氷花
−5−

 

まどろみから醒め、共寝の夢から醒め。
枕元にある眼鏡を探り、腹這いのまま、耳に掛ける傍らの人。
黒髪が流れかかる肩を撫でれば、
「やめろ。うっとうしい」
声は冷たく、横顔はちらりとこちらを見もしないが。
「朝だ。起きるぞ」
わざわざに言い置く白皙の麗人の、その表情に今までにはなかった、こわばりがある。
「ようやくの相愛の褥じゃぞ? そう照れんでもゆっくりすればええじゃろう」
こわばりはその言葉に瞬時に崩れ、野村の顔にさっと赤みと羞恥に似た表情が浮かぶ。
「うるさいわっ! 誰が相愛だっ!!」
図星はさすがにまずかったと見えて、大木は寝起きに肘打ちを食らうことになった。

大木がいくら引き止めても、野村は朝は学園で食べると言い張った。
「向かい合ってメシなど食えるかっ!」
怒鳴るようなその声も、耳まで真っ赤にして言われては怖くもないが、さすがに朝から一度も視線を合わせてもらえないのは気になって、大木は静かに大きく、息をつく。
「……夕べの言葉は、取り消したいか?」
そそくさと戸口へ向かう背へ問えば。
声は、低く低く。
今まで大木自身が沈んでいた深淵を思わせる暗さになった。
「…………」
振り返らない野村の、後ろ首までが赤く染まった。
「……阿呆か、おのれは」
搾り出すような声だった。
「……武士に二言はないという言葉も知らんか」
「わしら、忍びだしな」
野村は初めて大木を振り返った。
「取り消しだ! おまえなど、大嫌いだっ!」

大木は腕を伸ばして野村を捉える。
手首をつかみ、引き寄せて、胴を抱いた。
「離せっ!」
「離さん」
夕べの名残りを引き出したくて。あれは夢まぼろしではなかったと確かめたくて。
大木は野村の唇に吸い付いた。

吸われれば。野村の唇は大木の舌を迎えて、すぐにやわらかく開いた。

朝の光の中。
口付けは、昨夜の行為の熱さをしのべる、激しさと濃さになった。

「……だから……」
口付けを終えて、野村はぎゅっと眉根を寄せて下を向く。
「……俺に、言わせようと……してくれるな」
夕べのことは、夢でも幻でも、嘘でもない。
こうしておまえの唇を、俺はあさましくも、喜んで受け入れる。
ただ、言わせようとしてくれるなと。
言外の言葉を受けて、大木は腕の力をゆるめる。

「……また、来る」
野村は戸口で、精一杯の言葉を残した。

 

 

足早に去っていく野村の背中を見送り、そして、今日の晴天を約束するおだやかな朝の高い空を、大木は見上げた。

さて……会わねばならん……

口の中で、呟いた。

  *   *   *

火薬庫の一隅に陣取り、授業で使う火薬の調達に余念のなかった土井は、背後で閉まる扉の気配に振り向いた。

「おや。こんにちは」

にこやかに土井が笑いかけた相手は、しかしむっつりと唇を尖らせている。

「どうしたんです? 仏頂面をしていないと、鼻の下が伸びてしまって大変ですか?」

言われて大木はますます唇を突き出した。

「ゆうべの野村先生の当直を代わったのはわたしなんです。野村先生も、今朝はずいぶんすっきりと、一皮むけたような顔をなさってましたが」

土井の、知っているぞの台詞に、大木は眉までしかめて見せた。

「やっぱり、けしかけたのはおまえだな」

「けしかけた?」
土井は心外そうに目を丸くする。
「そういう言いようをなさるんですか? わたしはほんのちょっと、野村先生が見て見ぬふりのご自身の本心というものを、見えやすくして差し上げただけだと思っていますが」

「嘘までついてか」

火薬の箱を開いていた土井の手が止まった。

「わしがいつ、おまえに土下座した」

土井はぱたんとふたを閉める。

「……やっぱり話されてしまいましたか」

かすかに躯を斜めにしたまま、振り返る土井の顔には笑みがある。

「あまり腹が立って、どうしても追い詰めてみたくなってしまったんですよ。
こちらはきちんとなぜ腹が立っているかとまで話しているのに、野村先生、聞く耳を持たないから」

「それで?」
天窓からの光に、顔の半分を影に沈ませ、土井は笑う。
かすかな寂寥が、その影に漂う。
「つまらん嘘をつくなと、わたしを怒りに来たんですか? いいですよ、どうせもう、あなたとは終わってる」

「……怒りに来たわけではないわ。その嘘がなかったら、こういうことになっていたかどうか、わからん」

「でも、ありがとうと言われる雰囲気でもなさそうだ」

茶化すように軽く肩をすくめた土井に。しかし大木は正面から顔を向けた。


「わしはな……おまえがどういうつもりであったにしてもな、」
話す声は、この男にしてはひどく生真面目な調子に堅い。
「野村雄三を……嘘で手にするわけにはいかんのだ」

ゆっくりと。
大木の膝が曲がる。
膝が地に着く。
そして、これもゆっくりと。
両手が、地に着いた。
腕が、大木の上体を支えて、折れてゆく……

「わしの、けじめじゃ。受け取ってくれ。土井」

頭が。
地に向かって、下がってゆく。
地に、膝を折り、手をつき、身を伏せて。
這いつくばって、大木は額を土に擦りつける。

「わしのけじめを、受け取ってくれ」
声は、地に吸われてくぐもる。

大木は、平蜘蛛のように地に這い、土井に向かって頭を下げる。

「……手切れ金代わりに……あなたに土下座させたいと……」
ややあって。
大木の上に流れてきた土井の声は、掠れていた。
「それは……わたしの願望でした……」

ゆるゆると顔を上げた大木は見る。
うつむいた土井の肩が、かすかに震えている。

「でも……わたしは、今、初めて……野村先生を憎いと思う……」

大木は、額に砂をつけたまま、目を閉じる。

「なら、わしを殴れ。野村が憎ければ、わしを殴れ」

ぷっと土井が吹き出した。
肩がまた、大きく揺れた。

「いやですよ! ごめんです!」

影で、土井の瞳は見えない。
ただ、光のあたる口元が。
笑った。

「なにを好き好んでこれ以上、自分からみじめにならなきゃならないんです」

いやですよ、もう、と土井は呟く。

「すまん」

大木は一言、詫びたのだった。

 

 

 

 



もう、日暮れ時だった。
夕方の冷たい空気が、肩をすくめさせるような。

そんな……薄暗い夕刻に。
山田利吉の想い人は、火薬庫の入り口に、ぼうっと腰掛け宙を眺めていた。

「……土井先生」

いつもは、こちらが声を掛けるより先。
先手を打つように、明るく無邪気な笑みを浮かべ、
「やあ、利吉くん」
手を振る人が。
今は、掛けた声に、うっそりと首をめぐらす。

「……利吉君か……」

「どう、なさったんです?」

いつもなら。
如才ない会話運びでこちらを煙に巻く、その人が。
薄く笑って、うつむくだけで。

「……土井先生……?」

近寄って、膝をつき、その顔をのぞきこんだ。
また。逃げられはせぬか、不意に立ち上がって明るくいなされてしまうのではないか。
利吉の怯えにも似た予測ははずれ、土井は暗い瞳をかすかに伏せただけだった。

「どうかなさったんですか…?」

そっと、払いのけられはせぬかとおずおずと、利吉は土井の膝に手を乗せた。

「……どうして?」
初めて土井のほうから、問いかけられた。
「食堂に行って、食事をしてきたら? 湯殿へ行って、汗を流してきたら? わたしなんか、かまわずに」

きゅっと、利吉は土井の膝に置いた手に力を込める。
「……食事より風呂より……あなたのそばにいたい」

「どうして?」
土井が問う。

「あなたが好きだから」
利吉が答える。

「……じゃあ……」
土井が、いつもの笑みにまぶしたそれではなく、いっそ沈んでいると言える瞳を、利吉に向けた。

「わたしが君と寝てあげると言ったら……」
土井はかすかに首をかしげる。

「……君は……土下座する?」

「します」

利吉が即答する。

「……じゃあ……口付けてあげると言ったら?」

「します」

「じゃあ……手を握るだけだと言ったら?」

「します」

「じゃあ……触りはしない。でも、君に微笑みかけてあげると言ったら?」

「します!」

利吉は土井の膝に抱きついた。

「……します、します! あなたがわたしを見てくれるなら……!」

いいえ! 自分の言葉を即座に否定して、利吉は顔を上げた。

「なにも……なにも、あなたがしてくれなくても……ただ、ただ! あなたが望むなら……わたしは何度でも……!」

土下座します。

土井に、もう笑みはなかった。
顔をそむけた土井の手が、膝の上の利吉の手を、握り締めた。

 

 

 


それから……学園の中でよく見かけられるようになった二組は。

元忍術学園教師大木雅之助と、彼のそばでむっつりと渋面を崩さない実技教師野村雄三。

そして。

明るく温厚な笑顔が似合う教科教師土井半助と、彼の隣で時折、彼の横顔を心配げにのぞきこむ教師山田の息子・利吉。

その、二組になった。

  *  *  *

「な、なんれふか!」
土井が利吉の鼻をつまみあげている。
「何度言ったらわかるんだ。迷惑だよ、そんなふうに顔色をうかがわれるのは」

「だって!」
鼻を押さえて利吉は抗議する。
「あなたがまた泣いてるかもって…!」
土井は、今度はピン!と利吉の額を弾く。
「あの時はどうかしていただけだと言ったろう」

すげない土井に利吉はめげない。
「あの時ってどの時ですかっ! 火薬庫の前でわたしの手を握った時!? それともその後、船宿で…ぐ!」
土井の手の平にあごを押し上げられて、利吉の声は途切れる。

「学園の中でこれ以上、不穏当な発言をするんじゃない」

だがやはり、利吉はめげない。
「なんでそう、突っ張るんですかっ!」
応えは土井の冷たい横目。
「あいにくと。こちらが地でね」
「嘘だ! わたしはもう知ってる! あなたがどれほど優しいか!」
ふふん、と土井は鼻で笑う。
「へえ。優しい? じゃあその人は夜も優しく応じてくれるんだ? 君の希望通りに?」

さすがに利吉の頬にさっと赤みがさした。
ほらごらん、と土井は軽く肩をすくめる。

「わたしは優しくない。たった一度寝ただけでそう思い込めるのは、君が若すぎるせいなんだよ」

「ちっちがいますっ!」
利吉は激しく首を横に振る。
「本当に冷たい人が。泣きながら誰かに謝るなんて、できません!」

わたしは覚えてる。利吉は言う。
「あなたは謝ってた。わたしに、何度も!」
「だからそれは…」

「ずっと! あなたが誰にも笑うように笑ってくれていた間は……あなたは冷たい高嶺の花だった。でも、わたしはもう知ってる。あなたの優しさもあたたかさも」
そして利吉はそっと付け加えた。
「寂しさも」と。

「だからそう思い込めるのは」
土井は眉を寄せ溜息をつく。だがその息は、最後に小さく震えるのだ。
「君が若すぎるせいだって」

「そうです、若いです」
利吉はにこりと笑う。
「だから。待てます。あなたが誰よりわたしを好きになってくれるまで」

 

 

そして――

 


こちらにも。つれなくあしらわれても、冷たい言葉を浴びせられても、意に介さない男が一人。

「……だから! うっとうしいと言うとるだろう!」
野村の声は低く地を這い、通じぬ怒りに震えんばかりだ。
「なーにも、そう照れんでも」
「誰が照れとる!! 俺は! 真剣に! おまえが! うっとうしいんだ!」
「……おまえは怒鳴る時も、顔が崩れんのだのう」

野村の懐剣が大木の胸元へと伸びた。

「おお、危ないじゃろう」
それでも大木は悠然としたものだ。
「こういうきわどい一撃を避けられるのも、わしらの相性のよさだと思わんか」

「……一度とは言わん。二度でも三度でも死んでこいっ!」
野村に今度は忍び刀を振り回されて、大木は飛びのいた。

そうして昼間、手ひどく追い払われても。
夜になれば、また……野村の傍らには大木が寄り添う。
「……ひっつくなと言ってあるはずだ」
野村の言葉は昼と変わりないが、その声音に微妙な、艶と呼べるものがかすかに滲んでいる。
「うっとうしいか?」
笑う大木の声も、どこか隠微だ。

「わしもなあ。少々、浮かれておるよなとは思うとる」
苦笑う調子の大木に、野村はふと目を上げる。
「うれしくてたまらんのじゃ。なあ。わしが何年待ったと思う?」
「……過ぎた年月を数えるのは、年寄りの仕業だぞ」
大木は笑う。
「出会うてから、ずっとだ。ずっと…わしはおまえをただ眺めているだけだった。思い切って触れてもな、冷たいばかりで……」
「恨み言か」
「いや」
大木は野村の頭に腕を回し、引き寄せる。
「うれしいと、言いたいだけじゃ……」

     恋する人間にとって。
     恋しい人は、いつも、花。
     眺めるばかり、手折りたくても、届かない。

     触れたくて。手折りたくて。
     指先だけを、ようやく伸ばす。
     そして。
     怖じる。
     恋する花の冷たさに。

     恋する人間にとって。
     恋しい人は、いつも、氷花。
     掌の中で溶け、至福のときを過ごせるのを。
     ただ夢見るばかり……

                     

氷花・了

あとがき

 

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