氷花
−4−

 

そうして……長く息を吐き終えて。
土井は顔を上げた。

「そんなふうにおっしゃられたら……大木先生が、お気の毒でしょう」
土井の顔に浮かんでいるのは、物覚えの悪い生徒に繰り返し数式を解く順序を教えている時のような……諦め半分、苛立ち少々、そして……笑い。

苦笑、というヤツだった。

「わたしが見るところ……大木先生は、わたしなどが誰かを想うよりよほど熱く、野村先生に想いを募らせていらっしゃいますよ」

野村は眉間にしわを寄せた。
「俺の話はいい」

「そういうわけにはいきません」
応えた土井の顔は、いくぶん、常のものに近づいてはいたが。
それでも、ふだん学園の中で彼がまとう温厚さと明るさには、まだ翳りが強かった。

「……大木先生は……わたしにはとても都合のよい相手でした……」
話す土井の瞳が、最前の狂おしさほどではないにしても。
なにかを映して、妖しく燃え立った。

「好きなときに、欲しいものを欲しいだけくれる。お互い、見返りなんか期待しない、感謝もしない、責任も報酬も関係ない。ただヤレル関係」

それって男の理想でしょう、と土井は続けてうそぶいた。

「でも、」
土井の声が粘りを帯びた。
「わたしは、わたしのほうは、大木先生が好きだったんですよ。その関係はわたしにとっては単なる色遊び以上に、救いでもあったんです」
ねっとり語る土井の口調にひそむのは……恨みがましさ。
「それなのに」
口調だけではない。
今や、土井はその目にもはっきりと恨みの色を込めて、野村に視線を絡ませる。
「あなたがわたしに意地悪をなさるから。わたしは居心地よくて便利な場所を失ってしまった」

「……つまり」
野村は口の中に湧き上がる苦いものを飲み下しながら応える。
「どうでも俺を話の中に巻き込まずには置かぬということか」

土井の瞳が一瞬、その恨みがましさも粘つくものも消し去って野村を見た。
「わたしはあなたにも、御自分に正直になってほしいだけですよ」

「だって」
土井は笑った。
「野村先生は大木先生とわたしがいるとあれほどの殺気を放ってらっしゃったのに。その男は俺のものだ、近づくな、そうおっしゃってみえたのに。
いざ、わたしから取り上げて独り占めなさったら、今度は、これは俺がほんとに欲しいものではなかったんだなんて顔をなさる。
これはかなり腹立たしいことだと思いませんか」

「俺はそれほど物欲しそうなカオをした覚えはない!」

「気をひくためだか、本当に勘違いなさっているのか、」
噛み付くように返した野村の言葉を、土井はあっさり無視して続けた。
「ほかに気があるフリまでなさる。これではいくらわたしでも腹が立って当然でしょう?」

「フリ?」
野村が不審げに返した問いに、
「小松田君のことです」
土井はほかに誰がいますかと言いたげだ。
「ああ、それとも。野村先生は卑怯者だから。ご自分にも平気で嘘をついてみえるのかな」

嘘? フリ? 
野村はきつく眉根を寄せる。
小松田のことをそんなふうに言われるのは心外なばかりだった。

「土井」
呼び捨てた。
「嘘でもフリでもないと、おまえ相手に強弁するつもりはない。しょせん、人の心の機微など、他人にわかろうはずもない。おまえがどう誤解していようと、俺はわざわざ俺の心はこんなだと、おまえ相手にさらすつもりもない。だが、これ以上の卑怯者呼ばわりは許さんと、それだけは言っておく」

「……わかりました」

土井は頭を下げて見せた。だが、その瞳はそれが装った承諾だと告げて、毒といわくありげな光をひそめている。

「でも不思議ですね。小松田君、あの子、まだ人肌を知らないじゃないですか。ああ、あれですか、大切すぎて手が出せないっていう、アレですか。ご立派ですね、野村先生は本当に。おや、口付けもまだ? 野村先生は、よほど小松田君に御執心でいらっしゃるんですね、野村先生があの子を見ている目にも、毛ほども、いやらしい劣情なんかありませんものね」

きっと、と言葉をついだ土井の声が。
低くなった。

「それほどの相手だ。
もしも、野村先生が戦場に立つことがあるなら。その背を小松田君に預けたいと願っていらっしゃるんでしょうね。いっそ、敵の刃にもろともに散りたいとすら、夢見たりしてらっしゃるんでしょう?」

瞬間に。
野村はこぶしを握りこんだ。
……なにを、言う。なにを。
俺の目に、劣情がない? 当たり前だ、色だ恋だと狂うバカどもと俺を一緒にするな。
その上……なんだと?
……戦場に立つ時? 背中を預けたい相手? もろともに……散っても悔いのない相手?
……なにを、くだらないことを……
野村は、こいつは色ボケた馬鹿なのだと思う。
思おうとするのに。
土井の言葉は鋭く野村の胸にえぐりこんでくる。
痛みなのか、重さなのか。
握ったこぶしで、野村はその衝撃に耐えようとする。

「当然、」
土井の瞳が、いやな光り方をして野村の目をのぞきこんできた。
「野村先生はそういうことまで考えていらっしゃったんですよねえ?」

「むろん」
と答えたのは、嘘だった。

土井の口元に、あるかなきかの笑みが浮かんだ。

「そうですか。それほどに野村先生が小松田君のことを思っていらっしゃるなら、見当違いな非難をしてすみませんでしたと、謝らなければ。大木先生には気の毒ですけど」

「…………」

答えない野村に、土井の笑みはくっきりと色鮮やかになった。

「仕方ありませんね。わたしが山田先生に振り向いてもらえないように。利吉くんがわたしを追って駆け回るように。人の恋路は思うようにならないほうが多いんだ。大木先生も気の毒ですけど、仕方ない。
 でもね、」

もういっそ、あでやかといえるほどの笑みを、土井は浮かべた。

「大木先生には優しくしてあげてくださいね。せめてね。想いがほかにあったとしても。優しくはしてあげてください。
 でないと、あんまり気の毒だ。
 大木先生は土下座までしたのに」

土下座?
その言葉に野村は目を見張る。
土下座? 大木が? 誰に、なんのために。

微笑んで土井は、声ない野村の問いに答える。
「大木先生は、わたしに土下座なさったんですよ。手切れ金代わりにね、わたしと切れたければ、土下座してくれと言ってみたらね」

「……おまえは……」
野村の声は喉の奥に引っかかる。
「……おまえは……大木に……土下座させたのか…?」

答えたのは、あでやかな微笑と、艶を含んだ流し目。

「どうしたんです、野村先生? 声が震えていらっしゃる」

野村は再び、刀の柄に手をかけた。
手の震えはそこで止まる。
しっかりと、柄を握った。

「……今度こそ、斬るぞ。去れ」

「おーこわい」
バカにしたような、笑いを含んだ声に、野村が抜刀したときには、土井はもう間合いの外まで飛びのいている。

「学園に戻られるまでに、頭を冷やしておいて下さいね」

どこまでもどこまでも。
人を小バカにしたセリフを残して。
土井はすっと木立へ姿を消す。

野村は歯噛みしながら、刀を鞘に落としこんだ。

 

 

 

 

学園に戻った。
食堂で、一年坊主どもと笑い合う土井を見ても、もう斬りつけたくなる衝動は起きなかった。
ただ、胸にわく苦々しさはどうしようもなくて。
野村は視界から土井の姿を締め出した。

あれは阿呆のたわ言だと思う。
色呆けだ、まともに取り合う必要などないと。

だが。
衝撃とともに、胸に食い込んだ土井の言葉は。
「阿呆のたわ言」と流そうとして、流しきれない。

ふと気づけば。
食堂の隅に、小松田秀作がいる。
食堂の隅の、目立たぬ席に……濃緑の制服と隣り合って、掛けている。

……小松田を見る目に、劣情がないと言われた。
現に。こうして空いた席を探そうと食堂全体を眺め回すまで、自分は小松田の存在に気づかなかった。
吸い寄せられるように目が行ってしまうと、恋に狂う者は言いはしないか。
そして。
小松田の隣にいるのは……あれは、六年の善法寺伊作だろう。
笑い合う二人を、よく見かける。
その二人に……自分は悋気を起こしたことがあったろうか。
二人の間に、なにかあるのではないかと悶々としたことがあったか?
夜、小松田の躯を思って、火照ることが、あったか?

そんなのは。つまらぬ色恋に溺れる馬鹿者の痴れ事だと。
片付けたいと思うのだが。さすがに、好いた惚れたとヤキモチは同じ気持ちの裏表であり、好きだと思えば惚れたと思えば、その相手の肌に焦がれるものだということも……野村は知っていた。

もともと、と野村は虚勢を張ってみる。
小松田に恋したと、思っていたわけではない。
ただそのあたたかさに、やわらかさに、浸っていたいと思っただけで。
守ってやりたい、かばってやりたいと、感じただけで。

それは……

「おや、箸が進まぬようですなあ、野村先生」

野村の物思いは正面から掛けられた声に破られた。
見れば、自分の盆の上のものはまだほとんど手つかずのまま、冷めかけている。
「どうかなさいましたか」
盆を置き、向かいに座った山田伝蔵の、おだやかな顔を野村は見る。

……あの土井に、苦しい片恋を強いている相手。

では土井はと、また野村は思いに沈む。

この伝蔵となら、戦に散ってもよいと思うのだろうか。
散りたいと、願っているのだろうか。

「……本当に、どうかなさいましたか」

再び問いかけられて、野村は顔を上げた。

「いえ……ちょっと」
言葉を濁す。
今まで……気づいて、気づいていなかったことども。

背なを預けて戦う。
共に散っても悔いない相手。

家を継ぐために、子を為すために、夫婦の契りを交わす、男と女ではない。
子孫繁栄を願い、生活を共にすることを契り、それを祝福される、男と女ではない。

男と男。

戦場で生きる、侍であり、忍びである、男。

そんな男同士が、契りを交わせば。夢見るのは、ともに散るその一瞬。
先に待つのは、ともに、散華。

故郷に待つあたたかさが欲しいなら。
やすらげる、その憩いの場が欲しいなら。
最初から、女を娶る。

男が男に惚れるのは。
命をやりとりするその一瞬に、傍らにいてほしい相手だからだ。
敵に、あるいは運命(さだめ)に、立ち向かうその背中に、惚れるのだ。

……おまえが言いたいのは、そういうことか、土井。
それほどの覚悟が、小松田に対してあるのかと。
……そういうことか、土井。
男が男に惚れる意味。
知っていながら、気づいていなかった。いや、考えようとしなかった。……考えたく、なかった。

俺が卑怯者だと言った。
それは、これか、土井。
小松田にやすらぎながらも、その肌に狂うこともなく、武士(もののふ)として契りを結べる相手なのかどうか、突き詰めることもなく。
……俺が逃げているというのは……これか。

顔を上げた。
「すみません、山田先生」
はい? と山田も汁椀から顔を上げた。
「これからどうしても、出掛けたいところがあるのですが。当直を代わっていただけないでしょうか」
言ってから、野村は気づく。
「そうだ。土井先生におっしゃっていただけませんか。わたしに当直を押し付けられたと。たぶん、土井先生がまた代わってくださると思います」
山田は、考え深げな視線を野村に向けて、
「……いいでしょう。引き受けますよ」
うなずいた。
「ありがとうございます」
頭を下げた野村に、
「しかし膳のものまでは手伝いかねますぞ? お残しは困ります」
山田が作ったしかつめ顔で釘を刺す。
「大丈夫です、これはきちんと片付けてから、出掛けます」
野村は笑い、膳の上に箸を伸ばした。

 

 

 

 

杭瀬村への道を、ゆっくり歩いた。
月が昇りきってしまってもかまわぬと、ゆっくり歩いた。

大木に、会わねばならぬと思っていた。
会わねばならぬ。
会って。

確かめねばならぬ。

だが、どうにも気は進まない。
確かめて。その先は、いったいどうなると言うのだ。
……バカらしい。
野村は歩きながら眉をひそめる。

それでも、「卑怯者」呼ばわりは許せない。
向き合わねば、「卑怯者」のそしりを免れないというならば。
おう、向き合うてやろう。

葛藤に、野村の足はますます、重い。

いつもの倍の時間がかかったろうか。
夜半。
大木の家に着いた。

とん。
木戸に、軽くこぶしを打ちつける。
それを待っていたかのように、内側から戸が開いた。

「おまえか」
大木は少し驚いた顔をした。
「別の人間かと思うたわ」

「……考え事をしながら、歩いてきたからな」

「考え事?」
問い返しながら、まあ入れと肩を開いた大木の前を通って、野村は屋内へと踏み入れる。囲炉裏の傍にあぐらをかいた。
「おまえと違ってな。俺にはいろいろと考えることがあるのだ」
「わしと違う、は余計じゃ。こう見えて、わしも始終、頭は働いておるわ」
「らっきょの栽培法についてか」
「この世の森羅万象、形あるものなきもの、その不可思議についてよの……」

「大木」
軽口の応酬を打ちきって、野村は大木を見る。

「では、おまえは考えたことがあるか。戦場で、誰に背中を預けられるか、誰とともになら、散って悔いなしと思えるか」

「……そんなことか」
大木はぼりぼりと首筋を掻いた。
「そんなことならな、考えたことなどないわ」

ふっと大木は爪の先を吹く。

「考えるまでもないことじゃ。おまえ以外に誰がおる」

野村は目を閉じ、うつむく。

「……俺か」
「おまえじゃ」

野村雄三だけじゃ、と大木は呟く。

月の光が、じり、と床に落ちる影を伸ばす。

「……で。なんじゃい、おまえは。そんなつまらんことを聞きに来たのか」

沈黙を破ってくれた大木に、野村はまた目を上げる。

「……おまえはほんとに人の話を聞いとらんな。考え事をしながら来たと言っただろうが」

野村はひとつ、溜息をつく。
考えて、ここまで来た。
だが、それを口にする、なんという面映さ(おもはゆさ)。

「……俺はな……」

話しかけては言葉を切る。
大木はせっかちなこの男には珍しい静けさで、野村の言葉を待っている。

ごほ、と咳払いした。
「……俺はな、考えたのだが…俺も、戦で命をともに賭けて戦う相手は、おまえしかおらんと思うのだ」

大木の表情は変わらなかった。
「だろうのう……」
不精髭のあごをさすりさすりうなずかれては、なんだか言いよどんでいたおのれが阿呆のようで、野村は大木をきりっとにらみつける。

「だろう、とはなんだ、だろう、とは。おまえは俺の気持ちがわかっていたとでも言うのか!」

「……気持ちを…わかっていたとは言わんが……」
ぶちっと、髭の一本を抜いて、ふっと吹き、大木は口元を歪める。
「わしはいつも……おまえとの間に、なにか絆のようなものを感じておった。初めて会うた時に……ああこいつはと思い……それからもなあ。
 そうじゃないか、野村?
 おまえは、感じんかったか」

言われて思い出すまでもない。
……野村もまた、出会いの最初から、感じていた。
大木は、同じことを痛みに思い、同じ道を選んだ、男だと。
男としての立ち方、生き方、己を律するその枷の背負い方まで。
誰にわからずとも。
この男ならと。
高い技量、高い志。
戦場で、己の背中を預けて戦えるのは……この世広しといえど……
お互いを認め、そしてお互いにそれを知っていた。
それは、確かに絆と呼べるほどのもの。

「……抱かねば、よかったんじゃろうのう……」

大木が、口元を笑いに歪めたまま、低く、自分自身を嘲笑うように呟いた。

「肉の交わりなどな。求めるわしが悪いのよ。……そんなな……穴があればすむような話を、おまえに持ち込んだ、わしが悪いのよ……」

野村は大木を見つめる。
ここしばらく。
抱かれた相手。
感じてなどやるものかと。
なにも伝えられてなどやるものかと。
躯を与えればそれでよかろうと、心は開かぬままに、肌を重ねた男を見つめる。

それでも。肌をすべる手は、いつも熱かった。
重ねられる唇は、いつも……。
「雄三、雄三」
繰り返し呼ぶ声は震えてはいなかったか。
閉ざした心でいても。それでも。
己を抱く大木を、女を初めて抱く少年のようだと思った、飢えた人間のようだと思った。

それを、悪かったと、大木は言う。

「……殊勝なことをぬかすのだな」

野村の揶揄に、大木はまた苦く笑う。

「わしは阿呆でのう……おまえが、そうじゃの、一生に一度会えるかどうかの……おまえに殺されるなら悔いはないとまで言えるほどの相手とわかっていながらなあ……下世話な意味でも、おまえに惚れちまってなあ……。
 しょうがねえわなあ。
 意気に感じる男が、これまたわし好みの別嬪サンときちゃあ……むしゃぶりつきたくもなっちまうだろう」

「ドあほう」
野村は乱れそうになる呼吸を隠して、大木をののしる。
「尻がこそばゆくなりそうなことを言うかと思えば、そこへ行くか。恥を知れ」

「恥は、知っとる」
大木はうつむく。
「だが、止まらん」

人を、力ずくでモノにした、過去がある。
今も、躯だけと知りつつ、求めてくる。
それを……「悪かった」と詫びながら。しかし、それでも止まらぬと。
呟く大木は……確かに、色恋に囚われた阿呆だと野村は思う。

「土井に……土下座したのか」

おまえは、そこまで阿呆か。
野村は尋ねる。

大木が顔を上げた。

「土井が…」

間があった。大木は口重く言葉を切り、また、ゆっくりと言葉を継いだ。

「話したか」

乱れた呼吸を一度は飲んだのに。
また、野村の息は、荒く乱れそうになる。
震えをこらえ、息をのみ、こぶしを握り。

「本物の阿呆か、おまえは。男としての自恃もないのか」
目頭がうっすら熱くなるのを、野村はまばたきでこらえる。
「なぜ、そんな阿呆な真似をする。あんな若造相手に…おまえは阿呆だ、本物の阿呆だ……」

土井が、この大木に土下座をさせたと聞いて、瞬間、本気で斬りたいと思った。
そこまでさせた土井に。この、構いつけぬふうに見えて、本当は誇り高い男に、そこまでさせた土井に。
闇雲に腹が立った。

「なぜ…」
大木は考えるふうだった。
「……けじめ、じゃろう。わしは、もう、土井を抱けん」

「阿呆!!」
怒鳴っていた。

「おまえは本物の阿呆だ! そんな理由で誰が土下座などする! おまえは阿呆だ!!」

怒鳴りながら、野村はうつむく。
目頭の熱さを抑えようと、指を当てた。
その指は……熱い液体に濡れる。

「阿呆だ!」
野村は怒鳴る。
その指は、涙に濡れる……

「……そうだな。阿呆だな」

声が近づいてくる。

「肉の交わりなどなくともな……おまえとなら、どこへでも行ける、いつまでも傍らにいられる。……なのにな。抱かずにおれん、わしは阿呆だ。
 だけどなあ、雄三。わしは土下座を阿呆とは思わんぞ? 野村雄三を抱く、ほかのヤツは抱かん。そのけじめのためになら、わしは何度でも、土下座する」

「……あほう……」

最後の罵倒は、高くかすれた声になった。
間近ににじり寄ってきた大木が、目頭から野村の手を引き剥がす。

「そうあほう、あほう、言うな。カラスかおまえは」

間近で笑う大木の顔には、不精髭が生えている。
ぼさぼさの髪。
日に焼けてごつい肌。
豪放磊落。
無粋で、わがまま、子供っぽい。
しかし。優しさも、あたたかさも、持っている男。

野村は、うつむいて目を閉じる。
顔など見られたくもなかったし、顔を見て言えるとも思わなかった。

「……阿呆は、うつるのかもしれん」

ようやくそれだけを言ったのに、傍らの男は動く気配も、言葉の意味を尋ねる素振りも見せない。

野村はなかば自棄になって顔を上げた。

「俺もおまえに惚れとるのかもしれんと言ったのだ! わからんか、阿呆!」

言い終わるより早かったような気がする。
野村は大木に抱きつかれ、押し倒されていた。

 *  *  *

「かもしれん、と言っとるだろう」
「雄三、雄三…」
「かもしれん、と……いうだけだ……」
「雄三…おまえ、熱があるか? …熱いぞ? …ここも、ここもじゃ…」
「歩いて…来たせいだ……今夜は…いつもより、暑い…せいだ……」

「……雄三」
大木の声が笑う。
「おまえも、阿呆じゃのう」
なにを、と聞き返そうとした野村の声は喘ぎに変わりかけて、野村は慌てて声を飲む。
「つまらん言い訳しとるより、わしのせいと言えば早かろうが」
そうか、とぼやけだした頭で思い、野村ははっと気づいて顔を上げる。
「なにがおまえのせいだっ! 阿呆!!」
胸に伏せられた大木の頭を殴りつける。
その手には、もうほとんど、力がはいりはしなかった。

 *  *  *

雄三。
まどろみの中、声がしたような気がした。
わしはうれしいのよ……
おまえは溶けぬ氷のような気がしておった
ようやく、溶けたよな……

阿呆。
動かぬ唇で、呟き返した。

 

 

 つづきへ

 

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