それから……学園の中でよく見かけられるようになった二組は。
ドジな事務員小松田秀作と、彼のそばで口元を小さくほころばせている実技教師野村雄三。
そして。
明るく温厚な笑顔が似合う教科教師土井半助と、彼の後ろを平静を装いつつ懸命に追いかけている教師山田の息子・利吉。
その、二組だった。
* * * * *
どうやら山田利吉が父の同僚である土井半助に懸想しているらしいとは、本人は隠しおおせているつもりであったろうが、慧眼な教師陣のうち、気づいておらぬ者はおらぬほどのことで。
その恋心が単なる憧れの域を越え、もっと現実的な関係を求めた切実な色合いを帯びだしたものに変わったらしいとも、利吉の土井への接近の頻度を見ればわかることで。
……これで、落ち着くところへ落ち着くか。
野村は思った。
大木は三日に一度の、野村にしてみれば頻繁な割合で、夜を共に過ごそうと求めてくる。
来てくれと言い置かれて野村が杭瀬村を訪ねることもあったが、「待つのは性に合わん」と大木が学園に忍んでくることもあった。
取引は成立したのだと野村は思っている。
一夜の贖いに、職を投げ打った大木。
変わりに負わされた大きな負債を、野村は躯を差し出すことで帳消しにさせたのだ。
身を開くのは。心の自由を、「男子一生の仕事」の桎梏から購うため。
だからこそだ、あれほど抵抗があった「抱かれる」立場にも忸怩とせずにいられるのはと、野村は思っている。
心の自由を勝ち得た自分は、居心地の良さを求めて、ほっとあたたかくなるひとときを求めて、小松田の傍らを満喫することができる。
そして土井も。
応えぬ人を思う苦しさから開放され、真摯に求められる幸せを感じるといい。遊びで報われぬ恋の憂さを晴らすようなマネを続けるより、花も実もある恋の楽しさを、彼も知るべきだ……
小松田の傍らにいる自分。
そして、土井の傍らには山田利吉。
……これが一番、誰もが苦しみ少なくすむ。
野村はそう思う……
「待って下さい!」と、聞こえたような気がした。
実習準備中の裏々山。
野村は声の聞こえてきた方角を見やる。
と。
さほど高くもない崖の上から、茂みを破ってずざざざと、黒衣の男が滑り降りて来た。
滑り降りてきた男は、そのまま崖下の茂みに潜み、葉の間から野村を見上げる。
土井だった。
「待って下さい! 待って!」
必死な声とともに、崖の上からは、樹間を抜けるあわただしい足音が近づいてくる。
ざん!
やはり葉の間から、利吉が顔をのぞかせた。
崖下の野村を認め、はっとばかりに利吉の足が止まる。
野村の目の端で、土井が唇の前に指を立て、片目までつぶっている。
……そういうことか。
納得したところへ、
「……すいません、」
気まずさをはっきりと顔に刻みながら、利吉が言いづらそうに口を開く。
「あの…こちらに土井先生が……」
どうしようかと一瞬は思ったが。
「土井先生? さきほど誰か、崖上を走り抜けて行きましたが」
野村はしらを切った。
「助かりましたよ」
土井はにこりと笑いさえしながら、野村に言う。
その、意味ありげな笑いを直視する気にはなれなくて、野村は目を細める。
「……別に」
答える声は、自分でも意外なほど低く地を這った。
「感謝されるようなことだとは思わない。あなたは同僚で、彼は同僚の息子さんだ。縁の深いほうを優先しただけのこと」
充分冷たい物言いだったと思う。
だが、土井は笑みを崩しはしなかった。
「いえいえ。本当に助かりました。ありがとうございます」
頭すら下げてきた。
「利吉くんは最近少々、しつこいんですよ」
土井の声はあくまで明るい。
……明るいまま。
野村の背に、土井の言葉が続いた。
「本当に、ちょっとしつこくて。わたしが独り寝するようになってから」
ゆっくりと野村は土井を振り返った。
「仕方ないんですけどね」
土井は小さく肩をすくめる。
「本妻さんがカラダ使って取り戻しに来たら、愛人なんてヒマになるしかないんだから」
野村はかすかに眉をひそめた。
土井が発する厭味な空気は読み間違えていないと思うが、土井の台詞が読めない。
「……山田先生の奥さんが……?」
土井は大仰なほど、吹き出した。
「誰が山田先生の話なんかしてますか。第一、わたしは山田先生の愛人をしてたことなんか、ないですよ?」
山田先生にも失礼ですよそれは、と土井は続けて。
「あなたのことです」
笑いを収めて、野村を見上げてくる。
「あなたがカラダを使って大木先生を取り戻しに来たから、用なしになったわたしはヒマになってしまったんですよ」
「そういう話が」
野村は白く目を光らせる。
「わたしに対して失礼だとは思わないんですか、土井先生」
「失礼?」
野村が発した牽制にも、土井はひるむ色を見せない。
それどころか。
「あなたのように、卑怯で狡い人間に、なにをして、なにを言ったところで、失礼なことなどなにもないと思っていますよ、わたしは」
言い放った。
「卑怯? それは聞き捨てなりませんな」
野村の手は、忍び刀の柄へとかかる。
「あなたはわたしを卑怯者とおっしゃるか」
野村の殺気を受けて。
土井の腰が、わずかに落ちる。
……ひるまない、応えて殺気立つわけでもない。
土井はわずかに重心を落とし、野村の殺気を正面から受け止める。
「卑怯だから卑怯と言ったまで」
戦場の血生ぐさが、ふと野村の鼻先をかすめる。
野村が斬りかかれば、土井は太刀を返してくるだろう。
その末の流血沙汰を一瞬に野村に想起させる土井の目の色だった。
「……あなたを斬るにやぶさかではない」
言わずもがなを野村は口にする。
「謝りなさい」
最後通告のつもりだった。
土井の口元にはっきりと笑みが浮かんだ。
「なにをとも、なぜにとも、聞かないのですか」
笑みは嘲笑をはらんだ。
「だからあなたは卑怯だと言うんだ」
野村の一撃目を土井は後ろに跳びすさることで避けた。
「さすがに実技の先生ですね、太刀筋が鋭くていらっしゃる」
茶化すように言った土井が、次の瞬間、その面を厳しく引き締めた。
来る! 刀を構えなおした野村に、しかし、飛んで来たのは刀による一撃ではなかった。
「その半分の鋭さでいい。少しは御自分の胸の内に、切り込んでみたらどうですか!」
なにを、と野村が反撃を返す間もなく。
「自分が欲しいものは自覚しない。欲しがらないから傷つかない。だから周りの人間がみんな傷ついても、あなた一人、涼しい顔だ。それが卑怯でなくてなんですか!」
野村はひとつ、大きく息をつく。
……阿呆らしいと、思った。
刀を音高く、鞘へと収めた。
「結局、それか」
思い切りの侮蔑を、声に込めた。
「まったく。大の男が、色恋ばかりにとち狂い、情けないとは思わないのですか。つまらぬ色欲ばかりをすべてにして生きているから、世の中全部がそれで動いているように見えてしまうのですよ、土井先生」
「つまらぬ色恋……」
ゆっくりと土井は繰り返した。
「そうですよ、たかが色恋。つまらないことだ。だからこそ、逃げを打つあなたはみっともない」
「……みっともない?」
答えながら野村は自問する。
なぜ、自分はこんなばかばかしい場面に立ち会っているのだ?
色恋にとち狂い、己の落ちたドロ沼にはまらぬ人間を非難し挑発し、同じくだらなさに汚さに、引きずり落とそうとしているだけの相手の言うことを、なぜ、背も向けずに聞いている?
さっさとこんなアホらしい言いがかりには背を向けてしまえ。
なのに、なぜ自分はまだ土井と目を合わせたまま、言葉を返しているのか。
「たった今、みっともなく逃げ回っていたのは、あなたのほうじゃあないですか」
ああそれも。
こんな揚げ足取りのような……
馬鹿の相手はできないと。
背を向けもせず。
なにを相手の非をあげつらい、なにを自分を正当化しようと……
そんなマネをせずとも。最初からおかしいのは土井のほうと、わかっているのに。
……が。
土井の瞳が揺れた。
逃げたと非難された土井の瞳が。
そして野村は、またも背を向ける機を逸している。
「……利吉くんから、わたしが逃げていることですか?」
奇妙に、土井の声が波打って聞こえた。
「……逃げずに……じゃあ、どうすればいいんでしょうかね……」
「どうしようとあなたの勝手ですよ。ただ、そうして自分は逃げ回っておきながら、人のことを卑怯者だなんだと非難するのはおよしなさいということです」
なるべく冷たく、突き放したように聞こえるように、野村は土井に言う。
土井は小さく首を横に振る。
「ちがいますよ? わたしは、利吉くんから逃げているかもしれないが、自分の気持ちからは逃げてない。逆に……」
いいさして、土井は不意に言葉を切り、野村を上目遣いに見上げた。
「そうですね。野村先生は色恋に狂っていらっしゃらないんですよね。なら、教えてもらえますか。野村先生になら、冷静に判断がつくでしょう」
ずいと、土井に詰め寄られて、知らず、野村は一歩下がった。
「ねえ。野村先生。教えていただけませんか。色恋にまどわされない、冷静なお立場からのご意見というのを、お聞かせ願えませんか」
土井の瞳が、今まで見たこともない表情を映している。
……見たことはないが。
だが、その感情は、その狂おしい光は、いつも土井の中に渦巻いていた。
それが渦巻いて、土井の中に存在していることを、野村は知っていた、感じていたと思う。
だがまさか。そうだ、まさか。
それがこんな形で、土井の中からさらけだされてくるとは思ってもいなかった。
「うかがう前に、ひとつ、はっきり確かめさせていただきたいんですが」
土井の声は、いっそ明るい。
「野村先生は、わたしが好きな相手……ああ、これは正確な言い方じゃないと野村先生には言われてしまいそうですね、言い直します、わたしが抱かれたくて抱かれたくて、もう苦しいほどの相手が誰なのか、ご存知ですよね?」
とっさに野村は目の色を取り繕うことができなかった。
脳裏に浮かんだベテラン教師の渋みある笑み。
しかし、もしその場を上手に取り繕えたにしても。無意味だったのかもしれない。
土井は自分から手を横に振った。
「本当は確かめるまでもないですよね。あなたは気づいていらっしゃった。そして、想うばかり、片恋していることすら、わかってわからないフリをし続けるあの人に、それでも近寄ることをやめられないわたしを、時々、哀れんでいて下さった。
ええ、気づいていましたよ、あなたの同情にあふれた視線はね」
なぜ。と頭の隅で野村は思う。
なぜ、今。なぜ、わたし相手に。
土井は秘め続けていたものをさらそうとするのか。
「ねえ、野村先生。教えてくださいよ」
土井の瞳が狂おしい。
その瞳から、だが野村は目を離すことができない。
「彼は、あの人の息子なんです。ええ、それも野村先生もよくご存知のとおり。
それでなくても、悪い気はしないと思いませんか? あれだけ綺麗で、実力もある子に、好きだ好きだなんて、臆面もなく告げられたら……たいていの人間が有頂天になってしまうでしょう? ちがいますか?
わたしはね、うれしいんですよ。あの子に好きだと言われて、口説かれて迫られるのが。ねえ。それは当たり前のことじゃないですか? あれほど綺麗で男の目から見てもカッコいい子なんですよ?」
野村の喉はゆっくりと干上がっていく……
そんな野村の背中のこわばりに、土井は気づかぬのか。
その瞳はあくまで狂おしく、唇は途切れることなく、言葉を紡ぐ。
「おかしくないでしょう、ねえ? なのにね、なのにわたしはわからなくなってしまうんですよ。利吉くんは素晴らしい青年だ。懸想されてうれしいのは当然だ、そう思いながらね、わからなくなってしまうんですよ。
わたしが本当にうれしいのは、なんなんでしょうね?
綺麗で前途有望な青年に懸想される、そのことそれ自体? それとも、それほど熱心に口説いてくれる彼の気持ちが? それとも……ねえ、あの子は彼の息子なんだ。だから? だからわたしはうれしいんでしょうかね。彼が彼の息子だから。
ねえ。野村先生、わかりますか。わたしがいったいなにを喜んでいるのか」
そんなことは知らぬと、野村が口を開くより早く。
「逃げている……先ほど野村先生はそうおっしゃいましたよね」
土井の顔に、ほとんど肉体的な痛みでもこらえているかのような翳りが走る。
「逃げたくなど、ないですよ。ええ、もう、それほど望んでくれるなら、こんな躯、さあ好きにしろといつなり誰相手なり、くれてやります。
本当にね、ただ投げ出してすむなら、さっさと投げ出してやりたいんです。
でも……わからないままで、投げ出せるものでもない……そうでしょう?
ねえ。どうしてわたしは彼に応じようと思うんでしょうね?
追っても追っても手に入らない、つれない人の血を引く彼だから。だからわたしは彼の望みに応じようとしてるんでしょうか。どうやっても手に入らない、彼の代わりに?
それとも……冷たい冷たいあの人に、あてつけてやりたいから? だからあの人の大事な大事な存在を、この手につかんで引きずり堕としてやろうとしてるんでしょうか」
語り続ける唇が、毒をはらんでその両端を持ち上げた。
「……わたしが落ちている深みまで……彼を引きずりこんだら……あの人はいったいどんな顔をするでしょうね……」
もう土井は野村の言葉など待っていなかった。
そして野村も、土井をなだめる言葉も、止める言葉も、そして応える言葉も、持ってはいなかった。
切なさと痛みにまみれた自問は続く……
「……彼もだ……」
土井の呟きは低い。
「彼も、いったいどんな顔をするでしょうね……
あれほど純粋で一途な彼に……君は本当に父上に似ているねと告げたら……だからわたしは君に抱かれたかったんだと、もしもわたしが告げたら……
あの子はいったい、どんな顔をするのか……」
「怖いんですよ」
いつか、告げたくなってしまいそうで、と土井は呟く。
彼をもし、受け入れてしまったら。
きっといつか、告げたくなってしまいそうで、と。
「ねえ、野村先生。教えてください。彼はその時、なんて言うんでしょう?
それでもいい。あなたが今、わたしといてくださるなら。
そんなふうに言われたら、わたしはどうすればいいんでしょう?
ねえ、それとも……許せないと言われたら? あなたがほかの誰かに心を寄せるなんていやだと……そんなふうに言われたら……」
でも。と土井は疲れたようにうつむきながら、聞き取れないほどの低さで言葉を続けた。
「わたしはそれを望んでる……それでもいいなんて、言われたくない……」
土井はもう首を垂れ、質問の形をとった本心の吐露を、続けようとはしなかった。
重苦しいほどの沈黙が、野村と土井の間に横たわる。
さわりと、木の葉を鳴らして優しい風が吹いた。
のろのろと土井の顔が上がった。
「冷静で、色恋などつまらぬものと泰然としていらっしゃる野村先生から見たら……さぞかしアホらしいでしょうね。答えは、おまえらはバカだの一言ですか?」
力ない笑みは、やはり苦しい土井の内面が素直にさらけだされているものなのか。
「……バカとは、言わん」
ゴホ、と咳払いしてから、野村はようやくに口を開いた。
「バカとは言わんが……人はそれほどに人を想うことにのめりこむものではないと思うぞ」
土井が深く深くため息をついた。
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