた。
「あ。野村先生、探しました!」
小松田の息が荒いのは、駆け回っていたからか。
「大木先生! もう帰られちゃいましたよね?」
「あの後、すぐにな」
ああしまった〜としょげる小松田に野村は苦笑いをこぼす。
「入出門票か? 大木なら門から5歩とは入っとらん。今回はいいだろう」
でも、と言いかけて小松田は言いよどむ。
小松田らしくない、はっきりしない顔の色に、野村は小首をかしげる。
「どうかしたか」
困ったように小松田は眉を寄せている。
「…先生も…ぼくがやりすぎてるんだと…思いますか…?」
思わぬ小松田からの問いかけに、野村は目を見張る。
「大木先生は以前、ここの教師をしてみえて…今も学園の出張所みたいな感じで…そんな人にまで、サインをさせようとするぼくは…やりすぎだと思いますか?」
問いに正直に答えれば、うなずくしかなかったが。
マニュアル一辺倒、融通の利かなさがある意味、マジメの証になっているような小松田が、そんなことを悩んでいるのが不思議で、野村は首を横に振ってみた。
「いいや。マニュアルに決められていることなんだろう? ならばそれは必要なことではないか」
「…ええ」
小松田の歯切れは悪い。
「…マニュアルにあるだけじゃなくて…忍術学園に誰が来たか、きちんと記録に残しておくのは大事なことだと思うし…。学園はいろいろ敵も多いから…もし、誰かが学園の関係者にに化けて侵入しようとしても…ぼくには、見破れない…」
野村は瞠目して小松田の言葉を聞く。
「大木先生が本当に本物かどうか…でも、筆跡があれば…後から調べることができるでしょう? …そう思って…。でも、今日みたいに野村先生も一緒にいらっしゃったんなら…大丈夫ってことじゃないかなとか…でもやっぱり、そういう油断がよくないんだぞとか…いろいろ…思うんですけど…」

衝動は突発だった。
野村は小松田を抱き寄せようと動き出した両手を、拳を握って体の脇に引き寄せた。
…そんなことを、思っていたか。
…ただ、決められたことにだけ、一生懸命なのだと思っていた。
…その、懸命さだけでも…俺にとっては癒しになるなどと、思っていたのに。

…そんなことを、悩んでいたか。

「野村先生…?」

見上げてくる瞳の、邪気のなさに眩暈を覚えた。

……聞いたのは、おまえだよな、大木よ。

俺は自分の感情のいちいちを、取り上げ、眺め、分析するのが得手ではない。
自分の感情のいちいちに、名をつけようとも思わんのだ。

名づける、分類する、それは医者の見立てと同じく、無意味なものだと俺には思えるのだ。
具合が悪ければ寝ているしかないだろう、熱があれば熱さましを使い、水を飲む、腹を下せばさらしを巻いて、かゆをすするしかないだろう。
風邪だ、食あたりだと、名づけてそれがなんになる。
どう対処し治療をするのか、肝心なのはそれで、診断ではないのだ。

恋だ愛だと、名づけることに意味があるか。
俺はずっとそう思ってきた。

その俺に。
聞いたのはおまえだ。

「小松田が好きなのか」と。

……ああそうかと、俺は今日、わかった気がする。

身体があたたかくなる、これはでは『好き』という感情か。

名づければ、そういうことになるのか……。

大木よ。……聞いたのは、名づけたのは、おまえ……。

 

続きへ

 

 

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