氷花
−2−

 

そうして……
野村は、己の内に芽生えた感情に大木がつけた名前を、己でも認めた。

だが。
元来が、情に流されて動くを善しとする男ではない。
軽挙妄動など、慎もうと思うより前に、そんな行動を取りたいと思うことすら、ない男である。
俺は小松田が好きか、
と思い、
大木よ、おまえはそれがつまらんか、
と思い。
そう納得しただけで、野村には十分な認識であり、己の行動で、さらに事態を進めよう、あるいは収拾をつけようなど、思わぬのであった。

……大木が、動かなければ。
……土井が、話しかけてこなければ。

野村は、動かぬはずであったし、考えを深めることも、しなかったろう。
が、皆が皆、野村ほどに己の感情と己の間に距離なり壁なりを設けてはいなかったし、克服できるような浅い葛藤しか、持たぬわけでもなかったのだ。

大木は動いた。
野村は本当に小松田を選び取るのか。
小松田はそれを受け入れるのか。
彼らの仲がどう進展するか、邪魔をしようという意図はなくとも、彼は野村の顔を見ずにはいられず、頻繁に学園を訪れ、かと言って、今までのように「勝負」を挑むわけではなく、ひたすらに野村を苛立たせた。

「うっとうしい!」
「……授業の邪魔はしとらんぞ」
「それがうっとうしいと言うのよ!」
「なんだ。勝負勝負とわめいたほうが、授業がはかどるとでも言うのか」
「馬鹿を言え! おまえが乱入して授業が進むわけがなかろう!」
「ならいいだろう。俺は見ているだけだ」
「辛気臭いツラで見ていられては、空気が悪くなる!」

そこまで言っても、
「挨拶だなあ、野村」
苦笑を浮かべる大木に、ちりりと野村のうなじの毛は、そそけだつ。

そしてまた……学園一年若い教師は、話しかけてくるのだ。

「……どうしたんです? 大木先生と喧嘩でもなさったんですか」
などと。
彼には珍しい物憂い笑みを浮かべ、まったりした口調で聞いてくる。
「…………」
答えず無視していれば、
「ちっともケンカをなさらないから、喧嘩でもなさったのかと」
神経を逆撫でするような、笑えぬ引っ掛けを使う。
「…………」
さらに無視していれば、
「……大木先生も……ずいぶん煮詰まってらっしゃって……」
それはあなたのせいだと言外に匂わせて、土井は指の跡の残る手首をさする。
……あなたのせいで、わたしはこんな目に合うんですよ、と……

野村の苛立ちは頂点を越える……

……大木が動かなければ。
……土井が話しかけて来なければ。

だが、実際。
大木は、これはやむにやまれぬ衝動に駆られ、たびたび学園を訪れたし。
土井は、底に幾層か澱ませたそれを、隠し通せもしなかったし、野村に対して、隠してやる気もなかったし。

ちりりと野村の神経は、苛立った。

 

 

 



……直接のきっかけは些細だった。

「また来たのか!」
野村は「勝負」を挑むでもなく、目の前に立つ男に吐き捨てる。
男は……大木は、渋い顔で言い返す。
「ちゃんと入門票は書いて来たわ」

些細な、本当に些細な、それだけのやりとりに。

野村の神経は際(きわ)を越えた。

……やりとりは、些細だったのだ。表面的には。

「また来たのか」
それほど、おまえは俺がほかのヤツに心移すのがつまらんか!!
「ちゃんと入門票は書いて来たわ」
おまえが大事に思うている小松田の手を、わしはわずらわせてはおらんわ。
そう心配そうなツラをせんでも……わしは元・教師の資格を言い立てたりは、せなんだわ。

……その、「些細」なやりとりに。
野村の神経は際を越えた……。

 

 

 


はばかる気もないらしい足音が、戸口の前で止まった。
迷いのない足取り、乱れのない気配、案内を請われる前に、大木には誰の訪いか、わかっていた。

案の定、戸の外に立っていたのは野村雄三だった。

「どうした、こんな夜更けに」
「寝ていたのなら、すまぬことをした」
「いや、まだ寝てはおらん。……どうした」
「おまえに話があって来た」
「話?」

聞き返した大木は、妙に目尻が切れあがって見える野村の目の色に気づく。
暗く、静かで、しかも強い光が野村の瞳に宿っている。
そしてまた、いつも冴え冴えと澄明な印象の野村の額が、今夜はなにか青白く強張っているようにすら、見えた。

「……話?」
大木は目をすがめながら、野村に聞き返す。
「なんの話か知らんが……おまえ、話に来たと言うより、今から戦場(いくさば)にでも向かうような顔をしとるぞ」

「戦場…?」
聞き返してきた野村が、まるでおもしろくはなさそうに、口元だけを笑みの形に変えた。

「……そうかもしれんな。俺は、おまえと戦をしに来たのかもしれん」

大木は大仰に顔をしかめて見せた。
「ケンカか? 高値で買うてやりたいところだが、こんな夜更けでは質屋も閉まっていてな」
買う金がない、と、いなした大木に、野村は嘲笑に似た息をもらした。
「……ケンカでも戦でもいい。とにかく俺はおまえに話がある。上がらせてもらうぞ」

ずい、と。
大木を肩で押して、野村は敷居を越える。
「来い」とばかりに上がり框に足を掛けた野村にあごをしゃくられ、大木は我知らず、奥歯を噛み締めた。

戦場を連想したのは、気のせいでもない。
野村の鋭い眼光に、二人を包む空気までもが、ピリリととがりだすようだった。

囲炉裏の前に、どっかりとあぐらをかいた野村にならい、大木もまた囲炉裏端に腰を下ろした。
そんな気分ではなかったが、わざと伝法に片膝を立て、肘をついた。
……野村の「話」の内容が見えてはいなかったが、「気」で飲まれたくはない。丹田に力を込めて、横目で野村を見やった。

「……おまえの話とはなんじゃい」

大木の、虚勢にも似た行儀の悪さにも野村は顔色ひとつ変えるではない。
野村の大木を見つめる目は、切っ先の向こうにいる相手を見る目と同じだった。

「このところ、おまえはよくつまらんつまらんとこぼすな、大木よ」
「……口に出しては、そうは言うてはおらんはずだがな」
「目は口ほどにものを言いというやつだ。水掛け論など望まん」

肯定の返事に代えて、大木はひとつ溜息をつく。

「……で? わしがつまらんのがどうした」
「おまえがつまらんのは、俺が小松田秀作に気をひかれているせいか、そうではないか、どちらだ」

ふんっと、大木は鼻息を荒くした。

「おまえは昔から情緒のない奴じゃと思うとったが、変わらんなあ。人の心のありようは、甲か乙かとすぱっと片付くものでもなかろうに」

「ごたくはいい」
野村の声が低く大木の声にかぶった。
「答えろ。俺が誰かほかの者に懸想するのが、おまえはおもしろくないのだろう」

正面からの斬り込みに、大木はぐっと眉根を寄せる。
逃げるは卑怯か、臆病か。ならば。

「……そうだ。わしは、それが、つまらん」

「迷惑だ」
野村の返事は素早く断固としていたが、大木は嗤った。
「迷惑と言われてもな。わしはおまえに惚れておる」
何年ぶりか、大木はその台詞を口にした。
「惚れとる相手が、ほかのヤツに血道を上げる。それがつまらなくない者などおるものか」
「確かにな」
意外なことに、野村は大木の言葉に異を唱えようとはしなかった。
「それはわかる」

だがな、と。
いったんは大木の刃を流した野村は、振り返った勢いで胴を断とうとする。
「つまらんつまらんと、俺の前にひけらかしに来るのは、迷惑だ」

大木はぐっと拳を握る。
野村の清冽な容貌のその顔を、殴りつけてやりたかった。
ひけらかし? あれをおまえはひけらかしと言うのか……

「……次には……わしがただ惚れておるのも迷惑だと言いたいか……」

声音に、怒気がにじんだ。
その大木の怒気を受けて、野村の眼がすうっと細くなった。

「……では聞くが、」

揺るぎない視線がひたと大木に据えられている。

「応える気もない相手から懸想され、揚げ句に、ほかの者に心を移したと恨みがましい眼で見られて、おまえならよい心持になれると言うのか」

野村の舌鋒に、さすがに大木は鼻白んだが、
「もうずっと以前に伝えたはずだな。おまえの気持ちに応えることはできんと」
野村の詰めの言葉に、口元ににやりと笑みを刻んだ。

「ああ、聞いたな。確かおまえは衆道が嫌いだとも言っておった」
そう言っておきながら、今おまえは小松田に懸想するのかと揶揄した大木に、野村は変わらずひるむ色もない視線を返す。

「おまえは変わらず強気だよな、大木よ」

新たな太刀が振り下ろされる予感に、大木は構える。

「俺はな、考えたのだ。なぜこの男はこれほど強気か、なぜ俺は自由に人を好きになることもできぬのか、とな」

そして野村は低く、呟いた。

「男子一生の仕事」

……そう、大木にとっても野村にとっても、忍術学園での教職は、一人の忍びとして大成する可能性を捨てても悔いないと選んだ、男子一生の仕事であった。互いに、その選択を理解しあえた…男の生きざま。

「おまえは、それをあの一夜の贖いに、差し出したのだよな」

男としての矜持を……劣情で叩き潰した。
その詫びに、贖いに、大木はその「男子一生の仕事」を投げうった。

「……高い買い物だと思ったことはないか」

野村の問いかけに、大木は無言で荒い息をつく。
……なにを、こいつは言うつもりだと、剣呑な視線をぶつけた。
野村の瞳も揺るがない。
にらみ合ったまま、野村がまた、言葉をつなぐ。

「たかが一夜。たかが一度。無理やりつながった。その贖いだと、おまえは本当に納得できているのか」

大木の肩は荒い息に上下する。野村は続ける。

「男子一生の仕事。それを引き換えに、おまえは俺の心まで、購ったつもりでいるんじゃないのか」

再び大木は、野村の白い顔を殴りつけたい衝動をこらえてこぶしを握った。

「……そろそろ、わしも聞いていいか……」

かすれた声を押し出した。

「おまえは今夜、ここになにをしに来た。わしに文句をつけに来たのか、それとも莫迦にしに来たのか」

大木の怒気にかすれた言葉に、初めて野村が表情をゆるめ、笑顔とすら呼べるものを浮かべた。

「どちらも違うな。……俺は、収支を合わせに来たのだ。戦というのも、あっとるかもしれん。俺はおまえと向き合って、収支を合わせた上に、勝ち取らねばならんものがあるからな」

再び野村の顔が、鋭さをまとった。
「俺とて、男子一生の仕事と呼べるべきほどのものが、おのれのつまらん身体一夜分に釣り合うとは、思えん。おまえがそれほどのものを投げ出した以上、俺の心のありようについてまでも口を出す権利があると思い違えても、咎めることはできんと思う」

そして。
野村はぐっとその顔を大木に近づけた。
息が触れ合うほどの、近さに。

「……俺を抱け。大木」

低く、静かなささやきが告げる。

「俺の身体をどうなと好きにするがいい。おまえはそれだけのものをすでに差し出した。
 ……だがな、大木よ、俺の心は俺のものだ。俺が誰をどう好きになろうと、おまえに口出されるいわれは、ない」

……時が止まったように、二人は微動だにせず、ただひたと視線を互いの瞳に据えていた。

夜がどれほど更けたか。
互いの息遣いや鼓動の音さえも聞き取れるほどの静寂に、耳が押し潰されるように感じられるようになって、ようやく。

大木が、その重い密度の空気を破り、口を開いた。

「……どこまでわしを莫迦にする……」

その言葉が小さく震えるのは、怒りのゆえとも、哀しみのゆえとも聞き取れた。

「身体だけはどうなと好きにするがいい、だがわしが手にすることができるのはそれだけだと……帳尻合わせに抱かせてやろうと……それでわしが怒らんと、おまえは思うのか……喜んでおまえを抱くと思うのか……」

またも。
野村の顔に笑みが浮かんだ。

「知らん」

微笑んで野村は言い放つ。

「抱く抱かんはおまえが決めることだ。腹が立つなら、莫迦にするなと俺をつまみ出せばよかろう。取引に応じんのはおまえの勝手だ。
 だが、おまえがこの取引に応じんと言うのなら、おまえにとっては収支が合っているのだと俺は判断する。やはり今後、俺が誰を好きになろうと、つまらんつまらんと言い立てるのは、やめてもらおう」

大木がぐっと眉根を寄せた。
それはすでに……怒りより嘆きをこらえてのものと……見えたのだった。


そうして……顔をゆがめながら。
大木は再度、野村に問う。

「おまえは、それほど小松田が好きか」
「わしに身体を差し出しても、その気持ちを守りたいほど、小松田が好きか」
と。

野村の瞳は冷たく大木を見返す。
「だから。誰をどう好き、どう惚れようと貴様には関係ない、その為に抱けと言うのだ」

ぐっとなにかを飲み込むように一度うつむいた大木の。
その手が、ゆるゆると持ち上がった。

指先はかすかに震えさえして。
大木の手が、野村の頬に添えられる。

「どうした」
傲然と野村は言い放つ。
「手が震えているぞ」

「…………」
普段なら聞き逃すはずもない、揶揄を含んだ野村の言葉が、まるで聞こえなかったかのように。

「……ならば本当に……触れても、いいのか……?」
奇妙にしゃがれた声で、今度は大木は独り言のように問うた。

「……本当に…触れても怒らんか……?」
その無骨な、農作業に厚くなったかさついた手のひらが。
大切な壊れ物を扱うように、野村の頬を撫でる。

「……もう……喧嘩仲間の顔をせんでもいいのか。……ただの呑み友達のフリをせんでもいいのか。
おまえを欲しがってもいいのか。
おまえの肌を見てもいいのか……」

「ぐだぐだうるさい」
冷たい声が、夢を真と確かめようとする人の声を断ち切る。
「抱けと言うているだろう」

だが。
今やいとおしげに野村に触れるは手ばかりではなかった。
大木の瞳もまた、隠されていた熱を露に、野村を見つめていた。
その瞳の熱も、また、その手の動きも、野村の冷たい一言にひるむことはなかった。

「……おまえは本当に……綺麗じゃのう……」

ついもれたといった感嘆の呟きに。
ほんのわずか、野村の頬が紅潮した。

「莫迦なことを抜かしておるな! 女を抱くわけではないわ! うれしがらせも口説きもいらん! さっさと済ませることだけ済ませろ!」

「……何度も、何度も夢に見た……」
野村の声など、本当に聞こえていないのか。
大木の口元に、かすかに、笑みがある。
「……おまえに、触れる夢だ……」

夢が現(うつつ)になったと……
喜びに、かえって怖じるような静かな口付けを、野村はその唇に受けていた。

 

 



仕事としてこなす閨の心得はある。
本意ではなく念者を持っていたこともある。
好きでもない女を、必要に迫られて口説き、抱いたこともある。

同じことだと。
同じように、コトが済むまで、頭と身体をほんの少し、切り離しておけばよいだけだと。
思っていたが。

「雄三……雄三……」
耳元で繰り返される、湿りを帯びた吐息まじりの声が。

頬を、首を、耳たぶを、肩を、腕を……身体の細部をひとつひとつ、確かめるようになぞる指先と唇が。

重なる頬の、まるで熱でもあるかのような熱さが。
上から自分を見つめる、少し潤んだような瞳が。
なにより……一瞬でも離すのを恐れるように、絡み付いている腕の、狂おしさが。

そして。
「わしは……おまえに惚れとる……」
繰り返される告白が。


自分の身体の、行為の、傍観者であろうとする野村の心を波立たせる。


「……うるさい……」
顎から唇へと、ぞろりと舐め上げてくる肉厚な舌を、わずかに顔を背けて避けようとしながら、野村は呻く。
「いちいち名など呼ぶな……いちいち、惚れてる惚れてると……くどいわ」

そんな抗議が耳に入ってはいないように。
うわごとのように繰り返される声は途切れることなく、また、大木の野村をまさぐる手は熱く湿り、離れようとはせぬのだった。


そうか、と野村は思う。
おまえは俺を負かそうというのだな。
俺を身のうちから引き出し、俺の平静を破ろうというのだな。
しどけなく絡みつく女のように、俺に振る舞わせたいのだろう。

そうはいくか、と野村は背中を大木に向けながら、思う。
まだまだだ。俺は床板の一枚一枚を数えられるぞ。
月の光が落とす影に、日の出までの時間を計ることもできるぞ。
おまえの手などに、惑わされたりはせん。

野村の背に覆いかぶさった大木の、硬く硬く充溢したそれが、野村の臀部を割り、奥の祠に押し付けられている。

野村は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
その呼吸をはかった大木が、ゆっくりと、だが強く、菊門を突く。
合わせた息に、野村の肉の環は大木の肉の棒を飲み込んだ。

揺すられながら。

野村は床板を数え、時を計る。

――躯は好きにさせてやる。おまえはそれだけのものを犠牲にした。
  だがな、大木よ、俺の心は俺のものだ。
  おまえの好きになど、ならん。

 



「雄三……」
乱れる吐息の合間に、紡がれる名は、かすれ、震えていた。
 

 

つづきへ

 

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